甘くて、ほろ苦くて、どうしようもなく涙が出る(後篇)
バレンタインと好きな人。それから本命のチョコレート。
そんな歯の浮くような単語ばかりを意識しているうち、あっという間に時間が過ぎてバレンタインデー当日がやってくる。
「
色気のないタッパーに詰められたブラウニーを摘まみ、
「これもめっちゃ高級な味する」
「高級な味ってどんな味よ」
わらわらと集まってくるクラスの女子たちと持ち寄ったお菓子を食べ合って、これも美味しいあれも美味しいと言い合って。男子たちには「お返し期待してるね」なんて冗談交じりの圧をかけながら餌付けをして。授業にやってきた先生は少し顔を顰めるけれど、誰かが「せんせーのぶんもあげよっか」なんて声をかければ、甘いものの誘惑には勝てないらしく、顰めた顔のまま「うん、美味い」なんて笑顔を溢す。
お菓子ってすごい。砂糖って偉大。
私たちはほんの少しだけ特別で、いつもよりちょっとだけ幸せ。
ちなみに完全に余談だけど、私が作ってきたブラウニーは
「ねえねえ、
「放課後に約束してる」
「ふぅーっ、青春じゃん!」
明音と佐羽の会話を聞きながら、やっぱり私は佐羽をいいなと思う。自分の気持ちに素直になれる佐羽はすごくきれいで可愛かった。
実を言うと、私も鞄のなかにもう一つだけ小包を忍ばせている。色気のないタッパーなんかじゃなくて、デパートで時間をかけて選んできたラッピングに包んだブラウニー。
清水くんに渡すかどうかは置いておいて、用意だけはしてみた。
もしかしたら進級して以来ぱったりとなくなった話す機会があるかもしれないし、今年は意外とチョコを貰えなくて少しがっかりしているかもしれない。何かがどうかして、ついでみたいに渡せるチャンスが来るかもしれない。もしかして、かもしれない。そういう勝手な想像と妄想と願望だけを積み重ねて、私は清水くんのブラウニーを用意していた。
もし無駄になったらお父さんにでもあげよう。
その程度、出来心と呼ぶにふさわしい軽い気持ち。
昼休み。明音たちとトイレに行く途中、二組をちらと覗いてみる。
清水くんの席の横には紙袋が下がっていて、まだ放課後を残しているというのに既に溢れんばかりのチョコレートが入っていた。
ほらね。やっぱりね。私の出番なんてないんだよ。
私は心のなかで独り言ちて、鞄に忍ばせた恋心を忘れることにする。
思えば去年は何かのついでであるかのように誤魔化して、大量生産のチョコレートを清水くんにもあげたような気がする。クラスが違うというだけで、ちゃんと気持ちを込めるだけでこんなにも渡すのが難しいなんて、思ってもみなかった。
トイレの鏡の前で涙目になっている私は「目にゴミ入ったー」なんて黴の生えた言い訳を口にして笑いながら、アイラインを引き直した。
◇
お菓子パーティーが楽しかったぶん、そのあとの授業はなんだかふわふわした浮いた気持ちのまま時間が過ぎていった。
あっという間に午後の授業も終わり、放課後がやってくる。彼氏とのデートに向かう明音と寺尾くんにチョコレートを渡しに行った佐羽を見送って、私も教室を後にする。鞄のなかには綺麗な小包が隠されたままだった。
バレンタインデーは今年も楽しかった。それでいいじゃないか。
私は胸のあたりに靄を抱えたままの自分にそう言い聞かせて昇降口へと向かう。重たい足取りで階段を下りていき、私はふとあげた視界に飛び込んできた後ろ姿に思わず息を止めた。
アディダスのエナメルバッグに手に持った紙袋。すらっと背が高くて、くるっとはねた襟足。運動部にしては華奢に見える背中は意外とごつごつしていて、広く逞しいことを私は知っている。
清水くんだった。部活に向かう途中なのだろう。
隠すことに決めたはずの恋心が、ふと頭をもたげた。
たぶん最初で最後の、千載一遇のチャンスだった。
心臓が急に鼓動を速めた。胸の奥のほうがぶわっと熱を持って、手が震えた。大丈夫。今はもう清水くんは私にそう言ってはくれない。だから代わりに自分で自分に大丈夫だと言い聞かせる。
一歩が重かった。まるで油を差し忘れた古い機械になった気分だった。
歩いていく清水くんの背中を呼び止めたかった。もう一度、その背中に触れたかった。
「しみ――」
「清水せんぱーい!」
私の声はかき消され、横を小さな影が駆け抜けていく。
清水くんは振り返り、駆け寄ってきた後輩に笑顔を向ける。私はなんて臆病なんだろう。反射的に下駄箱の影に隠れていた。
「やっと捕まったよ~。教室行ったらもういないって言われたので走りましたよ~。はい、これチョコレート。ハッピーバレンタイン!」
「おー、ありがとう! 美味しくいただきます」
「めっちゃ貰ってるからお返しは期待しないでおきますね」
「はは。そうしてもらえるとありがたいよ」
「じゃあ、部活頑張ってくださいねーっ!」
「おう、ありがとー」
私ってば何やってるんだろう。下駄箱の影で息を潜めて、二人の会話を盗み聞きして。
そう思ったら急に情けなくなってきて、思わず涙が溢れてくる。
こんな弱くないのに。こんなことで涙が出るなんて。
清水くんはローファーに履き替えて昇降口を出ていく。私は気づかれなかったことに安堵してしまう。すぐには動けなくて、ただ息を潜めて溢れる涙を乱暴に拭っていた。
「美郷じゃん。何やって……んの」
気怠そうな足取りで昇降口にやって来た勇人と目が合った。最悪だ。私はそっぽを向いた。
「別に」
「別にってことはねえだろ。……その、大丈夫か?」
「うるさい」
私は勇人を突き離す。全身の毛穴から近寄るな早く部活行けオーラを滲ませる。だけど勇人はどこにも行かず、それどころか私に歩み寄ってくる。ことごとく空気が読めない。馬鹿。一人にしてよ。
「なあ、美郷」
「うるさいなぁ、もう! ほっといて!」
私は衝動的に鞄のなかに手を突っ込み、掴んだそれを投げつける。勇人はもうきっとぐしゃぐしゃになってしまっただろう小包を、お腹と両手で受け止める。
「美郷、これ」
「あげる! 欲しがってたし。よかったね!」
「あ、おい、ちょっと、美郷!」
私は乱暴に言って、自分の下駄箱へ向かう。私を呼び止める勇人の声なんか置き去りにして、そのまま逃げるように昇降口を飛び出す。
バレンタインなんてチョコレート会社の策略。ただのイベント。皆でお菓子を持ち寄って、摘まむだけのささやかなイベントだ。
それなのに。そのはずなのに、どうしてこんなにも苦しくて苦しくて仕方がないのだろう。
校門を飛び出したところで私は躓いて派手に転んだ。情けなくって悔しくて、私は喘ぐように夕焼けに染まり出した空を仰ぐ。ほのかにオレンジがかった青空は、どうしようもなく溢れ出す涙で滲んでいく。
大丈夫。
そう言って私を待ってくれる声は、もう聞こえない。
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