限りなく透明だった(中篇)

「……これ、私なの?」


 クラスメイトたちの見下すような視線が僕を取り囲むなか、とどめを刺すように彼女の声が響く。

 怖くて彼女の顔は見られなかった。僕は俯き、薄汚れた上履きの青いゴムの部分をこれでもかと凝視している。「黙ってちゃ分かんねえよ」と誰かが笑った。それはひどく冷たくて、見下すような声だった。

 見下されることは構わなかった。事実、盗み見たクラスメイトの異性を勝手に絵にすることが見下されても仕方のないほど気持ちの悪い行為だと分かっている。

 僕は何度も頭の中で言うべき言葉を繰り返し、ようやく音にして絞り出すことができた。


「ご、ご、ごめ、ご、ごめんなさい」


 もちろん酷く不恰好な声だ。ところどころで裏返り、躓きまくったたった六文字はクラスメイトたちの失笑の的になる。女子たちはひそひそと何かを話しながら、眉を顰めて僕を睨んだ。

 僕も謝ってどうにかなることだとは思っていない。けれどどうすればこの糾弾から解放されるのかも分からない。これから一年半、彼らのいじめに耐え続ければ許してもらえるのだろうか。きっとそうなったら、もう漫画を描いてはいられないのだろうなと思った。僕はたぶん、彼らの歪んだ正義感によって、静かだった漫画の世界から引き摺り出されてしまう。

 そう思って、ほんの少し憂鬱になった僕の耳朶に彼女の声が再び聞こえた。


「なんで謝るの?」


 僕より驚いていたのは周囲のクラスメイトたちだった。皆が一斉に振り返り、教卓の奥で守られるかのように立っていた彼女に視線が集まる。彼女は逆に驚いたようで、困ったようにクラスメイトたちを見回した。


「え、だってすごくない? 私、こういうイラストっぽいのけっこう好きだよ。ほら、これとこれとか、その日のメイクの感じで少しだけ目の感じ変えてるんだなぁって分かるし。へへ」


 彼女が最後に照れくさそうに笑い、切れ長の綺麗な目を細めた。


「……まあ、姫川がそう言うならいいけど」

「確かに言われてみれば上手いのかもね」


 戸惑いのなか、そんな言葉が口々に飛び交って。僕はほっとしたのか、全身から力が抜けてよろめき、そこそこ豪快に尻もちをつく。


「だ、大丈夫?」


 彼女が駆け寄ってくる。髪なのか服なのか分からなかったけれど、彼女からふわりと香水だかシャンプーだか柔軟剤だかの甘くて優しい匂いが香る。僕は余計に眩暈がして天井を仰ぐ。

 遠くどこかで鐘が鳴っていた。がらがらと扉を開ける音がして、クラスメイトたちが口々に何かを言った。間もなく全ての音が遠退いて、鐘の音に吸い込まれていく。景色は強く差し込んだ光に呑まれて白んで、やはり一つに溶けていった。

 それはまるで一つの世界が音を立てて壊れていくようだと、僕は思ったんだ。


   †


 無遠慮に開けられた扉の音が意識を呼び起こす。目を覚ました僕の、まだ定まらない視界に差し込むオレンジ色の光。

 鼻の奥にほのかに刺さる消毒液の匂いに混ざって、あの甘くて優しい匂いがした。


「あ、起こしちゃった?」


 彼女だった。僕は困惑して言葉が出ず、大袈裟に首を振って周囲を見回した。


「保健室だよ。倒れたからみんなで運んだの。先生は貧血だって言ってた」


 ありがとう。そう言いたかった。

 保健室へと運んでくれたことだけじゃない。クラスメイトに糾弾されていた僕を救ってくれて。描いた絵を、好きだと言ってくれて。

 だけど結局、言葉は音にはならず、僕の喉の奥に引っ掛かって、どこか暗いところへと落ちていった。

 僕は彼女が気を悪くするだろうと思ったけれど、彼女は何事もなかったかのように隣りのベッドに腰かけた。


「授業中なのに何でいるのかって? ふふふ、お見舞いだよ」


 彼女はベッド脇で足をぶらぶらと揺らす。少しサイズが大きいのか、上履きがぽろんと脱げる。その様子を眺めながら彼女は笑みを深くする。


「嘘。お見舞いは口実。今、体育なの。面倒だからサボっちゃった」

「……ぼ、僕を、こ、口実に、つ使っ、て?」

「そう。君を口実に使って」


 意外だった。僕の知る限りにおいて、彼女とサボりが上手く結びつかない。

 僕は時計を確認する。確かにまだ六限目が始まってすぐの時間だった。

 彼女はサボっている。それも貧血で倒れた、大して仲良くもないクラスメイトをダシにして。


「女の子には色々あるんだよ」

「え……」


 異性とは縁遠い僕にだって多少の知識はある。中学のときにやった保健学習の賜物だ。でも面と向かって、しかも多少なりとも好意を抱いている女子に言われて、僕はなんだか恥ずかしくなった。

 慌てて視線を逸らした僕を見透かして、彼女は小さく鼻を鳴らす。


「今、変なこと考えたな?」

「……い、い、いえっ」

「ふふふ。焦りすぎだよ」


 彼女はいたずらが成功した子供みたいに、楽しそうに笑った。そういう笑い方もするんだな、と僕はぼんやりと熱を持つ頭で思った。


「でもね、君の絵、いいなって思ったのは本当」


 彼女は大きく伸びをして、そのままベッドに倒れ込んだ。まだぶらぶらと揺れている脚は無防備に、シーツと同じくらいに白くて綺麗な太腿を晒している。


「休み時間にね、たまたま君の後ろ通りかかったときにノートが見えちゃって。上手だなーって思ってたんだけど、なかなか話しかけるタイミングなくってさ。君って、いつも話しかけられるの拒むみたいにノートに齧りついてるから」


 図星だった。普段の自分まで見透かされていたことに恥ずかしさと驚きを感じた。不快な感じはなかった。


「そしたらたまたま佐藤くんがノート拾ってきてね。よくないなとは思ったんだけど、なんか中身見る流れになっちゃって。ごめんね」

「…………い、っ、いえ」


 そもそも見られて困るようなものを描いていたのは僕なのだ。少なくとも彼女が謝るようなことではない。それにノートが開かれてしまったことで不愉快な気持ちを抱かされたのは、僕ではなく彼女のほうなのだ。

 だけど、僕の口は本当に役立たずで、そのあとに言葉を続けることができなかった。


「君はもっと自信を持っていいと思うな。あの絵だって、確かに盗み見て描いてたのは良くないかもだけど、もっと胸を張っていいと思う。モデルの私が保証するよ」


 彼女が横向きに寝返りを打つ。少しだけスカートがずれて、太腿の面積が広がる。僕は慌てて視線を逸らし、自分が寝ているベッドのシーツの皺の数を数える。


「ま、もう君が何と思おうと、君の絵は上手いことになっちゃったけどね」

「え……」

「だってそうだよ。私が君の絵を好きだと言った。たぶんもう、あからさまに君の絵を下手だって言う人はいないよ。あのクラスに、君ほど真剣に絵を描いている人はいないから」


 いまいち彼女の言っている意味が分からなくて、僕は顔をしかめた。シーツの皺をいくつまで数えたのか分からなくなる。


「たとえばさ、モナリザだってそう。あれを下手だ、芸術じゃない、違う、なんて言えるのはレオナルドダヴィンチくらい一生懸命、絵を描いた人だけ。そうじゃない人たちは誰かが最初に決めた〝これは素晴らしい絵だ〟っていう評価をなんとなく鵜呑みにして、それっぽいことを言うんだよ。あ、別にモナリザを下手クソだって言いたいわけじゃないよ? これは価値の話。本質を語ろうとするには、それと同等の信念が必要ってこと。信念が伴ってない批判は、夏のセミの鳴き声よりも鬱陶しいだけ。君が耳を貸す必要はない」


 残念なことに、僕は彼女の言葉をほとんど理解できなかった。たぶん漫画を描いていただけの僕とは違うものが見えているのだろう。


「さっきから私、一人で喋ってるみたい」


 彼女に言われて、僕はやっぱりなと思った。他愛のないコミュニケーションすらスムーズに取れない人間と会話をするほど面倒なことはないだろう。今日まで生きてきた一六年と半年で、何度も思い知らされてきたことだ。

 そして大体、うんざりと眉を顰めるか、面白がるように口角を吊り上げる。だけどベッドから身体を起こした彼女はそのどちらでもなかった。ただいつも通り、まるで授業中のような真剣な顔で真っ直ぐに僕を見た。


「それ吃音症って言うんだよね。いいよ、私気にしないから。ゆっくり喋ってくれて大丈夫。君がちゃんと言いたいこと言えるまで待つよ」


 ああ、彼女は本当に主人公なんだ、と僕は思った。弱者を見捨てず、多様性を受け入れ、誰とでも手を取り合おうとする。そういうことを臆することなく口にしたり、行動に移したりすることができる健全で強靭で、高潔な精神の持ち主なのだ。

 だけど彼女は、僕のそんな妄想を、やっぱり見透かしていると言わんばかり、軽々と乗り越える。


「それでさ、それを踏まえて質問」


 彼女の黒い瞳はブラックホールみたいに僕の意識を縫い留める。


「どうして私の絵を描いてたの?」


   †


 結論から言うと、僕は彼女の質問に答えることができなかった。

 もちろん、彼女は言葉通り、僕が喋るのを待ってくれた。急かすこともなくずっと、それこそ体育の時間が終わるまで待ってくれた。

 だけど僕は答えることができなかった。いや、答えられるはずがなかった。

 うまい嘘を考えてはぐらかすこともできたのかもしれない。だけどそうもしなかった。

 真摯に向き合ってくれようとした彼女の問いをはぐらかしてしまうのは、ひどく卑劣な行為だと思ったから。

 だけど沈黙は金なりなんていうのは大嘘だ。僕は三〇分近く黙っていた結果、とんでもなく自分の首を絞める結果を招いた。

 六限目の終了を告げるチャイムが鳴るなか、彼女は顔をしかめて僕に言う。


「よし、分かった。教えてくれないなら私にも考えがある」

「え……」

「一つ気になってたことがあるの。君のあのノート、前半はちゃんと漫画なのに、私のところは絵だけだったでしょ? だからちゃんと物語にして。私が主人公の漫画、君が描いて」

「……え、い、あ、いや……」

「異論はなーし。もう決めたの。そして完成したら私に見せて。約束ね」


 彼女はずるかった。僕の答えも聞かず、教室へと戻っていってしまったのだから。

 かくして僕は、なし崩し的に彼女を主人公にした漫画を描くことになってしまった。

 僕が思っていた通り、確かに彼女は主人公だった。だけど僕が思っていたよりもずっと聡明で気高くて、そして強かでちょっとだけずるい主人公だった。



 思えば、もうこのとき既に僕が閉じ籠った世界は壊されていた。

 白黒モノクロームの漫画だけの世界を抉じ開け、彼女は僕を色づいた現実へと半ば強引に連れ出した。

 限りなく透明だった僕に、世界には色があるのだと気づかせてくれた。

 そして彼女は僕の前からいなくなった。

 描けと命じた漫画の完成を見届けることもなく、いなくなったのだ。


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