だった

 君と別れてからもう一年が経ったことを、僕はクリスマスのイルミネーションに彩られた街を眺めてふと思い出す。

 赤青黄色に瞬く電飾。駅前の出張販売で売られるケーキやチキン。サンタクロースやトナカイの格好をした売り子のお姉さん。彩られる街並みに躍る子供の声。刺すように冷たい空気のなかを、寄り添いながら歩くカップルたち。

 ほんの一瞬湧いた、寂しさのような気持ちを紛らわすように、僕は口の奥のほうで笑う。浮ついた世間を笑ったのか、そんな世間に馴染めない僕を笑ったのかは分からない。

 財布くらいしか中身の入っていないカバンを下げながらぼんやりと街を歩く。


「……さみ」


 僕はマフラーに顔を埋めて肩を小さく震わせた。

 大学の講義がないからと言って家に引きこもってばかりいては気が滅入ると思い、外に出てはみたものの、別に気分は晴れない。ただ寒いだけだ。

 とは言え、せっかく外に出たのだから何もせずに帰るのはもったいない気がする。そう思うと僕の足は自然と本屋に向かった。

 単行本で読んでいる漫画の新刊を確認し、何か気になる小説が出てはいないかと店内をぶらぶらと歩く。タイトルや表紙絵で気になったものを何冊か手に取ってレジへ向かう。レジはそこそこ長い列が出来ていて、僕はとりあえず最後尾のおばさんの後ろに並ぶ。

 年の瀬だというのに、僕のように時間を持て余している人間は意外と多いのかもしれない。

 浅はかな仲間意識を抱いたりしながらレジを待ち、本を買う。袋は有料なのでレシートと一緒に本をカバンへと突っ込む。

 肩にかかる重みに満足した僕は早くも家に帰ることにした。

 本屋から出て、冷えた空気に身を縮ませる。寒いせいで足取りは自然と早くなった。


「……あれ、ふみくん?」


 街はこの時期特有のざわつきで満ちているのに、その声だけはやけに鮮明に僕の耳朶を打った。

 僕は躓くように立ち止まり、声の方向を振り返る。

 振り返ったりするべきじゃない。頭ではそう分かっていても、僕は心身に染みついた反応を止めることができなかった。


「やっぱりふみくんだ」


 君がにこりと笑う。その笑顔は僕の記憶にあるそれと、全然変わっていなかった。

 一年も前に別れた彼女きみ。僕がまだ忘れられない彼女きみ


「……久しぶり」


 どうしているの。何してるの。――そんな疑問を口にすることはできなくて、僕は油を差し忘れた年代ものの機械みたいにぎこちない表情でそう返す。


「偶然だね~。何してたの?」

「あぁ、うん、買い物」


 帰りたい。逃げ出したい。そんな感情に駆られながらも、このまま話していたいと思ってしまう自分がひどく浅ましく思えた。


「立ち話も何だしお茶でもする? あ、ふみくん時間平気?」

「あぁ、うん、もう用事は済んだから」

「そ。よかった」


 君はくるりと回って歩き出す。僕は少し早く歩いて君の斜め後ろに並ぶ。もう別れているのだから、横に立つのは何となく気が引けた。たぶん気が引けたのは、僕のなかにほんの少しでも君への未練が残っているからなのだろう。

 そんな僕の愚かさを見透かしてか、君が歩く速度を落として僕の横に並ぶ。たった一年前まではそこらのカップルみたいに寄り添っていた僕らの間には、今は拳三つ分の空白がある。


「買い物って何の買い物?」

「あぁ、うん、本。漫画とか」

「そっかぁ、そう言えば漫画とか好きだったもんね」

「うん」


 遠い昔のことみたいに僕を語る君に、僕は無性に悲しくなったりする。お門違いだとは分かっている。それでも胸の奥が詰まるような疼痛は、確かに僕を苛んでいた。


   ◇


 僕らは微妙な距離を保ちながら近くのカフェに入る。客入りはまばら。入り口を入ってすぐ、サンタクロースの人形がぶら下がったツリーに出迎えられる。


「二人です」


 君が店員に告げて僕らは席に案内される。僕が通路側で君が壁側。たぶん男女で向かい合って座るならば当然の座り方なのだろうけど、そんなことさえ僕には懐かしく感じられる。


「クリスマスセットだって。そっか、もうクリスマスだもんね」


 メニューを眺めながら君が言う。


「あぁ、そうだね。ま、ただの平日だけど」

「あはは。わたしもだよ。今年もバイト。去年もバイトだったけど」


 僕らは去年、クリスマスの少し前に別れた。僕の家の机の引き出しには、渡せなかったプレゼントが行く当てもないまま大事に仕舞い込まれている。


「あ、でもね、今年はサークルの友達とかとクリパする」


 君がサークルの友達、と言ったとき思い浮かぶ顔はいくつかあった。もちろんそのなかには男もいる。だけどそのクリスマスパーティーに誰が来るのかなんてこと、僕に訊けるはずもない。


「いいね。楽しそうだ」


 結局クリスマスセットは頼まなかった。季節限定と銘打たれた商品をチェックするのは君のいつもの癖だった。

 僕はコーヒーを頼み、君は紅茶を頼む。君は砂糖とミルクは使わないけれど、代わりにレモンを頼む。この組み合わせも付き合っていたときと変わらない。

 それから間もなくドリンクが運ばれてきて、僕らは他愛のない会話に花を咲かせる。

 最近は何をしてるかとか、来年からの就活がやばいとか、そもそも単位がやばいとか。

 話し出してみれば、緊張感や気まずさは全くの杞憂で、僕は昔のように君と話すことができた。

 そしてひとしきり近況を話し合って話題が尽きると、自然と僕らの会話は過去の話へと向かっていった。


「そうそう、この前ね。美香たちと草津行ったんだ。ちょっと懐かしくて笑っちゃった」

「二人で行ったもんね」

「あのときはほんと大変だったなぁって思い出したよね」

「その節は本当にごめん」


 僕は冷め始めたコーヒーを口に含んで肩を落とす。

 去年の秋、草津温泉に旅行に行ったとき、帰りのバスの時間を間違えた僕らは、小雨が降るなか荷物を抱えてバス停一つ分、走る羽目になった。君は笑って慰めてくれたけれど、僕は自分の情けなさによって旅行が台無しになったと割と本気で落ち込んだ。


「そもそもふみくんが免許持ってればよかったんだよ」

「君だって持ってないだろ」

「わたしは夏休みに合宿で取ったよ? じゃーん」


 君は財布から取り出した免許証を印籠みたいに見せびらかす。免許証の写真は盛れないと聞くが小さな枠で澄ました様子の君は随分と綺麗だった。


「ふみくんってさ、思えばけっこうおっちょこちょいだったよね」


 ――

 やはり過去形で語られる僕に、僕の胸がずきりと痛む。

 僕は変わっていない。僕は今も、君が知る通りにおっちょこちょいのままだ。それにたぶん、君のことが好きな僕のままだ。

 そんな気持ちを誤魔化すように、僕は無理矢理に口角を歪める。


「君はおしとやかに見えて、意外と怒りっぽかった」

「えー、そうかな。そんな怒ってたっけ?」

「怒ってたよ。いきなり言葉遣いが気に食わないとかで、デートをドタキャンされたこともある」

「え、それひどいじゃん」

「全くだ。ひどすぎる」


 僕が大袈裟に眉を顰めて頷くと、君は楽しそうに笑った。


「それだけじゃない。君の去年の誕生日、僕が朝サプライズで家を訊ねたら、どうしてかすごく不機嫌で家の前で締め出されたこともある」

「あ、それは覚えてる。なんか気に食わなかったんだよね」

「なんか気に食わないなんてふわふわした理由で僕は締め出されたのかよ」

「でも入れてあげたじゃん」

「そこにいられるのは恥ずかしいから入れってね」

「あれー、そうだっけ」

「お店の予約とかしてたから、全部なしになるんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだけど?」

「でもデートしたよね?」

「うん。プレゼントで君の機嫌が直ったから」

「それだけ聞くと、わたしめちゃくちゃ嫌な女みたい」


 君はそう言いつつも、やっぱり楽しそうに笑う。もう全部は過去のことで、楽しかった思い出も辛かった思い出も、ただの笑い話で記憶の1ページなのだ。


「そんなことないよ。少しくらい不満はあっても、僕は


 ゆっくり息を吸ってから、僕はそう言った。

 好きだとか、一緒にいれて幸せだとか、付き合っているときにはどうしてか言えなかった言葉だった。そしてそういう手触りのある愛を伝えられなかったからこそ、僕たちの気持ちはすれ違い、君の心は僕から離れていった。

 いや愛だけじゃない。不満や怒りもそうだ。

 僕はたぶん、僕という人間の素直な感情を君にちゃんと伝えることができていなかった。伝えたらこの関係が壊れるんじゃないかと恐れるあまり、僕は生々しい感情や気持ちを君にぶつけることを知らないうちに避けるようになっていた。

 だからだろう。君は少し驚いたように目を見開いて。そして少し恥ずかしそうに俯いていた。


「わたしも、


 僕だって分かってる。

 そう分かっているんだ。

 何を思っても、もう遅い。

 何を伝えても、もう遅い。

 僕らの全部はもう、ただの過去の話だった。


   ◇


 僕らはカフェを出てすぐに別れた。「また学校でね」と形式的な挨拶とともに手を振って。

 もう街のイルミネーションを疎ましく思う気持ちは消えていた。気分は少し晴れやかだった。それなのに、胸の奥の痛みだけはいっそう強く、僕の心につかえていた。

 家に帰った僕は買った本をカバンから出すこともせず、それどころか部屋の電気すらつけず、倒れるようにしてベッドへと座り込む。そのまま身体が沈んでいってしまうのではないかと思うくらい、全身がひどく重かった。

 頭のなかを後悔ばかりが駆け抜けていった。

 だけど僕の手からすり抜けていった幸せは、もうどうしたって掴むことができない。

 僕にとって君と過ごした日々は何よりもかけがえのないものだった。

 笑う君も怒る君も喜ぶ君も不機嫌な君も、どれも大切な君だった。

 君と一緒にいられて、僕はすごく幸せだった。

 僕は君のことが好きだった。

 開くことすらできない机の引き出しの奥にはまだ去年のまま、君に渡せなかったクリスマスプレゼントが入っている。

 どうやらまだしばらく、僕はそれを捨てられそうにない。

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