ヴァンパイアみたいな恋をした

「もう2年? よく飽きないな」


 学食でようやく席を見つけた僕らは座って向かい合う。僕は勝手に感心している悪友に向かって溜息を吐く。


「飽きるって何だよ」

「いやぁだって、普通さ、肉食べたり魚食べたりしたいだろ」

「たとえがゲスだよな」


 僕は女性を肉や魚に例える愚かな悪友をばっさりと切り捨てて、一番安いという理由だけで選んだきつねうどん(280円)に息を吹きかける。猫舌である。


「まあ、お前のたとえに乗ってやるならさ。水とか空気の味に飽きたりしないだろ? それと同じだよ」

「いや、水には飽きるだろ。というか好き好んで水だけ飲むやついるのか?」

「僕はいつも学食で水を飲む。例外はない」


 僕は言って、念入りに冷ましたはずのうどんの熱さに呆気なくやられた。慌ててトレイの上にあるコップの冷水を口のなかに流し込む。


「お前が水を飲むのはタダだから。あるいは食うもの飲むものに興味がないから」


 悪友は一丁前に断言してみせ、Aセットランチのコロッケを頬張った。


 僕らがどうしてこんな話をしているのかと言えば、2限の講義終わり、悪友に週末の予定を聞かれたところに遡る。

 悪友は取り立ての免許がよっぽど嬉しいらしく、サークルの仲のいい男友達何人かでアウトレットに行く計画を立てていた。僕もそれに誘われたわけだが、ちょうどその日は予定があった。

 彼女との2年の記念日である。

 誰と付き合っても長続きしない悪友にとって、2年という月日はとても長く思えたらしく「よく飽きないな」という発言に繋がる。曰く、悪友は3カ月で付き合った女性に飽きるらしく、事実として僕もこいつが半年以上彼女と続いた例を知らない。

 ちなみに2年記念日だが、お互いにただ予定を合わせているだけで、何か特別な催しをするつもりはない。僕も彼女もイベントが苦手で、記念日はもちろん、クリスマスやバレンタインだってろくに楽しんだことはない。

 ただ同じ毎日が続いていく。僕はそのことをとても心地よく思っていた。

 それから僕と悪友はバイト先の愚痴や、最近買った漫画の話、この前の飲み会で酔いつぶれた話なんかをしながら食事を済ませる。悪友はよく喋るので、聞き役に徹していればあっという間にきつねうどんはちょうどいい熱さにまで冷めた。


「なあ、今日このあとどうする?」


 食べ終えた食事のトレイを片付けていると悪友が言った。僕は手元の時計で時間を確認する。待ち合わせの時間にはまだ少し余裕があった。


「悪い。彼女と会う」

「はー? またかよ。ったくいいねー。いちゃつきカップルは」

「大人しく3限行ってこい。じゃないと来年、僕の後輩になるぞ」


 大学も三年生にもなってしまうと履修する授業はばらばらになる。彼女も同期ではあったけれど、この日は全休だった。

 悪友はしばらく粘ってSNSで暇人を探していたが、とうとう諦めて講義に向かうことになった。


「じゃあな。頑張れ」


 僕は煽るように言って、構内の銀杏並木で悪友と別れる。悪友は恨めしそうに僕を見ていたが、僕は振り返らずに駅へと向かう。

 13時58分。待ち合わせしていた時間の2分前。いつもの改札にまだ彼女の姿はない。



 結局、彼女が到着したのは15時過ぎ。約1時間の遅刻。改札から出てきた彼女は僕を見つけるや、特に走ったりするわけでもなく近づいてくる。


「なんだー、どっか入って待っててくれてよかったのに」

「別に平気。本読んでたし」


 僕は開いていた本に栞を挟み、鞄へと仕舞った。

 おかしいと思われるかもしれないけれど本当に平気だ。というよりも、彼女の顔を見ると平気になる。待っているときは多少不満を抱くこともあるけれど、どんなに遅れても必ず来てくれる彼女を見ると、抱いていた不満なんてどうでもよくなる。だから僕は、遅刻癖のある彼女を1時間だって2時間だって、本を読んだりしながら待ち続ける。計画していたデートが予定変更を余儀なくされることなんてのはよくあることだったが、そもそも僕も彼女も綿密な計画を立てたりするタイプではない。

 ちなみにこの話をすると悪友は腐った卵の臭いを嗅いだみたいな顔をしていた。

 まあ恋愛なんてそんなものだ。二人の間だけでしか成立しえない共通の感覚みたいなものがあって、そういうものの積み重ねで成り立っているのだろう。

 僕は彼女の遅刻さえも愛おしく思っている。


「じゃ行こうか」


 僕らのデートはたいていの場合、目的がない。もちろん彼女の希望で美術館に行ったり、映画館で映画を観たり、古着屋やセレクトショップを巡って買い物をしたりすることもある。だけどたいていの場合は街をふらふらと散歩し、疲れてきたらカフェや喫茶店を探して休憩する。そんな当てのない時間だ。

 僕はこの時間が好きだ。どこかへ向かおうとしているのにどこにも辿り着けなくて、まるで日々目覚ましく進んでいく世界から2人だけが取り残されてしまうような感覚が、妙にしっくりくるのだ。

 この日も僕らはぶらぶらと街を歩き、ウインドウショッピングをしたりしながら、疲れてきたところでカフェに入った。

 12月ともなれば外はだいぶ寒い。カフェで頼んだ温かいコーヒーは冷えた身体に滲みたし、こじんまりとしたワッフルの甘さは歩いた疲労感を瞬く間に癒してくれた。

 一息ついた僕らの話題は、週末どこに行くかという話へと移っていく。

 これと言ってサプライズを催したりするわけではないが、せっかく丸1日のデートなので、ちゃんと考えてどこかに行こうという流れになったのだ。


「どこか行きたいとこある?」


 僕がこう聞くのはお決まりのパターンだ。

 これは彼女に対して気を遣っているとか、そういう種類のものではなく、単に僕に行きたい場所がないから出てくる言葉である。ちなみに食べたいものやしたいことなど、いくつかのバリエーションが存在する。

 言うなれば僕は、彼女の行きたいところに行きたいし、彼女の食べたいものを食べたい。一緒に過ごせる時間だけが唯一尊いものであって、そのディテールについては本気でどうでもいい。究極的な話、彼女が庭の草むしりしようと言えば僕は黙々と草を毟るし、300円の牛丼を食べたいというのならば僕は喜んで牛丼を掻きこむだろう。

 だけどこの日は少し様子が違った。


「うーん……なんかある?」


 彼女は僕に問いを投げ返してきていた。予想外の事態に、僕は当然気の利いた答えを持ち合わせてなどいない。


「そうだなぁ。なんだろ」


 だからひどく曖昧な、逃げるような台詞を口にする。でもそれは致命的なミスだった。

 彼女が深く溜息を吐いた。吐いた息も向けられた視線も矢のように鋭くて、僕の胸がちくと痛む。


「いつもそうだよね」

「いつも?」

「そう。いつも。いつもいつも私ばっかり行きたいところ考えてる」


 彼女はもう一度深い溜息を吐く。うんざりだ。彼女の視線や表情、所作の一つ一つがそう物語っている。


「そうだね。ごめん。……行きたいとこかぁ。考えるね」


 僕は謝って沈黙。もちろんちゃんと考えていた。今やっている映画を頭のなかで並べたり、行きたいショップを思い出したりした。だけどどれもパッとしなかった。

 黙り込んだ僕を、コーヒーを口に含んだ彼女が見据えている。


「何が悪いか分かってる?」

「……え、うん。行きたいところ、いつも考えさせちゃってるところ?」

「それだけじゃないけどね」


 彼女はそれだけ言ったきり黙った。何も喋らず、時折スマホを眺めながら、ワッフルを食べてコーヒーを飲んだ。

 こうなると僕はもう言葉が出ない。何を喋っても彼女の機嫌を損ねるだけのような気がして、なんとか思いついた行きたいところさえ、口にすることはできない。


「今日は私帰る」


 彼女が次に口を開いたのは店を出たとき。それだけ言うと、ものすごい早歩きで歩いていく。


「週末の約束もなしで。行く気なくなった」


 もう彼女は振り返ることもなく、みるみるうちに遠くなっていった。僕はやっぱり気の利いた言葉の1つも思いつかなくて、今度は独り、世界から取り残されてしまった。


   †


 こうして僕らの2年の記念日は、何もなく終わった。

 ラインを送っても何時間か経って「あっそ」という素っ気ない返事が返ってくるだけで、まともな会話にすらならないまま、週末が終わった。

 それでも大学で顔を合わせればなし崩し的に一緒にはいたし、時折前のように当てのない散歩をしたりもした。

 でももう、何かが決定的に違うのだと、頭では分かっていた。

 そしてその漠然とした靄みたいな理解がかたちになるように、年が明けてしばらくして僕らは別れた。



『もう好きじゃなくなっちゃったみたい』


 2人のことを彼女なり懸命に考えてくれたことの分かるラインの長い文章は、その一言で締めくくられていた。

 実を言うと、彼女から別れを切り出されるのはこれが初めてではない。でもこの手の話題のなかで好きかどうかを告げられたのは初めてだった。

 もう取り返しはつかないのだと悟った。

 きっとこうなった理由は一つではないのだろう。時間をかけて色々と積もっていた不満のなかの一つが、彼女の気持ちを断ち切ってしまった最後の一つが、たまたまあの日だったのだ。

 たぶん、というかきっと、僕には色々なものが足りていなかった。

 行きたいところや食べたいものだけじゃない。キスもセックスもろくになく、時折手くらいは繋ぐけれど愛を囁くこともない。ただ一緒にいるだけで幸せだったのは僕だけで、彼女はずっと我慢させられていた。

 つまるところ、僕はちゃんと彼女を愛せていなかった。

 僕は何一つとして大切なことを彼女に伝えられていなかった。

 本当は引き留めたいと思っていた。

 でもできなかった。引き留めることが、僕のような人間と付き合っていることが、彼女にとっていいことなのだとは到底思えなかったからだ。

 僕は傷ついてなんかいない振りをして、たぶん一番傷つけられたのは彼女のほうだからと言い聞かせて、文章のお尻に〝!〟を使ってみたりしながら物分かりがいい風を装った返事を送る。僕が最後に送ったラインには、白い文字で既読がついただけ。彼女からの返信はなかった。

 もう別れて半年が経つ。

 それでも僕はまだ彼女のことが好きだ。

 たぶんこれからもしばらく、もしかしたらこの先もずっと、彼女のことが好きだ。

 でももう彼女はいない。僕は独り取り残されて、相変わらず取るに足らない毎日を繰り返す。彼女のいない毎日は、もう本当に無価値で空疎だった。

 僕は一緒にいられるだけで良かった。

 ただ何でもない毎日を、当然のように並びながら、二人でだれているだけで満足だった。

 そうやって大した意味もなく年を取っていって。僕らはふと思い出したように、いつからこうしてるんだっけなんて笑い合って、もしかしたら幸せな最後ゴールを飾る。

 そうやって――、そう、ヴァンパイアの恋人みたいに、果てのない永遠を変わらず過ごしていけたなら、僕はそれだけで幸せだったのだ。

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