愛すらもままならない

 街はイルミネーションに彩られ、寄り添うカップルたちが吐く白い息が一つに溶けあっている。僕はただ一人、賑わい出す愛から逃げ出したくて、星のない夜空を仰ぐ。

 君がいなくなって初めての冬だった。

 僕はいつまでもあの夏に取り残されて、でも世界はしっかりと進んでいて。

 時間も、人の温もりも、世界の全てがただ残酷に思えて。

 今でも考える。

 もしあのとき、僕が君を引き留められていたらどうなっていたのだろう。

 意味のないifだと分かっている。女々しいにも程があるし、もはや気味すら悪いと自分でも思っている。

 それでも考えずにはいられない。

 もし不器用だった僕をやり直せたなら。

 あのままならなかった愛を繋ぎ止められたなら。

〝好き〟のその先を、二人で描くことができたなら。

 僕は咥えた煙草に火を点ける。肺いっぱいに深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。

 ほのかな街の明かりが紫煙に煙っていく。

 その景色が、まるであの日の僕らみたいに思えてきて、それから僕は少し泣いた。


   †


 あれは七月の、暑い夏の日の夜。


「大事な話があるの」


 君はそう言って、僕を呼び出した。

 君の家の近くの公園。君を家まで送るときいつも、終電までの時間を過ごした場所だ。

 僕らは互いに実家暮らしだった。

 大学を出てからアルバイトで食いつなぎ、二五歳にもなってまだ小説家になる夢を捨てられない僕と、大学院の修士課程を終え、来春には一流と呼ばれる大きな会社に就職する君。

 たぶん僕はもう、君が何を話すつもりなのかなんて分かっていた。

 付き合って三年。いくら感情の機微に疎い僕でも表情や声のトーンから大まかな気持ちを察せられる程度には、僕は君のことを分かっているつもりだったし、君もまた僕のことを分かっていた。

 誰もいない公園に二人きり。君はブランコに腰を下ろし、僕はその柵に腰かける。向かい合うことも並ぶこともない、微妙にずれたお互いの位置が、僕ら二人の現在地だった。

 沈黙が流れる。僕はその空気の重みに耐えられなくて、咥えた煙草に火を点ける。


「身体に悪いよ」


 君が言った。僕はただ「うん」と返した。


「今日も暑いね」


 それから今度は僕が言う。本題を先延ばしにする、見苦しくて拙い抵抗だった。彼女は何も答えなかった。

 茹だるように暑いはずなのに、煙草を持つ手が少し震える。湿気を含んだ空気は息が詰まるようで、喉の奥に引っ掛かる。何かを喋らなくちゃいけないのに、言葉は何一つとして出てこない。


「あのね」


 やがて彼女がぽつりと切り出す。


「別れてほしいんだ。……ごめんね」

「ううん」


 彼女の顔は見れなかった。

 たぶんそれは、言い訳のしようもないから。僕にはもう、君を繋ぎ止めるだけの何かがないから。

 僕はゆっくりと目を閉じる。でもこれはしっかりと現実で、夢や幻みたいに都合よく消えてくれるはずもない。


「君のこと、嫌いになったわけじゃないんだ。でも考えてたの。君と一緒にいて、これから先、どうなっていくのかなって。……付き合って、結婚して、子供を産んで、年を取っていく。そういう未来が、君といると見えなくて、すごく不安になる」


 金もない。仕事だってない。

 あるのは燃え尽きるのを忘れてしまった残骸みたいな夢の欠片と、君を好きな気持ちだけ。

 気持ちだけじゃ、言葉だけじゃ、君を繋ぎ止められない。

 ならばそんな夢は捨ててしまえばいい。才能がないことなんてとっくの昔に分かっている。だからすっぱり全部諦めて、君と生きる未来に手を伸ばせばいい。そうやって出来なかったことの堆積が、挫折という心に負った傷の数が、僕らを大人に変えていく。みんなそうやって、どうしようもない現実に折り合いをつけながら生きている。

 だから簡単なことだ。そう、簡単な、簡単なことなんだ。


「それなら僕は――」

「言わないで」


 僕の言葉を君の声が遮る。

 持ち上げた僕の視線の先で、君の頬に涙が伝う。


「私ね、君の書く小説が好き。小説を書く君が好き。だから諦めないでほしい。身勝手なのは分かってる。でもね、小説を、夢を諦めたら、君は私が好きだった君じゃなくなっちゃうから」

「……君は、残酷だ」


 僕が吐いた言葉に、君は「ごめんね」と涙を拭いながら謝った。

 きっと君は何もかもがお見通しなのだろう。だから残酷に、辛辣に、僕を傷つける。それがお互いのためになるのだと信じて。


「待ってあげられなくて、支えてあげられなくて、ごめんね」


 君は震えそうな声で言う。

 僕はどうしようもない人間だ。夢を免罪符にして二人の未来をないがしろにし、好きだと思い続けるだけで君と一緒にいられると勘違いした。ちゃんと君を愛することすらままならなくて、君にこんな顔をさせている。

 たぶん君の幸せに、僕はいない。

 いやそうじゃない。そんな綺麗な言葉で取り繕ってはいけない。

 君の幸せの、足枷こそが僕なんだ。

 そう思ったら、この別れが妙に腑に落ちた。

 たぶん引き留めることもできるのだろう。だけど僕はそうしない。君の出した答えが、二人のために――少なくとも君にとっての最善だと思えたから。

 長い沈黙のあとで、僕はようやく君に向ける言葉を絞り出す。これ以上、君の負担にはなりたくなかった。火をつけた煙草は、ろくに吸ってもいないのに灰に変わっている。


「大丈夫。小説書くのは止めないよ。君のことも、たぶん大丈夫」

「うん。ありがとう」


 それから僕たちは話をした。終電の時間になるまで、話をした。

 どれも他愛のない話だった。一緒に過ごしてきた三年を振り返る。

 初めて行った水族館のデート。告白の言葉。映画館で二人して熟睡してスタッフの人に起こされたこと。動物園でウサギに指を噛まれた僕が泣いたこと。二人で行った草津温泉の旅行で、帰りの長距離バスを乗り逃したこと。初めて手を繋いだときのこと。初めてキスをしたときのこと。初めて喧嘩したときのこと。初めて肌を重ねた夜のこと。

 綺麗な思い出ばかりじゃなかった。むしろ思い出のなかでも僕はかっこ悪かったし、君はいつも頼もしかった。思い出すたびに情けない気持ちもしたけれど、それでも僕は幸せだった。


「私だって幸せだったよ」


 君が言う。僕は急に泣きたい気持ちになった。だけど堪えた。最後くらいはほんの少し、かっこをつけたかった。


「僕も幸せだった。君にはいつも、もらってばかりだった」

「私も、たくさんもらったよ。どれも大切な思い出だもん」


 君は少しだけブランコをこいで、ふわりと飛び降りる。君が視線を落とした腕時計が、僕らの三年間の終わりを告げていた。


「そろそろだよね、終電」

「うん」


 僕は頷く。

 この公園から出れば、本当に全てが終わる。そう思ったら、足が震えた。


「じゃあね。すごく、すごく好きだった」

「僕だって、同じだった」


 泣き笑いの顔で言う君を優しく抱き締める資格は、もう僕にはなかった。


「いつから僕たちはさ、好きな人をただ好きなだけじゃ一緒にいられなくなっちゃうんだろう」


 僕が言うと君は困ったように眉を寄せ、それから気まずさを誤魔化すように目を細めて笑う。

 ああ、好きだな。僕は思った。

 笑ったとき、目尻にできる皺が好きだった。厚い唇からこぼれる白い歯が好きだった。

 君の全部が好きだった。

 でももうそれは叶うことのない恋で、届くことのない思い。


「ごめんね、さよなら」

「今までありがとう。さよなら」


 僕は出かかった感情を呑み下し、微笑んだ君に言う。

 僕の好きだった君の笑顔――。でも今だけは、その笑顔がナイフみたいに鋭くて、僕の心にただ痛い。


   †


 短くなった煙草を地面で乱雑に揉み消して灰皿へと捨てる。もう涙は渇いていたけれど、僕はすぐには立ち上がれなかった。

 君と別れてから、僕は君が嫌いだった煙草をこれでもかと吸うようになった。君がダサいといった髭を生やし、君が似合わないと言った髪を伸ばした。

 そうやって君が好きだった僕を消していけば、いつか僕のなかにいる君を忘れられるような気がしていた。

 だけどまだその試みは成功していない。いや永遠に成功しないのかもしれない。

 君と別れたことに後悔があるわけじゃない。あのとき最善だと思った君の答えは、やっぱり今こうして振り返ってみても最善だったと思う。もしもう一度あの夏に戻ってしまったならば、やっぱり僕は君の答えに頷くのだろう。

 でも、思ってしまう。ふとした瞬間に考えてしまう。

 僕がもし小説なんか書いていなければ。ちゃんと仕事をしていれば。自分に自信を持てていれば。

 もしかしたら君を、君の気持ちを引き留めることができたのかもしれない。

 どれも無意味なifだった。現実の僕は今も小説を書いているし、仕事もない。あの日から何一つとして進んでなんかいない。

 僕は重い腰を上げて立ち上がる。一人で歩く夜の街は少し寒くて、僕は背を丸めた。

 街にはイルミネーションが瞬いている。僕はその眩しさから目を背けるように、汚れたスニーカーのつま先に視線を落とす。にわかに視界が滲んだ。僕の目からこぼれた雫は地面落ちて、光と一緒に砕け散る。

 それはきっと、たった一人、大切な人を愛することすらままならなかった僕の、綺麗で不揃いな思い出たち。

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