思い出になんてしてあげない

 冬の朝。空気は凛と澄んでいて、カーテンの隙間から差し込む光は淡くて儚い。舞う埃は朝陽を受けて隠れそこねた星屑みたいに煌めいていて、私はなんだかとても泣きたくなる。

 やがて目覚まし時計が慌ただしく鳴って、私は伸ばした右手でそれを止める。ベッドのなかで小さく伸びをして、しっかりと溜息を吐いたあとでゆっくりと起き上がる。

 顔を洗って歯を磨く。とさかみたいに跳ねた前髪を整えて、髪を丁寧にブラシで梳かす。頭がようやく冴えてきたところで部屋に戻り、いつもと変わらない制服に袖を通す。最後に鏡の前でスカートの丈をチェック。校則ギリギリ。抜き打ち検査があっても問題ない。

 リビングに行けば、ラップの掛かった朝食が用意されている。どうやらママは先に仕事に向かったらしい。私はテレビを点けて席に着き、「いただきます」と手を合わせる。ぼんやりと内容のよく分からないニュースとコメンテーターの渋い顔を眺めながらヨーグルトとサラダを食べ終えた。

 部屋に戻ってスマホをチェックする。いつもの癖。だけどラインの通知はもうない。

 代わりにインスタを眺めたりして気を紛らわす。学校で人気の俳優の、出演情報が流れていく。

 7時20分――。。私は鞄を肩にかけて家を出る。

 しばらく歩いて、私は早く出過ぎたことに気づく。家に帰ろうかとも考えたけれど、けっきょく足を前へと進めることにした。

 たぶん私は確かめたかったのだ。もう君と一緒にいられないという現実を。失ってしまった大切で愛おしい時間の、喪失というざらついた手触りを。この心なんて粉々になってしまうくらいに強く、突き付けてほしかったのだ。



 住宅街の中にある、小さな公園。その時計台の下にある左から2番目のベンチ。そこが君の定位置。いつも私を待ってくれていた場所。

 君は公園に入ってくる私に誰よりも早く気づいて微笑んで、それから少し恥ずかしそうに小さく手を振ってくれる。

 ほんの一瞬幻視してしまったそんな君の影が、風に紛れて掻き消えていく。冷たい風に巻かれた落ち葉がカラカラと小さな音を立てながら、忙しなく足元を通り過ぎていった。

 私は公園の入り口で立ち尽くす。つと頬を涙が伝う。やがて溢れる涙に胸の奥が詰まって、私は立っていることもできなくなってその場にしゃがみ込んでしまう。

 冷たい風が容赦なく体温を奪っていく。散歩をしていたおばあさんが声を掛けてくれたが私は何も答えることはできなかった。

 学校に行く気なんか消えかけの蝋燭の灯よりも簡単に吹き飛んで、私は半ば投げやりな気持ちを抱えながらベンチに腰を下ろす。君はいつも私の右手側に座っていた。だから私は自然と左側に寄った。君がいなくても消えない癖が、余計に強く彼の不在を突き付けた。

 朝起きてから努めてに振る舞っていたつもりだったけれど、そんな私の努力を嘲笑うように君との思い出がよみがえっていく。



 出会ったのは4月の教室。窓からは校内の緑道に咲く桜が見えていた。仲のいい子たちとクラスが離れてしまって落ち込む私に「よろしく」と話しかけてきたのが前の席の君だった。ちょっとチャラそうだなって思った。

 5月の体育祭。君はクラス対抗リレーのアンカーで、3番目にバトンを受け取った。みるみるうちに他のクラスを抜き去って1着でゴール。リレーのメンバーを囲んでクラス中が歓喜に湧くなか、不意に目が合った。君は嬉しそうに笑って、感動で半泣きの私だけにと小さなガッツポーズをくれた。私は余計に泣いちゃった。もうこのときには、私は君のことがすごくすごく好きだった。

 6月。君に告白された。たぶん今まで生きてきたなかで1番嬉しかった出来事。君は耳まで赤くしながら、真っ直ぐな想いを私に伝えてくれた。私は嬉しすぎて、たぶんすごく変な顔だった。泣きながら笑って、「私も好きです」って返事をした。

 初めてのデートは動物園。ちょうど気温が上がり始めた時期のせいか、気怠そうに項垂れているシロクマを見て2人で笑った。君ははぐれないようにと、恥ずかしそうに私の手を握ってくれた。

 映画館にも行った。初めて2人で観たのは話題のパニックホラーで、びくびく驚く私の隣りで君はぐっすり眠ってた。映画が終わったあと、お詫びに奢ってくれた台湾かき氷はすごく甘くて、夢みたいだった。

 君の誕生日にはお揃いのスニーカーを買ってプレゼントした。黒のコンバース。君はすごく喜んでくれて、次の日に2人で足元の写真を撮りながら「バカップルみたい」って笑い合った。

 学校がある日は毎日一緒に帰った。暗くなるまでこのベンチで話し込んだ。取り留めもない会話なのに、いつも時間が過ぎるのはあっという間。私が帰りたくないとたまにごねると、君は困った顔で笑いながら、家の近くまで送ってくれた。思えば、初めてキスをしたのもこの公園のベンチだった。



 些細なことの全てが特別で、他愛のないことの全部が愛おしかった。

 私は確かめ合ったはずのこの気持ちは永遠に変わらないのだと思っていた。クリスマスも初詣もバレンタインも、一緒に過ごせるものだと思っていた。それなのにこんな唐突に、終わりが来るなんて私は露ほども思っていなかった。

 視界は涙で滲むのに、君と過ごした日々は嫌味なくらいに鮮やかで、今の私にはまだ痛々しくて眩しすぎる。


   ◇


 お昼が近づくと、公園にはベビーカーを押したママさんたちが集まってくる。砂場や遊具で遊ぶ子供たちを眺めながら楽しそうに話している。穏やかで愛に溢れた時間は、私により強く孤独を感じさせた。

 やがてママさんたちが帰るのと入れ違いに、今度は小学生たちが放課後を過ごしにやってくる。

 見慣れた制服を着ている下校途中の中学生たちが公園を横切っていき、私は結局学校をサボったことを思い出す。1日くらいはどうってことない。遠くの夕空にチャイムの音が響いていた。

 放置していたスマホには何件もラインがきていた。通知は全部、友達からのもの。誰にも何も言わずに学校をサボったのだから当然なのかもしれないけれど、こうして心配してくれる友達の存在は素直に嬉しい。嬉しいけれど、今はまだ返事をする気にはなれなかった。

 あっという間に紫色を帯びていく空を見上げたりしながら、日が短くなったなと思ったりする。

 徐々に人気の少なくなっていく公園に、呆れ返った調子の声が響いたのはちょうどそのときだった。


「あー、見つけた!」


 私は声の方向を振り返る。公園の入り口に陽菜ひなが立っていた。

 陽菜は明るい茶髪と短すぎるスカートを揺らしながら私の元へと駆け寄ってくる。表情から陽菜が怒っていることを察した私は逃げようとカバンを手に取るけれど、立ち上がるよりも先に両肩を陽菜に掴まれてしまう。


「もー、心配するじゃん! 連絡くらいしてよ!」

「あ、うん、ごめん……」


 私は泣いていたのがバレるのではないかと思って俯く。陽菜は空いている私の右側に腰を下ろして、コートのポケットから自販機のコーンポタージュを差し出した。


「もう冷めちゃったけど」

「ありがとう……」


 私はコーンポタージュを受け取って栓を開ける。


「うん、ぬるい……っていうか冷たい」

「まあ冷えても美味しいのがコンポタじゃん?」


 陽菜は言って、自分の分のコーンポタージュを飲んで「うっわ冷た」と悲鳴を溢す。


「あ、そうだ。茉希たちに教えたげなきゃ。あいつらさ~バイト行きやがって。薄情め」

「ごめんね……」

「いんだよー。あたしなんてよくサボってるし」


 陽菜は言いながら、スマホをいじっている。

 陽菜たちと私はクラスが違う。とは言え私と彼が別れたことは噂くらいにはなっているはずだから、きっと私が学校をサボった理由も知っているのだろう。だけど陽菜は何も言わず、私の右隣りに座って冷たいコーンポタージュを啜っている。

 公園は静かだったが、私は孤独ではなかった。無造作にベンチの右側に座ってみせたように、陽菜の存在が私の心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる。何も喋らずとも、今はその沈黙がすごく心地よかった。


「ね、莉子」


 やがて陽菜が思い出したように口を開く。あたりはすっかり暗くなっていたが、灯った電灯が振り向いた陽菜の表情をおぼろに照らしていた。


「カラオケ行かない? 寒いし」


 私は少し考えてから、首を縦に振る。


   ◇


 陽菜があいみょんの新曲を歌い終える。私はその美声に聞き惚れながら拍手をした。


「はー、すっきり」


 陽菜はマイクを通して楽しそうに言い、コンビニで買って持ち込んだポテチを頬張る。私がまだ次の曲を入れていなかったので、大きな画面にどこかの風景が映し出され、穏やかなメロディーが流れ出す。

 そう言えば、放課後に1度だけ、2人でカラオケに行ったこともあった。私の大して上手くない歌を君は楽しそうに聞いてくれて、歌い終わると拍手をしてくれた。

 ふと過ぎる記憶に思わず胸が苦しくなって、入力機械のタッチパネルにぽつぽつと雫が落ちた。


「莉子?」

「ううん、何でもない。何でもないの……」


 私が震える声を絞り出して言うと、陽菜が再びマイクを手に取ってソファの上に立ち上がった。


「陽菜……?」


 首を傾げた私をよそに、陽菜が大きく息を吸い込んだ。


『――――ばっかやろぉおおおおおっ! あたしのライン未読無視すんなぁああああああっ!』


 キーン、というハウリングとともに放たれた陽菜の絶叫に私は唖然とする。とりあえず叫んだ陽菜は満足そうに口角を吊り上げ、それからぺろりと舌を出す。


「あ、今の彼氏への愚痴ね」

「あ、うん……」


 突然のことに上手い返しが思いつかない。陽菜は唖然としている私にマイクを差し出した。


「全部吐き出しちゃお」


 私はマイクを握り締め、陽菜の隣りに立ち上がる。


『――――す、好きだったのに、お、お、重いって何だぁぁあああああああああああっ!』

『――――軽いよりマシだっつうの! 将来絶対ハゲろぉぉおおおおおおおおおおおっ!』


 私に続いて陽菜が叫ぶ。なんだかおかしくなってきて、私はお腹を抱えて笑う。


「陽菜、ひどい。ハゲろって」

「いいのいいの。『――愛の分からねえ奴はみんなハゲろぉぉおおおおおおおおおお!』。ほら、莉子も叫ぶのだ。スカッとするよ?」


 いたずらっぽく笑う陽菜に釣られて、私も笑う。それから2人一緒に深く息を吸い込んだ。


『『将来絶対ハゲろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!』』


 すかさず陽菜が曲を入れ、なんだかエッジの効いたギターの音が流れ出す。私たちはモニターに流れる歌詞を無視して叫び、笑い、飛び跳ねて騒ぐ。

 タンスの角に小指をぶつけろ。足臭くなれ。寝返り打ってベッドから落ちろ。

 私たちはそんな呪詛を叫びながら、歌って踊ってお菓子を食べた。

 身体が熱くなって、息が苦しかった。笑い過ぎでお腹も痛くなった。

 それでも嫌な感じはしなかった。圧し潰されそうな孤独と喪失は今はもう感じない。

 好きだった。たぶん今だって、好きかどうかと聞かれたら私は迷わず好きだと答えてしまうのだろう。

 だけど17歳の私の恋は呆気なく終わった。ほんの些細な気持ちのすれ違いが大きな歪みを生んで、私の恋を散らせてしまった。

 しばらくは、ふとした瞬間に思い出してしまう。楽しかった日々や幸せだった時間は刃に姿を変えて、私の心を傷つけるのだろう。

 でも私はもう泣かない。私はもう俯かない。この恋を綺麗だったただの思い出になんかしてあげない。

 過去の恋なんてすっぱりと切り捨てて、軽やかに、強かに。

 私たちが過ごせる青春はきっと短いから。

 前だけ向いて駆け抜けなくっちゃ勿体ない。

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