限りなく透明だった(後篇)

 彼女の言う通り、もう漫画や絵を描く僕に突っ掛かってくるクラスメイトはいなかった。

 僕の絵に対して彼女が与えたが、僕を虐げようとする教室の空気を捻じ伏せたのだ。

 それどころかクラスメイトたちは時折、僕に話しかけてきさえするようになった。主には漫画の話。流行りの漫画の最新刊の感想とか、おすすめの漫画は何だとか。僕は相変わらずたどたどしくしか喋ることができなかったけれど、僕の吃音症をからかったりするクラスメイトはいなかった。

 描いた漫画を読ませてと頼まれることもあった。けれど僕は丁寧に断った。人に見せられるようなものではないし、僕が初めて漫画を見せるのは彼女だと決めていた。

 ちなみに彼女を主人公にした漫画を描く約束をしたことは、自然と二人だけの秘密になった。彼女はわざわざ言いふらすようなことはしなかったし、僕にはそもそもそんな話をするような相手がいなかった。

 二人だけの秘密――。そう言うとなんだか密やかで色めいた言葉にも聞こえるけれど、僕と彼女はどうしたって住む世界が違う。それは、同じ教室で息をして、多少は言葉を交わす機会が増えたとしても変わらない。僕にとっての彼女は煌びやかな世界に生きる物語の主人公で、彼女にとっての僕はちょっと絵を描くのが上手いただのクラスメイト。主人公というやつだけに許される特有の気まぐれで、僕はなぜか本当に彼女を主人公にした漫画を描くことになってしまったけれど、それだけだった。

 それに彼女は相変わらず人気者で、周りにはいつも誰かがいた。一対一の会話はなんとかこなせても、大人数での会話のなかでは話の流れに言葉がついていかない僕は黙り込む他にない。二回目くらいの挑戦でその事実を痛いほど認識し、それから大人数での会話はなるべく避けることにした。最初から独りなのと、大勢の人のなかで独りでいるのとでは、感じる孤独の種類が違った。

 だから僕が彼女と話す機会はほとんどないまま時間が過ぎた。

 そんな様子を見かねてか、だいぶ寒くなってきた一一月のある日の放課後、僕は彼女に呼び出された。



 鍵が壊れて開けっ放しになっている校舎の屋上には、冷たい風が吹いていた。コートが必要というほどでもないけれど、マフラーくらいはあってもよかったかもしれない。体温で温まっていたはずのワイシャツはあっという間に冷たくなっていった。


「漫画はどう? 進んでる?」


 彼女はフェンス越しにグラウンドを見下ろしながら僕に訊ねる。吐く息はほんのりと白く、頬は教室で見るときよりも少しだけ赤い。僕はその後ろでスクールバッグを握りしめたまま、所在なく立ち尽くしている。

 グラウンドでは早くもサッカー部が練習を始めていた。ランニングの掛け声がぽつぽつと響き始める。ひょっとすると彼女の思い人があの中にいたりするのかなと考えて、僕は訳も分からず少し憂鬱な気分になった。


「……ぼ、ぼちぼちっ、かな」

「嘘だ。今の、絶対進んでないって間だったよ」


 彼女は僕を振り返り、わざとらしく目を細める。

 実際のところ、進捗は芳しくなかった。いや、芳しいも何も、一ページだって描けてはいなかった。

 これまでただ自己満足で描いてきた漫画を誰かに見せなければならないというプレッシャーと、密かに好意的なものを寄せていた彼女を下手に描くことはできないというプレッシャーと、その他もろもろの重圧が複雑に絡まって、僕の筆を鈍らせていた。


「……す、ストーリー、がっ、き、決まら、決まらないんだ」


 僕が必死の思いで言葉を絞り出すと、彼女は顎に人差し指を当てて「うーん」と考え込む。間もなく整った顔をほんの少し歪めて微笑む。目の輝きが名案を思い付いたと物語っていた。


「君に質問する権利を上げよう」


 彼女は楽しそうに、灰色の寒空の下で鮮やかに笑った。


「…………は」

「は、じゃないよ。よく考えたら、私も君も、お互いのことよく知らないでしょ。だから質問して私のことを知ってもらおうと思って。名案でしょ?」

「は、はぁ」

「うーん、でも、普通に質問されても面白くないからなぁ」


 僕の返事などお構いなしに、彼女は再び考え込む。だけどまあ、さりげない会話のなかで質問を混ぜ込ませ、彼女の人となりを解明していくよりも、こうして質問できる場が設けられているほうが聞きやすい。ひょっとしたら、彼女はそんな僕の気持ちを見越して提案してくれたのだろうか。

 やがて彼女は「あ!」と、やはり楽しそうな声を秋と冬の狭間にある空に響かせた。


「そしたらルールを決めよう。君が質問できるのは毎週月曜日。放課後の屋上だけ。質問の数は二つまで。それと、質問の数だけ私も君に質問する。どうかな?」

「……わ、わかった」


 僕は彼女の申し出をありがたく受け取った。


「それじゃあ早速。質問をどうぞ」

「え」

「えじゃないよ。ほーらっ、質問」


 彼女が大股で二歩進み、僕との距離をぐっと詰めてくる。真っ直ぐに見つめられて、僕は彼女と目線の高さがほぼ一緒なことに気づく。


「……え、えっと、っ、じゃあ、す、す、好きな食べ物は……」

「うーんとね、抹茶のお菓子。抹茶アイスとかー、抹茶チョコとかー、抹茶のクッキーとか。君は?」

「ぼ、僕は……ない」

「えー、ないってずるい。というか、そんな人いる?」


 彼女はずるいと言いながら笑っていた。

 僕は何が好きなのだろう。あまりちゃんと考えたことがなかった。キノコとか生魚とか、明確に嫌いな食べ物はあったけれど、好きな食べ物は思いつかなかった。

 何が嫌いなのかではなく、何が好きなのかで世界を見られるからこそ、彼女は主人公みたいなのかもしれないと、僕は思った。


「まあいいけどさ。はい、じゃあ二つ目の質問どうぞ」

「…………す、好きな、本は? ま、漫画でもっ、へ、へいき」

「うーん、何だろうなぁ。好きな本、っていうか好きな作家さんは三浦しをん! 漫画はなんだろう。あ、『ハイキュー!!』は面白かったな。もう終わっちゃったけど」


 彼女と少年漫画がいまいち結びつかなくて、僕はぽかんと口を開けた。反応がなかったことで僕の内心を察した彼女は言葉を付け足してくれる。


「意外だった? 実は私、中学のときは女バレだったんだよ。あんま上手くなかったけど」


 彼女はサーブの構えをとって腕を振る。


「……た、たしかに、あんまり、う、上手くはなさそう」

「あー失礼だ」


 彼女はもう一度エアサーブをする。それから「たしかに上手くないんだよね」と言って笑う。

 僕と彼女は、寒さも忘れて他愛のない話を続ける。日が暮れるまでずっと。

 毎週月曜日。校舎の屋上。二つだけの質問。

 漫画は一向に描けなかった。むしろこの時間が続けられるとするならば、漫画は描けないでいるほうがいいのかもしれないとさえ思った。

 僕はたぶん、生まれて初めて、誰かと一緒にいる幸せを感じていた。


   †


 僕は一週間ごとに二つだけ、彼女について知っていった。

 好きな科目は世界史で、嫌いな科目は化学。兄弟はいないけど、北海道の大学に通っている従兄と仲がいい。小さいときに牡蠣に当たったことがあるから貝類は食べられない。小学生のときは男子に混ざってドッヂボールやドロケイをしていたお転婆娘で、よく擦り傷を作って家に帰るからお母さんに怒られていた。サンタクロースのことは未だに信じていて、神社やお寺に行くたびにお守りを買う癖がある。今年の夏に野球部の先輩に告白されたことがあって、今は彼氏はいない(過去にいたのかはなんとなく聞けなかった)。

 彼女のことを一つ知るたび、僕は自分のことも話した。たぶん聞くに堪えないだろう、薄暗い僕の半生や趣味嗜好を、彼女は嫌な顔一つせずに聴いてくれた。

 いい気分だった。まるでこれまで歩んできた取るに足らない人生に、何か特別な価値があるのではないかと思えた。

 そして相変わらず、漫画の作業は進んでいなかった。

 もちろん漫画を描くことを投げ出したわけではない。僕は授業をほったらかして漫画のストーリーを考えていたし、より魅力的に描けるようにと今まで以上に彼女をよく眺めていた。

 だからだろう。僕は些細な変化にも気づいてしまうようになった。

 一センチだけ髪を切ったとか。新しく買ったリップをつけているとか。セーラー服のスカートの、裾の糸が解れているだとか。

 僕が気づいて指摘するたび、彼女は「よく見ているね」と感心したように笑った。彼女曰く、普通は気づかないことらしい。僕は少しだけ、自分の観察眼というやつが誇らしくなった。

 そして僕は間違えた。

 幸せな時間は主人公とモブという絶対的な境界線を曖昧にし、褒められた僕は有頂天になって驕った。ただのクラスメイトという関係では踏み越えてはならない一線をまたいでしまったのだ。



「もうすぐ冬休みだね」


 彼女は下駄箱脇の自販機で買ってきたホットココアの缶を両手で包んで暖をとりながら言った。

 一二月ももう半ば。冬休み前では最後の月曜日。吐く息は真っ白で、コートとマフラーを着込んでいなければ立っているのも辛い寒さだった。別に屋上にこだわり続ける必要はない。だけどどれだけ寒かろうと、毎週月曜日の放課後、彼女は必ず屋上に来てくれた。


「う、うん」


 僕は答える。それから掌のなかで熱いくらいの温度をもっているホットココアを開け、慎重に一口含む。思っていたよりも熱くはなくて、僕はなんだか肩透かしを食らった気分になる。

 彼女はココアを握ったまま、ぼんやりと曇天が覆い被さった風景を眺めていた。その視線が、その表情が、ほんの少しだけ寂しく見えたのはたぶん、冬の空のせいではない。

 僕はこの一カ月、あるいは四月にクラスが変わってからずっと、誰よりも彼女を見てきたと思っている。それはあまり褒められたことではないのだろうけれど、ずっと見てきたという自負があるからこそ、ここ数日の彼女の様子がおかしいことにも気づいていた。

 表面上は変わらない。いや、変わらないように振る舞っている。友達と他愛のない話をして笑い、授業にも真面目に取り組む。だから周りのクラスメイトは誰も気づいていない。

 その程度の些細な変化。気のせいと言えばそれで済んでしまいそうな、ほんの僅かな違和感。

 だけど見過ごせなかった。僕にしか気づけない変化だとすれば、それにしっかりと気づくことは僕の宿命であるように思えたから。


「……な、何か、あった?」


 彼女が肩を強張らせたのが分かった。何も答えずともそれだけで十分だった。少しの間沈黙が流れて、やがて彼女は振り返らずに僕に言った。


「それは、質問?」


 彼女の言葉の意味は分かっている。質問ならば約束通り、そしてこれまで通りに、答える。だけどそうではないというのなら答えない。彼女が言いたいのはそういうことだ。

 きっと進んで話したいことではないのだろう。だけどという強権を使うならば、僕はそれを彼女に話させることができる。

 僕は迷わなかった。

 君の何気ない一言で、僕の世界は色づいたから。

 君の何気ない表情で、僕は確かに色づいたから。

 僕は君に、救われたから。

 だから今度は僕が、君のためにできることをしたい。

 僕は心から、そう思って頷いた。


「しっ、質問だよ」

「そう」


 彼女は握りしめていたココアの缶を開け、それをごくごくと飲み干す。床にそっと置かれた空のスチール缶が、渇いた音を立てた。


「親が離婚するの」


 彼女の言葉が内容の重さの割りにあまりに素っ気なくて、僕は反応できなかった。


「まだ決まったわけじゃないんだけどね。たぶん。でもさ、もし離婚したらどっちについてくか決めなきゃいけないんだ。そんなの、選べるわけないのにね」


 彼女は寂しそうに笑った。今度は何と言うべきなのか分からなくて、言葉が出なかった。自分から聞いておいて、僕は最低な奴だった。


「ほんと勝手だよね。勝手に結婚して、勝手に私のこと生んで。今度は勝手に別れるから、お前は好きなほうを選べ、だよ? 私にとってはどっちも大切で、一人しかいないパパとママなのに。順番をつけろって」


 僕はようやく、踏み込んではいけない場所に踏み込んだのだと理解した。しかも土足で。

 言葉は出なかった。何を言ったら彼女を救えるのか分からなかった。だけど僕なんかが何を言っても彼女は救われないのだと思った。僕は最低で、無力だった。

 重苦しい沈黙が圧し掛かった。そのまま潰されて死んでしまえばどれだけ楽だろうと思った。

 だけど圧し潰される前に彼女がパンと手を叩いて、嫌な沈黙を強引に払いのけた。


「っていうのが〝何かあった〟の〝何か〟でした」


 彼女は赤くなった頬を吊り上げて、無理矢理に笑顔を作る。その笑顔があまりにも切なくて、僕はお門違いにも泣きそうになる。


「ははは……。ねえ、今日はさ、もう帰ってもいいかな」


 僕は答えられなかった。たぶん答えなければいけなかった。引き留めなければいけなかった。だけど寸前で、これ以上踏み込むことに怯えてしまった。

 取り残された僕を咎めるように、冷たい風が吹く。空き缶が倒れて響く音は泣き声みたいで、耳の奥にこびりついて離れなかった。



 それが僕と彼女の最後の会話。

 冬休みが明けると、彼女の席はなくなっていた。

 担任の教師は、彼女は家庭の事情で転校したと説明した。行先を知っているクラスメイトくらいはいたのだろうが、僕に聞く勇気はなかった。

 いつも斜め後ろから眺めていた彼女の席は、犯した過ちを突き付けるように進級するまでずっと僕の視界の隅に大きな穴を空けていた。


   †


「――――完結おめでとうございます!」


 軽快なリズムのポップミュージックと列をなす人たちのざわめきが押し寄せる。僕は少し汗ばんだ手で握るマジックペンをなるべく流暢に滑らせて、渡された宛名と徹夜で考えたサインを書く。

 顔を上げると高校生くらいの男の子が立っている。少し興奮気味なのか、あるいは緊張しているのか、呼吸が浅い。


「あ、ありがとうございます」


 僕はサインをしたためた単行本を閉じ、彼に手渡す。まるでたいそうな賞状でも受け取るみたいに単行本を手に取った彼と握手を交わす。


「絵がすごい好きで、読み切りのときからずっと読んでるんです!」

「そ、そうなんですね。嬉しいです」

「次回作も絶対買うので、楽しみにしてますね!」

「が、頑張ります」


 僕は精一杯の笑顔を作り、一礼して去っていく彼を見送る。書店の人に案内されて、大学生くらいの男の子が入れ違いに近づいてくる。


 から、一五年が経っていた。

 残り一年と少しだった高校生活を僕は何をするでもなく浪費し、ぎりぎりの成績で高校を卒業した。進学も就職もしなかった僕は卒業してからも漫然と時間だけを貪った。

 そしてあるとき思い出したように、あの日以来触ることのなかったノートを手に取って、コマ割りもろくに終わっていない描きかけの漫画を再び描き始めた。

 それはもちろん、あの漫画だ。

 高校時代の青い感情を募らせただけの漫画。完成しないまま、後悔に圧し潰されて閉じてしまった漫画。彼女に見せると約束した漫画。

 今更全てが遅い。描き上げたところで何も変わりはしないだろう。

 分かっていた。あの日の約束は果たされなかった。それだけが全てだった。

 編集部に持ち込んではダメ出しをされ、コンテストに応募しては落選し続けた。両親には疎まれ、近所からは白い目で見られた。友達がいなかったのは幸いだったと言えるだろう。きっと煌びやかな大学生活や仕事の愚痴を聞かされていれば、頭がおかしくなっていた。

 僕の小さな世界の全てが筆を折るよう囁いていた。

 それでも僕は描き続けた。記憶のなかに生きている、彼女の姿を描き続けた。

 奇跡が起きてWebでの読み切りが決まったのが二年前。さらなる奇跡が重なって雑誌での連載にまで辿り着いた僕は、度重なる奇跡のおかげでつい先日に単行本の最終巻の発売日を迎えた。

 今日はその完結を記念して開かれた、書店でのサインイベントだった。

 売れ行きが良かったかと言われればそうでもない。僕の名前も、作品も、世の中には大して知られてなどいない。たぶんこれは成功と呼べるようなものではない。一五年もの時間をかけた結果としては、あまりにささやかな成果だと言えるだろう。

 だけど僕は描き終えた。もう読んでくれる彼女はいないけれど、僕は描き終えたのだ。


 僕はサイン本を手渡し、大学生くらいの男の子と握手をする。絵柄について分不相応な褒め言葉を頂き、僕は何度も感謝を口にする。

 次の人が案内されて近づいてくる。僕の漫画には珍しい女の人の読者で、僕はにわかに緊張してすぐに単行本の表紙を開いて視線を落とした。


「あ、宛名、は、どうしますか?」

「姫川へ、でお願いします」

「え?」


 僕はその透き通った声に、思わず顔を上げた。マジックの先が紙に押し付けられたまま、インクが黒く滲んでいく。

 すっと通った鼻筋に、ほんの少し切れ長の目。くっきりとした二重のまぶたに、上品な薄めの唇。

 忘れるはずも、見間違えるはずもなかった。

 その人は整った顔を僅かに歪め、僕に笑顔を向ける。


「ほら、やっぱり君の絵は上手かったでしょ」


 それは一五年前に見たあの楽しげな笑顔で、

 そして僕が一五年間描き続けてきた、単行本の最後のページを飾る主人公の笑顔だ。

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