ほんの少し、寒い

「「「「お疲れ様でしたー」」」」


 鈴の音を鳴らして扉を開ける。「気をつけて帰れー」という店長の気のない返事が聞こえてくる。

 冷たく澄んだ空気が肌を撫でて、俺たち三人は揃ってほんの少しだけ身体を縮こまらせる。ただ一人、労働からの解放感に伸びをするように両腕を夜空に向かって突き上げていた真白ましろを除いて。


「いやぁー、働いた働いた!」

「働いたって二時間だけだろ」

「しょうがないじゃん。補習だったんだから」


 俺が言うと、真白が頬を膨らめる。背が小さいせいで上目遣いになるのが妙に心臓に悪い。


「僕はお前が補習を免れてたのが意外だったよ」


 真白の反対側から声がする。振り返れば今度はちょっと上からの目線で見下ろす、妙に鼻につくイケメンの顔がある。


「はっ。バカにすんなよ、あおい。俺は勉強したんだ。一夜漬けでヤマ張ったの」


 得意気に親指を立てた俺に、葵はやれやれと肩を竦めた。


「それとなく各教科の先生たちに探り入れてただろ。知ってるぞ」

「え、何それずるい!」

「ずるくないね。テストってのは情報戦だ」


 真白の言いがかりを躱し、俺はべっと舌を出す。それを見て真白は余計に頬を膨らめ、俺の肩を小突く。子供じみたやり取りに、葵はもう一度肩を竦める。

 俺たちはのんびりと歩き出す。しばらくは続いていたくだらないやり取りも、真白が分からない数学の問題があると言い出したことで終わりを告げた。一夜漬けで叩きこんだ公式は、テストの終了とともに耳の穴あたりから抜け出て跡形もなく消えるのだ。残念ながら、他人に勉強を教えられるような頭脳を俺は持ち合わせていない。

 会話から離脱した俺は少し手前を並んで歩く葵と真白を眺める。真白が教科書を取り出し、公式をそらんじていた葵がスマホのライトをつける。二人の距離が近づいて、着込んだコートが触れ合って、恥ずかしそうに顔を見合わせてまた距離を離す。そんな二人を見ていられなくて、お俺は思わず目を逸らす。

 だけど視界に映るのが舗装されたアスファルトと履き古したローファーのつま先になっても、楽しそうに話す二人の声を締め出すことはできなかった。


「青春だねぇ」


 俺の隣りでそう呟くのは朱音あかねさん。同じカフェでバイトしている大学生で、つまるところ俺たちよりも二つか三つ年上のお姉さん的存在だ。年齢のところが曖昧なのは、朱音さんが頑なに秘密にしているからである。


「そりゃ、高校生ですから」

「おばさん、のけ者にされて辛い」


 俺と同じように真白たちの後ろ姿を眺めていた朱音さんが空を見上げ、コートのポケットから出した両手で三角形を作ってみせた。


「青の大三角形」

「それを言うなら冬の大三角形っすよ。……てか星とか見えないし」

「混ざってこなくていいの?」


 朱音さんが俺を見る。マフラーに埋まる顔が意地の悪そうな笑顔を浮かべていた。


「勉強の話とか疲れるだけっすからね。テストもようやく終わったんで、俺はゲームと漫画のことだけ考えたいっす」

「そうじゃなくて。ほら、真白ちゃん」


 朱音さんは楽しそうな顔で、ほんの少し声を潜める。俺は意表を突かれて言葉に詰まり、それから眉を顰めて朱音さんを見やる。


「……どういう意味っすか」

「ふふー。私が気づいていないとでも思ってるのかね? 伊達に年を重ねちゃいないのよ、こっちは」

「年重ねるって、たかだか二、三年じゃないっすか」

「ふふー」


 朱音さんが楽しそうに笑う。ほんの少し年が上なだけなのに、朱音さんはひどく大人びて見える。


「君は意外と奥手なんだね。それに分かりやすい」

「は、何の話」

「褒めてるんだよ。バイトのときもそうだけど、何でも要領よくこなしそうだし。女の子の扱いとかもこなれてそう、顔が」

「いや、後半は完全に悪口でしょ」


 俺はあからさまに嫌そうな顔をする。朱音さんは頼りになるいい先輩だけど、なんかこう、掴みどころがない。今だって、こんな風に会話のペースを握られる。


「……色々あるんすよ、俺にも」

「ふーん。色々ねぇ」

「何すか、その顔は」

「まあそりゃ色々あるよなと思って」


 俺が分かりやすいのかは知らないが、朱音さんにはたぶん全部見抜かれているのだろう。


「ねえ、もしも二人が結ばれたとして、君は心から喜べるの?」

「……すげー意地悪な質問しますね」

「よく言われる」


 朱音さんはマフラーに口元を埋めながら楽しそうに笑っている。弄ばれている。このまま恥ずかしがりながら誤魔化し続けるのは何となく癪だったので、俺は答えてやることにした。


「まあ、葵はいい奴だし、真白が幸せならいいんじゃないっすかね。選ぶのは真白なんだし」


 半分は本心。そして半分は建前。

 そんな俺の答えが意外だったのか、朱音さんは元々丸い目をさらに丸くして俺を見た。


「……君は大人だね」


 朱音さんは何故か悲しそうに言った。俺は薄く笑って、かぶりを振る。


「全然子供ですよ。大人になり切れないから、気持ちに踏ん切りつけらんないんすよ」


 溜息を吐いて夜空を仰ぐ。星のない真っ黒な空に白い息が煙っていく。


   †


「俺さ、佐々木さんのこと好きだ」


 葵にそう言われたのは、いつものように体育館裏のベンチで購買のパンを齧っているときだった。俺はコロッケパンを咥えたまま、何と答えたらいいのか分からず、とりあえずいつもよりもゆっくりと口の中身を咀嚼する。

 もちろん葵が言う〝佐々木さん〟とは真白のことだ。


「別に、だからどうしろとかってわけじゃないんだけどさ。お前は佐々木さんと幼馴染でもあるし、なんとなく報告しとこうと思って」


 俺は脂っこいコロッケパンを舌の上で転がしながら、葵を見る。いつになく真剣で、そして気恥ずかしそうな顔をしている葵に向けるべき言葉を、俺は急に錆びついた頭を回転させて必死に探す。


 俺と真白は小五のときに知り合った。

 親の仕事の都合で二学期の途中という半端な時期に転校してきた真白は最初こそ猫を被って女子とアイドルの話をしたりしていたが、実際は相当なお転婆娘ですぐにボロが出た。気がつくと俺たち男子グループに混ざってサッカーをやったり、泥遊びをするようになっていた。

 家が近所だったこともあって、俺たちは割とすぐに仲良くなった。放課後はほとんど毎日、休みの日なんかも公園ではしゃぎ回って遊んだ。ドジですぐ転び、何かと危なっかしい真白は手のかかる妹みたいな存在だった。

 中学に上がればさすがに公園ではしゃぎ回るようなことはしなくなったが、それでも一緒にいる時間は多かった。たぶん俺が真白のことを明確に異性として意識するようになったのは、その頃だったと思う。

 学校や家で嫌なことがあっても、真白と一緒にいると楽な気持ちになれた。真白の笑顔を見ていると、不思議と俺まで笑うことができた。そんな些細なことだけど、俺にとって真白の存在はかけがえのないものになっていた。

 とは言え、幼馴染というある意味で特権的な関係性を進展させたいと思ったりはしなかった。漠然と、こんな感じの関係がずっと続くもんだと俺は思っていた。

 同じ高校に進学して、俺は葵と知り合った。最初はすかした野郎だと思っていたが、話してみたら意外と馬が合った。そして当然のように、葵と真白も知り合うことになる。

 葵はいい奴だ。すかしているように見えるのは不器用だからで、見かけよりもずっと優しい。勉強もスポーツもできるが、それは影でこそこそと努力しているからだと俺は知っている。実はよく笑うし、委員会の仕事なんかも黙々とこなす。唯一の欠点はゲームがド下手であることくらいだ。

 要は、その場しのぎで楽をすることばかりに長けている俺とは違う。楽をすることが間違っているとは思わないが、葵のように真っ直ぐな心根がバカバカしいとも思わない。むしろそれは、もし比べることができるなら、俺よりもずっと称賛される美徳だろう。

 それに何より俺は気づいていた。少なくともこの高校にいる誰よりも、俺は近くで真白を見てきたのだ。近くで真白と過ごしてきたのだ。

 だから真白の気持ちが誰に向いているかなんて、見ていればすぐに分かる。

 俺はほんの少しの間、目を閉じて想像してみる。

 なかなかお似合いだろう。


 俺は噛み過ぎて味のしなくなったコロッケパンを胃に流し込んで目を開ける。


「……まあ、いいんじゃね。どこがいいのか分かんねえけど」

「ありがとう」


 そう言ってまたすぐにコロッケパンを頬張った俺に、葵は嬉しそうに笑っていた。


   †


「じゃあ佐々木さん、また明日学校で」

「うん、葵くん、また明日ー。朱音さんもお疲れ様でした」


 駅前の交差点で俺たち四人は別れる。電車に乗る葵と朱音さん。徒歩で帰る俺と真白。


「じゃ、朱音さん、お疲れっした」

「ね、私思うんだけどさ」

「何すか改まって」

「子供のままでいいと思うよ。焦らなくても、勝手に大人にはなっちゃうもんだから」

「…………」

「じゃ、お疲れ様」


 俺は答えなかった。朱音さんはまた意地悪く笑い、手を振って去っていく。駅の方に歩いていく二人を見送ってから、俺と真白も並んで歩き出す。

 俺も真白も無言だった。あれだけ二人の後ろ姿を羨んでおきながら、二人きりになると話題が浮かんでこない。真白も真白で、さっきまではあんなに楽しそうに話していたくせに、今はスマホでインスタを眺めている。

 びゅうと風が吹いた。肌に刺さるような冷たさに、俺は肩を強張らせる。くしゅん、と真白が元気のいいくしゃみをした。


「風邪でも引いたか?」

「あ」

「……あ?」


 立ち止まってカバンを漁り出した真白に俺は聞き返す。


「あー、お店にマフラー忘れたぁー」

「あらら。取り行く?」

「いやぁ、だって鍵ないし、さすがにもう店長も帰ってるよね」

「まあ、そりゃそうだな」


 言われてみれば真白の首周りは寒そうだった。

 というか、今の今まで気づかなかったのか。そんなに葵との帰り道が楽しかったのか。

 ふと込み上げた黒い感情を押し込めて、俺は溜息を吐いて嘆いている真白をよそに、取り出したスマホでシフトを確認してやる。


「お前、日曜まで入ってないのな。明日、俺が回収してきてやるよ」

「うー、ありがとう。助かります。たぶん机か、ロッカーのなか」

「はいよ」

「うー、寒い」


 真白は肩を抱きながら歩き出す。俺もその後に続く。やっぱり話すことはない。いや話すことはあるのかもしれないけど、何からどう話したらいいのかが分からない。

 少し前を一人で歩く真白は、元々小さいくせに背中を丸めているせいか余計に小さく見えた。

 もうすぐで三叉路に差し掛かる。そこが俺と真白の帰り道の終着点だった。

 俺は僅かに歩調を速め、俺と真白の間にある隙間を埋めようとする。葵があんなに簡単に、ごく自然に歩いていた場所は、俺にとっては何故だかひどく遠かった。


「……ったく、世話の焼ける奴だな」

「え?」


 俺のマフラーを肩にかけた真白が振り返って目を丸くする。寒さでほんのりと赤くなった頬から俺は目を逸らす。


「風邪引くだろ」

「え、でも寒いよ?」

「俺は平気なんだよ。貸してやるからありがたく使っとけ」


 俺は気持ちとは裏腹に突き放すように言って三叉路を曲がる。真白は俺の背中に向けて「ありがと」と言い、俺は振り返りもせずに手だけ振って足を前に進めた。

 これはきっと後ろめたさだ。

 朱音さんは子供のままでいればいいと言ってくれた。でもそうじゃない。

 俺はどうしようもなくガキなのだ。

 大人になんてなり切れない。気持ちに整理なんてつけられない。

 それどころか、葵に隠れてこんな小賢しくて小狡いことをしている。

 これでは一体どっちがすかしているのか分からない。

 結局のところ、俺には度胸がないのだ。楽することばかり考えてきた俺は、自分が傷つくのが嫌で葵にも真白にも正面切って向き合うことができないのだ。

 きっとそんな俺だから、真白の隣りに並ぶことができない。ほんの少し後ろから、眺めていることしかできないのだ。


「あー、やっぱりさみー」


 俺は首を竦めて夜空を仰ぐ。間に合わなかった涙が目尻からこぼれて、ほんの少しだけ頬を濡らした。

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