まだ私、あのときのまま
閑散としていて人が少ないせいだろうか。やっぱり地元の冬は東京よりも少し寒くて、それでいて少し寂しい。
そんなことを思うあたり、私もすっかり都会ってやつに染まっちまったのだろう。ほんの二年前まではこの寂しさしか知らなくて、それが当たり前だったんだから。
大学進学を機に上京して三年が経つ。
大阪や京都の大学に進学する同級生が多いなか、私は進学先に東京の大学を選んだ。これと言って理由があったわけではない。ただ兄も姉もそうしているから、私もそうするのが普通だと思っていたし、その決断をしたことを別に後悔したりはしていない。
都心ではあり得ない無人駅の改札を抜け、スーツケースを転がす。迎えに来てくれた父の軽トラはすぐに見つかった。荷台にスーツケースを乗せ、助手席に座る。「お前随分痩せたんじゃないか?」なんて心配してくる父との会話に相槌を打ちながら、私は窓の外を眺める。
駅から少し離れれば、風景はすぐに田んぼと畑になる。年の瀬ともなれば一面の緑というわけにもいかず、茶色ばかりの風景は味気ない。そこかしこをイルミネーションで飾る東京とは大違いだ。
手に握っていたスマホにラインの通知が入る。メッセージは友達からだった。
――もう帰ってきてる~?
――ついさっき到着したよ
――お! そしたら明日行くよね?
――行く~ 誰来るか知ってる?
帰省のたび、仲のよかったグループの何人かで集まるのが恒例だった。特に年末の集まりはそのままお店で年を越し、そのまま近所の神社へと初詣に向かう。私は教習所に通っていて皆が帰省するお盆の時期に帰れなかったから、成人式以来、ちょうど一年ぶりだ。
少し間を置いて、返信が返ってくる。男女含めて七人。懐かしくも思える馴染みの名前が並ぶ。
たぶん彼女も書くべきか迷ったのだろう。最後に付け加えられたように記される名前に、私は胸の奥が締め付けられるような微かな痛みを感じた。
――
私は一度、そう文字を打って、それから全部消した。
◇
「ごめん。別れてほしいんだ」
卒業式を間近に控えた高校三年の二月。まだ溶け切らない雪の残った、凍てつくように寒い河原を歩きながら、水瀬は私にそう言った。
受験のおかげで忙しかったから、こうしてのんびりと二人で過ごすのは久しぶりだった。
だから私はいまいち言葉の意味が理解できなくて――いや、理解なんてしたくなくて、わざと砂利の上を擦って音を立てるように地面を歩いた。
「別れてほしい」
今度は立ち止まった水瀬がもう一度同じ言葉を私に向ける。逃げ場はないと、言われているような気分だった。
私たちは高校二年のときに付き合い始めた。クラスも委員会も一緒で、仲のいいグループも同じだった私たちは自然と距離が縮まり、どちらからというわけでもなくお互いを好きになり、水瀬からの告白をきっかけに付き合うことになった。
べたに放課後の校舎裏に呼び出した私に、「好きです」と真っ直ぐな言葉を向けてくれた水瀬の恥ずかしそうな顔を、私はいつだってすぐに思い出すことができた。
それなのに今、水瀬は眉間にしわを寄せながら、険しい表情で俯いている。
「……どういうこと」
「遠距離で頑張る、自信がない」
水瀬はほんの少し震える声で言う。
卒業後、私は東京の大学に進学することが決まっていた。一方の水瀬は薬学部に行くために一年間浪人することが決まっている。
つまり私たちは最低でも一年間、離れ離れで遠距離恋愛をすることになる。
「たかが距離だよ。私たちなら大丈夫」
「君が大丈夫でも、俺はたぶん大丈夫じゃない」
縋るような私の言葉はすぐに跳ねのけられる。私は水瀬に駆け寄って、コートの袖を強く掴んだ。そうしていないと、このまま風に吹かれて水瀬がいなくなってしまうような気がした。
「やだよ。私、待つよ。ちゃんと待てる。一年くらい、どうってことないよ。私がこっち帰ってくればいいんだもん。ううん、会えないのだって我慢する。勉強の邪魔になるなら電話もラインもしなくたって平気だよ」
「そうじゃないんだ。やっぱり勉強に集中したいし、俺が辛いんだ。……本当にごめん」
水瀬が私の腕を優しく振り解いて、歩き出す。水瀬が一歩遠ざかるたび、美しいと思っていた世界が音を立てて崩れていく。
たぶん私は、私たちが思っているよりもずっと水瀬のことが好きだった。
水瀬が好きな女優に広瀬すずの名前を挙げれば、私は伸ばしていた髪をばっさり切った。あまり興味のなかった服やメイクも一生懸命勉強して、水瀬の理想であろうとした。
いつも購買のパンを食べている水瀬にお弁当を作った。甘い卵焼きが好きだと言われれば、日曜日を丸々使って大量の試作品を作ったりもした。
水瀬に好きだと言ってほしくて。かわいいと思ってほしくて。
私は自分の全部を費やして、水瀬の彼女でいたかった。
それなのに、水瀬はゆっくりと遠ざかっていく。私のもとから離れていく。世界で一番きれいだと思えた、好きな人が自分のことを好きでいてくれる世界は呆気なく崩れ去っていく。
なんとかして繋ぎ止めないといけないのに。
私には水瀬を繋ぎ止める方法が分からなくて。
まだ冷たい風が吹く二月に、私の気持ちだけが取り残されていた。
それからあっという間に卒業式がやってきて、私は上京する準備に追われながら三月を過ごした。
一人暮らしはやることが多かったし、大学は思っていたよりも忙しく、私はだんだんと水瀬のことを考えることすらなくなっていく。
それでいい。
もう昔のことなんだ。
学生のときの恋なんて、そうやって甘酸っぱい思い出にして、私たちは大人になっていく。
そういうものなんだ。
瞬く間に一年が経ったころ、私は風の噂で水瀬が無事に合格したことを知った。
おめでとう、という簡単な五文字のメッセージは送ることができなかった。
◇
「わぁ~、久しぶり~」
滑りの悪い引き戸を開けて暖簾をくぐるや、懐かしい声が私を出迎える。座敷からスリッパを突っかけて近づいてきた友達と抱き合って、私は一年ぶりの再会を喜ぶ。
まだ会は始まっていないらしく、私はコートを脱いで空いている場所に座り、皆と同じくビールを注文する。
不思議な感じがする。ほんの数年前まではコーラとかリプトンの紅茶とかを片手に教室で馬鹿話をしていた私たちが、こうしてお酒の席を囲んでいる。きっともうあと何年かすれば、結婚や出産を迎える友達も出てくるだろう。大人になったんだな、という実感が感慨深くも思えたし、あのころの空気感はもうなくなってしまったんだなと、少し寂しくも感じられた。
「ったくよぉ、すっかり東京に染まったな」
「ね、お洒落だよね」
「皆だって垢抜けたよ」
「な! こいつなんか髪なんか茶色くしちゃってよ」
「おい、触んなって!」
懐かしい顔ぶれとそんな他愛のない会話をしているうちに飲み物が揃う。席を見渡せば一人足りない。まだ水瀬は来ていなかった。
「あと水瀬か」
「さっき、ちょっと遅れるって連絡あったー!」
誰かがそう言うのを聞いて、私は内心でほっとする。
卒業式の日以来、水瀬とは会っていない。どんな顔で会えばいいのか分からなかったし、会いたいとも思えなかった。もう水瀬のことが好きで好きで仕方なかった高校生の私はいない。
「んだよ、あいつ。久々に帰ってきたってのに素っ気ねえなぁ」
「じゃぁ先に始めとこ」
幹事の男の子が音頭を取り、私たちはグラスを合わせる。次々と運ばれてくる料理と懐かしい思い出話に花が咲き、お酒はいつも以上に進んだ。二一歳にもなればもうすっかり大人だったけれど、私たちは高校生のときに戻ったみたいに笑って、馬鹿話をした。
当然、私と水瀬が付き合っていたという話にもなった。色めいた話に盛り上がる皆をよそに、私はそのときだけは誤魔化すような笑みばかり浮かべていた。
そして会も半ばに差し掛かり、皆が出来上がり始めたころになって、ようやく水瀬がやって来た。
「おお、水瀬!」
空になったグラスをまとめていた男子が声を上げ、皆の視線が水瀬へと集まる。もちろん皆に釣られた私も例外ではない。
「……久しぶり」
そうはにかんで、小さく手を掲げた水瀬はあまり変わっていなかった。髪だけは少し伸びていたけれど、優しそうな眼もシャイな笑顔も、少し低い声も、何一つとして私の覚えている水瀬のままだった。
「早く座りなよ。水瀬くん、ビールでいい?」
「ああ、うん。ありがとう」
水瀬は靴を脱いで座敷に上がってぎこちなく固まる。空いているのは一つ前に到着した私の隣りだけだったから。
私は何でもない顔で、座布団を叩く。
「座りなよ」
「……ああ、うん」
水瀬は顔を少し伏せたまま、ぎこちなくはにかんだ。
「……久しぶり、だね」
ゆっくりと座った水瀬が私に言う。
「……そうだね。卒業以来だもんね。元気にしてた?」
「ぼちぼちかな。そっちは?」
「私もぼちぼち」
「……そっか。雰囲気、変わったよね」
「そう? 東京に染まったんだよ」
なんて。
私は茶化したつもりだったのに。
「うん。きれいになった」
水瀬は大真面目にそんなことを言ってくるもんだから、私は言葉に詰まってしまう。
たぶん嬉しかった。かわいいでも好きでもなくて、きれいだと言われたことが。まるで水瀬と離れていた三年で大人になった自分を褒めてもらえたような気がして。
でもそれだけじゃなかった。認めたくないけれど、私はたぶんまだ高校生のときの気持ちを引き摺ったままだった。
ふざけんな。
一方的に別れを告げといて、今さら何だって言うんだ。
上京してから髪を伸ばした。服も黒ばっかり着るようになった。メイクだって変えた。もう甘い卵焼きなんて作らないし、そもそも料理すらほとんどしない。
もう私は、水瀬が好きだった私じゃない。水瀬が好きだった私なんて、ちっとも残ってなんかいない。
それなのに。そうやって水瀬から遠ざかったはずなのに。
こんなにも嬉しくて、こんなにも胸が痛くなるなんて思ってもいなくて。
私はちっとも大人になんかなれていない。水瀬のことを忘れられてなんかいない。
「……まあね」
私はなるべく素っ気なく言ったけれど、心のなかはぐちゃぐちゃだった。
きっと水瀬の言葉に深い意味なんてない。ただの社交辞令。大人なんだから、きっとそれくらい当たり前。
そう言い聞かせても、私は水瀬の顔を見れなくて、ぬるくなったビールのグラスばかりを眺めている。
酔いが醒めたまま年が明けて、私たちは近所の神社まで夜道を歩く。
街灯もまばらな田んぼ道は本当に暗くて、見上げればダイヤモンドを散りばめたみたいな星空が広がっている。誰かが煙草を吸い出して、甘くて香ばしい煙の白が夜の黒の上にぷかぷかとたゆたった。たぶんいつもなら「エモいよね」なんて言って、心を躍らせるロマンチックな景色だったけど、私は自分の足元ばかりを見つめている。
水瀬とは最初に話したきり、ろくに言葉を交わせなかった。
彼の何気ない一言で、私は自分の惨めな気持ちに気づいてしまったから。
神社に着いた私たちは参拝客が成す長蛇の列に並ぶ。前から順繰りに振る舞われる甘酒を貰って寒さをしのぐ。順番がきて、私たちは用意していた五円玉を賽銭箱へと投げ入れる。
二礼二拍手一礼。
どこかで習った作法で、私たちは年に一度だけ、こうやって神様に祈る。もちろんそんな都合のいい私たちのお願いを、神様は叶えてなんかくれやしない。
「ねえ、何お願いした?」
そう友達に聞かれたのは、御神籤の列に並んでいるときだった。私は前に並んでいる水瀬をちらと見やる。水瀬は私がしたお願いの内容なんて知る由もなく、私の視線に気づくこともなく、男友達と何やら楽しそうに話している。
「うーん、内緒」
私は曖昧に笑ってごまかした。
きっと私はその祈りを、言葉にすることは出来ないのだろう。
あの日からずっと。そしてこれからもずっと。
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