もしもこの出会いをやり直せるなら
君のインスタが更新されていた。
とっくにフォローを外したつもりだったけれど、どうやらし忘れていたらしい。
使い方がよく分かんね、とか言ってたのに珍しいな。
私はそんなことを思いながら、妙に洒落た後ろ姿のアイコンをタップする。
映し出されるストーリーはリアルタイムの飲み会の様子。
私も何度か会ったことのある、君の地元の友達とその彼女。空のジョッキが並んで、灰皿からは吸いかけの煙草の煙がたゆたって。
友達カップルのピースのあと、聞いたことのない声がして画面が動く。
写り込んだのは君好みのボブカットの女の子。明るい茶髪は綺麗に内側にくるりとカールしていて、前髪は流行りのシースルー。耳にかけた髪の隙間から華奢なピアスが揺れていた。
『ちょっとぉ、撮らないでよ』
その女はネイルで飾った手で顔を隠しながら、だけどしっかりと男が好みそうな笑顔を覗かせる。
一五秒の動画が終わって画面が切り替わる。いつもなら更新されるたびに食い入るように眺めている好きなアーティストのストーリーも、右から左へとただ流れていく。
その子、誰なの?
ちょっと距離近くない?
そんな都合のいい私の問いは、喉元まで出かかって消える。
私にはそんなことを聞く資格はない。君はもう私の何でもないし、私が君を振ったんだから。
スマホを閉じて机に放り、私は何もかもを拒絶したくてベッドへ潜り込む。
自己嫌悪。
私ってなんて嫌な女なんだろう。だってたぶんこの気持ちはただのわがまま。しかもひどく横暴で、醜くて、いじらしいタイプのやつ。
自分から君を捨てておいて、君に近づく得体の知れない女を妬んでる。
嫌いだ。
君のことも。君に近づくあの女も。何よりこんなことでいちいち沈んでいる自分も。
全部全部嫌いだ。
一緒にいるときはあんなに息苦しかったのに。
どうしてだろう。
君がいなくなった今、すごく寂しくて痛い。
†
「私たち、合わないね」
私がそういうと、君は歯切れ悪そうに俯いた。答えを先延ばしにするように、君は黙り込む。足音を立てるように進む規則的な時計の音だけが、やけに大きく響いている。
その重たい沈黙が嫌で、私はもう一度同じ台詞を吐く。
「私たち、合わないんだよ」
君は困ったように唇を噛み、それから少しうんざりしたように息を吐く。答えを急かすような私の繰り返しに対する小さな反抗だろう。
だけどたとえ君が何を思おうと、何を考えようと、私たちが合わないのは事実なんだ。
映画鑑賞が趣味のインドアな君とカメラとキャンプが趣味のアウトドアな私。
甘党で几帳面で綺麗好きな君と辛党でずぼらで片付け下手な私。
一人の時間を大切にしたい君と二人の時間を育みたかった私。
水と油。イヌとサル。私たちは周りから何でと聞かれるくらい、なにもかもが正反対だった。
私がキャンプに行こうと誘えば、君は虫が嫌だと首を横に振り。
君が面白いと言って見せてくれた映画の途中で私は大きないびきをかいた。
一緒に韓国料理を食べに行けば君は苦しそうにやたら水を飲んでいたし、君がお土産と言って買ってくるケーキやシュークリームはいつも甘すぎて私は食べきれた試しがない。
私はよくゴミ出しの日を間違えて君を怒らせたし、君は私を無視して読書に耽るから私は不機嫌になった。
些細なことで喧嘩ばかりした。
私が聞いてほしい話があるとき、君は決まってすぐ寝たいくらいに疲れていて。
珍しく君が私に甘えようとするとき、私はいつも生理か何かで不機嫌だった。
私は思った先から何でも口に出した。君はそれを感情に任せて考え無しだと言う。
君は言葉にする前に色々なことを考えていた。私はそれをうじうじしていると非難した。
どちらが悪いとか、そういう話じゃないのだと思う。タイミングとか、波長とか、歯車とか、運命とか、そういう色々なものが君と私は致命的にずれていた。
私たちは合わなかった。
それでも半年と少し、離れそうになる気持ちをぎりぎりのところで繋ぎ止めながらやってきた。
まだ大丈夫。まだ大丈夫。そう何度も言い聞かせて頑張ってきた。
君のことが好きだったから。
笑ったとき、目尻によるしわが好きだった。映画とか好きなものに目を輝かせる君が好きだった。真剣に本を読んでいる目が好きだった。ページをめくる少し太くて骨張った指が好きだった。声が好きだった。ほんのりと温かい手が好きだった。私が泣いたとき、眉を寄せて困る頼りない君が好きだった。私とは全く別の視点と言葉で、世界を切り取る君が好きだった。
確かに私は、君が好きだった。
合わないなら、お互いに歩み寄って合わせたらいいと、そんな青臭い恋の幻想を胸に抱いて頑張るくらいには、君のことが好きだったのだ。
だけどもう限界だった。
好きな気持ちよりも、愛おしいと思う感情よりも、我慢が頭をもたげてきた時点でこの恋は終わりだったのだ。
時間だけが過ぎていった。
「別れよう」
私の声は震えていた。しばらくの沈黙のあと「わかった」とだけ言った君の声も震えていた。
たぶんこの瞬間、私たちの気持ちは同じ。
だけどそれを確かめ合う術を知らないまま、私たちは別れた。
†
私は次の休みの日、髪を切った。
ずっとこだわって伸ばし続けていた髪。君が短いほうが好きだと言っていた髪。
やけくそだった。たぶん昨日の夜、君のインスタを見ちゃったから。
起き抜けに缶チューハイを開け、私は少し赤くなった頬で美容室へ向かった。
馴染みの美容師は驚いていたし、何度も「いいの?」と聞いてきた。「失恋でもしたの」と冗談交じりで言われたときは、笑って濁すしかなかった。さすがに半年も前の別れの話を持ち出すのはカッコ悪い気がしたし、何より私自身、自分のそんな醜態を認めるわけにはいかなかった。
髪を切り終わったあと、アシスタントの青年に掃かれている私の髪を見てほんの少し気分が重たくなった。髪の毛のぶん、頭は軽くなったのに、胸の奥のほうがずっしりと重かった。
私はBGMの緩やかな音楽に耳を傾け、考えないようにした。
「似合ってるね」と言ってくれた美容師にお礼を言って、私は肩の少し上で外側にはねる髪を揺らして美容室を後にする。
実際に似合っているかどうかは置いておいて、私はこの髪型を意外と気に入った。着てきたダッフルコートとの組み合わせもいい感じだ。ボブなんて可愛らしい髪型は絶対に似合わないと思っていたけれど、案外なしではない。
アパレルショップのウインドウに映る、雰囲気の変わった自分を眺めてそんなことを考えた。
そうしたら、さっき感じた胸の重さの意味が不意に理解できてしまった。
もしも君が短い髪が好きだと言ったとき、私が拒まずに髪を切ってしまえていたら、私たちは終わらずに済んだのだろうか。
もちろんそんな簡単な話ではないことくらい分かっている。
でもきっと私たちのずれた歯車を噛み合わせるのなんて、その程度の簡単なことだったんじゃないかとも思う。
きっとほんの少しだけ、お互いに自分のテリトリーから踏み出してみる勇気さえあればよかったのだ。合わないなんて、そんないつでも出せるような結論を焦る必要はなかったのだ。少なくとも私たちは、まだ交わせる言葉や伝えていない気持ちがあったはずだ。
でももう全部が遅すぎた。
短くした髪の感想を言ってくれる君はいない。勇気を振り絞って踏み出しても、この足が向かった先にもう君はいない。
家にはなんだか無性に帰りたくなくて、だけど行く宛てはなくて。
私は亡霊みたいに街を彷徨った。
わざと入ったことのない路地へ入り、よく知らない雑貨屋を見て回る。過去を振り切って前へと進んだ気分に浸り、めくるめく現れる未知を片っ端から視界に収めて手に取った。
そうやって少し気を紛らわしたからだろうか。私は漂う甘く香ばしい匂いを感じて振り返る。そして見覚えのある名前に唖然とする。
「……ここにあったんだ」
それはこじんまりとした
覚えていたことに驚いた。このお店は君がよく買ってきた、あの甘すぎるシュークリームのお店だった。
呆然と店を眺めていたら、顔を上げたパティシエのお姉さんと目が合ってしまう。なんとなく弱っているところに優しい笑顔を向けられて、単純な私は吸い寄せられるようにカウンターへと近寄った。
「シュークリームを、……一つ」
危うく二つと言いかけた。笑えない。
作業を止めて笑顔で対応してくれたお姉さんから小さな紙袋を受け取る。
紙袋は私が覚えているものよりも一回りだけ、小さかった。
†
「何やってるんだろ、私」
家に着くやコートも脱がすにソファに座り込んだ私の膝の上には、シュークリームが一つだけ入った紙袋が後悔とともに乗っかっている。
せっかく買ったからこのまま捨てるのも忍びない。何よりあのお姉さんが一生懸命作ったものなのだから、食べきれないにしても、一口も口にしないのは失礼だろう。
私はなんとか理由をつけて掌に収まるくらいの大きさのシュークリームを手に取る。中にずっしりと甘いカスタードの詰まったそれは、前よりも少し重たい気がした。
街を宛てもなく徘徊して、ようやく前に進めたような気になったのに。気がつけば君の影が追いついてきて、私はその残滓を手放すことができないでいる。
もしこのシュークリームを食べきれたら、報告がてら半年ぶりに連絡を取ってみてもいいかななんて、都合のいいことすら考えてしまう。
そんな邪念を振り払うように頭を振って、私は今日まで引きずってしまった全部を呑み下してやる勢いでシュークリームに齧りつく。
胸の奥が詰まって、重くて、シュークリームはやっぱり甘すぎて。
それでも私はシュークリームを口に詰め込む。
苦しいよ。
すごくすごく苦しいよ。
こんなに苦しいって知っていたら、君を好きになんてならなかったのに。
もしも君との出会いをやり直せるなら、次はただの他人でいたい。
そんな気持ちは声にすらならなくて。
甘すぎるはずのシュークリームはほんの少ししょっぱくて、恋と後悔の味がした。
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