限りなく透明だった(前篇)
君の何気ない一言で、僕の世界は色づいたから。
君の何気ない表情で、僕は確かに色づいたから。
僕は君に、救われたから。
だから今度は僕が――。
†
僕は透明人間だ。
見えるのに見えなくて。
確かにそこにいるのに、誰も僕を気に留めない。
原因は分かっている。
僕がそれを望んだから。
僕は変だった。
少し強い言葉を使うなら、そう――僕は壊れていた。
生まれながらにして、僕は致命的に壊れていた。
気がついたのは小学生のとき。
僕は人よりも喋るのが下手クソだ。単語一つを取ったってスムーズに喉を通って出てこない。不自然に言葉を繰り返してしまったり、つっかえたり。酷いときは池の鯉みたいに口を開閉させるだけで、音すら出てこない。
これは吃音症という立派な病気なのだけれど、小学生がそんなことを知る由もないし、変な喋り方をする僕を気遣ってくれたりするはずもない。
みんなと違う。学校という狭い環境で、それはあまりに目立つ。特にみんなが普通にやってのけることをできないというのは、それだけで致命的だ。
僕は当然の流れでいじめられるようになった。上履きを隠されたり、体操着をゴミ箱に捨てられたり。放課後や休み時間に集団に取り囲まれて小突かれるなんてのは日常茶飯事で、教科書に落書きされていたり、ロッカーに虫の死骸が詰め込まれていたこともあった。
凄惨な少年時代。陰鬱な経験。
だけど勘違いしないでほしい。
僕が変なのは吃音症だったことでも、虐められていたことでもない。いやそれはそれで変なのかもしれないけれど、それらはまだ序の口だ。
ならば何が変なのかと言えば、僕は僕自身に降りかかる無邪気な悪意に恐ろしいほど無関心だったことだ。
その感覚を言葉にするのは難しい。
僕は自分がいじめられていることをしっかりと理解しながら、嫌悪を抱いたり、哀しくなったり、虚しくなったり、怒ったり――そういういじめに対するあらゆる反応を示すことができなかった。
もちろん殴られれば痛かったし、ゴミ箱から拾い上げた体操着の臭いは不快だった。だけどそれは僕に降りかかるいじめに対して向かう感覚や感情ではなくて、もっと即物的で、動物的な反応に近いものだったのだと思う。
そんな僕の違和感を決定づけたのは、奇しくも当時の担任だった。
まだ若く、教育に対する情熱に溢れていた彼女はある日の学級会で僕に対するいじめを問題化した。涙ぐみながらクラスメイトに正しさと優しさを説く担任を、僕は他人事のように感じていた。どうして僕が何も感じていないことに、担任がこんなにムキになっているのか不思議だった。
ともかくこの致命的なズレは、生きていく上で非常に不都合なのだと僕はこのときに学んだ。
だから中学に上がってから、僕は意識的に人と関わることを止めた。
大して傷つかない僕をいじめて怒られる誰かが哀れだったし、お門違いの正しさと優しさをあたかも絶対の真理みたいな顔をして説く先生の傲慢さにもうんざりだった。
吃音症は治っていなかったから喋れば同じ轍を踏むことになるのは分かっていた。僕はクラスメイトや先生の問いかけなどには「へえ」とか「そう」とか「はい」とか、最低限の応答をするに留めた。教室では音楽を聴くか、寝るかして、とにかく目立たずに生活することを心掛けた。
そんなときだった。
僕は漫画という世界に出会う。
漫画の何にそんなに惹かれたのかと言われれば、正直なところよく分からない。
ひどく抽象的な表現になってしまうけれど、漫画の登場人物たちは不条理でやり切れない世界の中で、その手に何かをしっかりと持っていて、それを掴んだり、離したりしながら確かに生きているように見えた。その何かは綺麗だったり、汚かったり、痛かったり、安らかだったり、一定ではない。だけどそのどれもが、壊れている僕から漏れ出てしまった大切なもののように思えたのだ。
とにかく時間を持て余していた僕はたくさんの漫画を読み、やがて自分でも漫画を描き始めた。
誰かに見せるわけでもない。ただ真っ白なノートにシャーペンでコマを振って、絵を描いて、台詞を与えていく。
綺麗に製本されて本屋の棚に並び、誰かの手に取られて希望へと変わるものが漫画なら、僕の描くそれは漫画と呼べる代物ではない。だけど漫画を描く時間は、僕の心に巣食っていた虚無を埋めてくれた。
それは僕がなれなかった僕自身の投影とも言える作業だった。
僕は没頭した。ますます他人とは関わらなくなった。放課後や休み時間はもちろん、隙を見ては授業中でさえ漫画を描くことに没頭した。
気がつけば僕は中学を卒業していた。良くも悪くもない中途半端な成績で通える近所の高校に通うことになったが、どこにいてもやることは一緒だった。
僕は誰に見せるでもない漫画を描き続けた。
僕のいる世界は漫画みたいに白黒で、でもそれで十分だった。
†
高校生になれば、僕の変人ぶりは誰もが認めるところだった。
誰とも喋らず関わらず、ただひたすらノートに絵を描いている奴。
自分で描いた絵を眺めては時折ニヤついている不気味な奴。
大方そのへんが周囲のクラスメイトが僕に抱いている印象であり、僕自身それは間違いではないと思っていた。
僕は最初の一年間でこの〝不気味〟という便利な立ち位置をしっかりと築き上げることに成功する。小学校のときのように無暗に話しかけたり、いじめたりしてくるような誰かはいなかった。狭い教室のなかで同じ空気を吸い、同じ授業を聞きながら、僕は限りなく透明に近い存在になった。
たまに聞こえてくる僅かな侮蔑に目を瞑ってしまえば、僕の世界は平穏で静かだった。
中学のときと何も変わらない。
漫画を描くことしか見えていなかった僕には、確かに変わり始めていた周囲の景色なんて、何も見えていなかったのだ。
二年生に上がって、新しいクラスになって。僕は彼女の存在を知る。
誰もが認めるような美麗な容姿。すっと鼻筋は通り、ほんの少し切れ長の目に、くっきりとした二重まぶた。唇は薄く上品で、表情はいつだって自信と気品に溢れている。すらりと伸びた手足を始めとする緻密な計算によって作られたようなスタイルは、まるで学校指定のセーラー服が彼女に着られるために存在していたんじゃないかと思わせる程度には、造形美として完成されている。表情は主に正の方向に豊かで、彼女が笑えば教室のなかが華やいだ。勉強もスポーツもそつなくこなすが、理系科目は少しだけ苦手。そんな隙が周囲の人間に親近感を抱かせ、彼女の周りにはいつも人の温かい輪ができる。何より、凛と通るのに決して押しつけがましさを感じさせない透き通った声が、印象的だった。
僕が抱いた第一印象は主人公。
吃音症でろくに喋れず、友人も恋人もいない僕とは、住む世界の違う人。
僕なんかと同じクラスにされてしまったのは何かの手違いなんじゃないかと真面目に思ってしまうくらいに、眩い人。
気がつけば僕の手は、漫画ではなく彼女を描いていた。
授業中、先生の話に聞き入っている彼女。ノートに視線を落として板書を書き写す彼女。休み時間にクラスメイトに囲まれながら笑顔で話す彼女。弁当の卵焼きを頬張っている彼女。
僕はずっと漫画を描いていたせいか、模写は致命的に下手だった。誰にも見せないとは言え、彼女を下手クソに描いてしまうことはあってはならない気がして、僕は漫画のキャラクターにデフォルメした彼女の似顔絵を、これまで漫画を描いていたノートに描き溜めていく。
控えめに言って、死ぬほど気持ち悪いことをしている自覚があった。話したこともない地味なクラスメイトが秘密でノートに自分の絵を描き溜めていたなんて、想像力に乏しい僕ですら猛烈な寒気がしてくる事案だ。見られれば僕の高校生活は間違いなく破滅する。よく知らないけれど、肖像権の侵害とか何とかで訴えられることもあるのかもしれない。
だからノートの管理には細心の注意を払っていたはずだった。
(……ない。……ないぞ、ノートがないっ!)
ある日の三限目の終わり。僕は漫画ノートがないことに気づく。全身が凍りつき、喉の奥がはりついていく。見慣れたはずの教室の景色は急速に歪み始め、背中はぶわりと不愉快な汗をかく。
朝まではあった。全校集会のときは確かに手元にあったのだ。
一・二限目の美術の授業のときはどうだ? 覚えていない。手元には持っていたように思うけれど、黙々と課題をこなしていたので確信はできない。
三限目は教室移動をしての日本史。彼女とは選択している授業が違ったし、科目担当の先生が厳しいので授業中に漫画を描くことはしていない。やはりここでも持っていた確信が持てない。
誰かに拾われてしまったらどうしよう。
表紙だけなら何でもないノートで、僕の名前だけが書いてある。そもそも学校で使うためのものでもないので学年やクラスは記載していない。
普通の人が謎のノートを拾ったら、どんな行動をとるのだろう。
まず名前で持ち主が僕だと分かる人間はいないだろう。それができるのは何名かの先生くらいだが、可能性としてあまりに低いので除外する。
学年やクラスも分からなければ、たぶん中身を見る。中に書かれていることで何の科目のノートなのかが分かるし、板書の内容で学年がおおよそ推測できる。
(終わりだ)
中身を見られたら終わる。最初の数ページこそ冒険活劇の自作漫画だが、そのあとは全部、彼女を盗み見て描いた似顔絵だ。僕の名前を知らなくても、彼女のことを知っている人は多い。もしかしたら拾った人が、絵のモデルが彼女であることに気づき、彼女に見せるかもしれない。いや見せるだろう。あれだけたくさん描いてあれば、彼女が持ち主を知っていると思うのは当然だ。
いや、そういう善意からの行動に期待するのはあまりに希望的な予測だ。間違いなく気味悪がられる。そして拾った人は彼女に対する親切心でこう言う。「気を付けたほうがいい」と。
彼女が誰かの悪口を言ったり、貶めたりするところはうまく想像できない。でも嫌悪感くらいは抱くだろう。たぶんクラスメイトたちは義憤に駆られ、僕を糾弾する。また陰湿ないじめに発展するかもしれないし、ホームルームで公開裁判にかけられるかもしれない。どちらにせよ、クラスの中心にいる彼女を、卑劣な方法で傷つけておいて無事でいられるわけがない。
いじめられることも、裁かれることも、別に構わない。
だけど漫画を、彼女の絵を描けなくなることはどうしても辛い。
四限の授業の間、僕は生きた心地がしなかった。何の授業だったのかさえ覚えていないほど、内容は頭に入ってこなかった。
チャイムが鳴って昼食が始まるや、僕は教室から飛び出して今日自分が歩いたルートを辿った。
視聴覚室。美術室。男子トイレに中庭。体育館。下駄箱に駐輪場。既に落とし物として届いている可能性も考慮して職員室にも赴いた。
だけどどこにも、僕のノートはなかった。
僕は半日にわたる自分の行動をもう一度頭で反芻しながら教室へと戻る。到着するや、教卓のあたりに集まっていたクラスメイトの視線が僕へと向いた。
おかしい。そんなことはあり得ないはずだった。
僕は透明人間。そこにいるのに、誰にも見えていない人間だ。
だからその視線の意味を悟るのに、時間は掛からなかった。
(終わった……)
「なあ、これ、お前が描いたの?」
少し強面の、身体の大きな男子が僕に問う。彼の分厚くて大きな手が持っているのは、他でもない僕の漫画ノートだ。
見開かれたページには、授業中に盗み見た彼女の絵。教卓に集まっているクラスメイトのなかには既に彼女も混ざっている。
死にたい気持ちになった。全部終わりだ。何もかも終わりだ。今すぐ叫んで走り出し、数メートル先の窓ガラスを突き破ってしまいたい気分だった。
「ねえ、どうなのよ?」
彼女と仲のいい女子が睨むような視線を僕に向けた。僕は呼吸すらうまくできなかった。焦って真っ白な僕の頭のなかに、返すべき言葉が浮かんでくるはずもない。
「この絵、姫川だよな?」
言わずもがな、〝姫川〟とは僕が勝手にモデルにしたあの彼女のことだ。「そう言えばいつもちらちらこっち見てたよね」と誰かと誰かが囁き合った。
「なあ、どうなんだよ?」
ノートを持った男子が一歩、僕に詰め寄る。
何かを言わなければならなかった。だけど言葉は喉元まで出かかって、だけど引っ掛かって砕け散る。
僕は池の鯉みたいに、不恰好に口を開閉し続ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます