この雨をさえぎって

 それは今にも落ちてきそうな空だった。

 分厚くて黒い雲が重く圧し掛かっていて、見えもしないどこか遠くで雷が鳴っている。罅割れた場所から空が崩れて、この世界を呑み込んでくれたらどれだけいいだろうと私は思う。

 今にも雨が降り出しそうだからだろうか。あるいは今朝まで雨が降っていたからだろうか。

 公園には私以外に誰もいない。あの滑り台も、ジャングルジムも、鉄棒も、誰一人遊んでくれる子供がいないのに、律義に寒空の下で佇んでいる。


「馬鹿みたい」


 声は掠れて、ぬかるんだ地面に落ちる。足元にあるひどく濁った水溜まりに水滴が落ちて、不恰好に歪んだ波紋が広がって消える。

 制服のポケットに入れたスマホが振動した。確認しようと思って一度取り出して、やっぱり止めた。能天気で楽しい気分にあてられるのは嫌だったし、安いっぽい言葉で同情されるのはもっと嫌だった。

 世界の全てが輝いて見えたあの日々も。千切れそうになるような胸の痛みも。今こうして私を圧し潰そうとする深くて大きな哀しみも。

 全部が私と先輩との思い出だから、そこに何か別の言葉が混ざってしまうのが嫌だった。

 きっと私は馬鹿なんだろう。

 誰にも遊んでもらえなくても律義に凍えているあの遊具たちみたいに、私はどれだけ傷つけられても先輩が好きなのだ。好きで好きで仕方がない。

 どうしようもないもないくらいに愛おしくて、どうしようもないくらいに痛い。

 それが私の初恋だった。


   †


 高校生になって、右も左も分からずにいた私に優しく声を掛けてくれた先輩。

 背が高くて、かっこよくて、優しく笑う先輩。

 明るい茶色に染めた髪とか、左の耳に空いたピアスとか、そういうのが全部、すごく大人に見えて憧れた。

 先輩を好きになるまでに、これが初恋だと気づくまでに、そう時間は掛からなかった。

 駆け引きなんてできなかった。隠しておくこともできなかった。私はひどく不器用だった。そして先輩のことが好きで好きで堪らなかった。

 私は先輩に「好きです」と伝えた。先輩はいつものように優しく笑って、「それじゃあ俺たち付き合おっか」と言ってくれた。

 先輩はいつも、授業が終わると下駄箱のところで私を待ってくれていた。普段はただ一緒に帰るだけ。たまに駅前のカフェやファミレスで先輩の用事がある時間まで暇を潰したり、もっとたまにボーリングやダーツに連れて行ってくれたりした。

 手を繋いだり、キスをしたり、セックスをしたりした。胸の奥がじんわりとあったかくて、頭のなかがぽわっとして、すごくすごく幸せで、ほんの少しだけ痛かった。どれも私の初めてだった。

 先輩は私の目が綺麗だと褒めてくれた。可愛いと微笑んでくれた。その笑顔が好きで、私はずっと気に入らなかった一重の目も好きになれそうな気がした。

 先輩は忙しいから休みの日に会えるのは月に一回あるかないかだった。会えるときにはショッピングをしたり、映画を観たりした。先輩はおしゃれで、意外とホラーが苦手だった。あと涙もろいことも知った。

 本当はもっと会いたかったけど、私は何も言わなかった。言っても先輩を困らせるだけだと思ったし、休みの日に会えない分、放課後には時間を作ってくれていた。一緒にいられるだけで、私は幸せだった。

 私は休みの日を使って近所のコンビニでアルバイトを始めた。先輩と色んなところに遊びに行くにはお金が必要だったし、先輩に幸せをもらってばかりの私は、自分も先輩に何かをしてあげたいと思った。慣れないアルバイトで怒られることもあったけれど、先輩と過ごす時間のことを思えば辛いことはなかった。

 私は幸せだった。幸せなのに、周りの友達は私を心配した。

 かっこよくて優しいのだから当然なのだけど、先輩は女子にすごく人気があったから。

 私は幸せだったから不安になった。

 よくよく考えてみると、どうして先輩が私なんかと付き合ってくれるのか、分からなかった。



「遊ばれてんじゃね?」


 それはある日の帰り道。たまたま最寄り駅で遭遇した幼馴染が無神経にもそんなことを言う。


「そんなわけないでしょ。バカなこと言わないで」

「いて」


 私は鞄を振って、幼馴染のお尻を叩く。大して痛くもないくせに、幼馴染はお尻を擦って私を睨む。

 幼馴染のこいつとは小学校からの付き合いだった。別に特別に仲がいいわけでもないけれど、悪いわけでもない。中学も高校も同じだけど、積極的に一緒にいたり、お互いを気に掛けたりもしない。言うなれば、ただ付き合いの年数が長いだけの、一番仲のいい男友達だ。


「そういえば、あんた部活は? まさかサボり?」

「ちげーよ。ほれ、この痛ましい手を見ろ。おれ選手、名誉の負傷のため本日は病院にて治療」

「なにそれ」


 幼馴染は包帯でぐるぐる巻きになった右手を掲げる。突き指だか骨折だか知らないけれど、まだ暗くなる前の時間にも関わらず帰路に着いているのはそういうわけらしい。


「お大事に」

「…………お、おう」


 突然に幼馴染がどもる。私は怪訝そうに眉を顰める。ちょうど夕陽が差し込む陰になって、幼馴染の顔はよく見えなかった。

 私たちはしばらく無言で夕暮れの道を歩く。空気は冷たい。そよぐ風に乗って、冬の匂いが香る。

 ついこの前まで暑いくらいだった気温はここ一週間くらいでぐっと冷え込んだ。マフラーとかはまだいらないけれど、カーディガンとタイツは必須だ。


「コンビニ寄っていい? 腹減った」

「食いしん坊か」

「成長期なんだよ」

「早く行っておいで」


 幼馴染はいそいそとコンビニに入っていく。私は用もないのに入るのは気が引けて、駐車場の車止めに乗って待つことにする。

 私は無駄遣いはしないと決めている。確かにお小遣いで生活していた時に比べて、アルバイトをしている今は財布にも余裕がある。だけど私が懸命に稼いだお金は先輩との時間に使うものだ。先輩のためにお洒落をし、先輩と一緒に何かを食べ、先輩と一緒に何かを見るために使うものだ。

 軽くジャンプして隣りの車止めに飛び移る。両手を広げてバランスを取って、落ちそうになるのをなんとか堪える。それを繰り返す。


「……何、やってんの」

「あ」


 幼馴染はいつの間にか戻ってきていた。私は何事もなかったように車止めから降りて歩き出す。


「帰るよ」

「半分やるよ」


 幼馴染は言って、ビニール袋から取り出した肉まんを半分に千切る。二つに割れた肉まんの中身からもわぁっと白い湯気が立つ。すっかり暗くなった風景のなかで湯気をまとう肉まんは、お月様みたいだ。


「……なんで?」

「なんでって、一人で食うより二人で食うほうがいいだろ。いつだって共犯者は必要なんだよ」

「なんか悪いことしてるみたい」

「まあ、この時期の、この時間の肉まんって何か罪だよな。夕飯前だし。ほら、小さいころご飯の前に変なもん食うなって怒られるもんだろ、母さんとかに」

「ま、そうかもね」


 私は「へへ」と笑って肉まんを受け取る。指先からじんわりと熱が伝わってくる。アホな幼馴染は早速口に入れたらしく、はふはふ言いながら顔をしかめている。

 幼馴染の母親は私たちが小学校に上がってすぐに病気で亡くなっている。当時、幼馴染の塞ぎ込みようはひどく、家に引き籠りがちだった。ようやく学校に来たと思えば同級生と喧嘩をして騒ぎを起こした。

 特に私が何をしたというわけではないし、たぶん時間が勝手に解決したことなのだろうけれど、こうやって『母親』の話題をさらりと口に出せるようになるまで、それなりに長い時間がかかった。

 今ではこうしてブラックジョークみたいに母親の会話を混ぜ込んでくるくらいになった。幼馴染が重く考えていないなら、私も考えない。てきとうにあしらったり、笑い飛ばしたりする。たぶんそうやって人は喪失や傷を乗り越える。幼馴染を見ているとそう思う。

 それからまたしばらく私たちは無言で歩く。二人並んで歩きながら、罪深き肉まんを頬張っている。

 幼馴染のほうが早く食べ終わり、ミルクティーを飲み始める。歩きながら飲むなんて器用だなと、私は肉まんをもぐもぐしながら思う。私は肉まんでさえだいぶ歩くペースが落ちているのに、幼馴染はミルクティーを飲みながら平然と歩いている。それにしてもすごい勢いで飲んでるな。


「なあ、さっきの話だけどよ」

「さっきの話? 肉まんの罪の話?」

「ちげーよ。お前の、その、か……先輩の話」

「ああ、そっち」

「おう、そっち」


 幼馴染はたぶん今、「彼氏」と言いかけて止めた。私がその意味を考える前に、幼馴染が言葉を続ける。


「もし本当に気になるならよ、それとなく本人に聞いてみたらいいんじゃん……って普通なら言うんだろうな。でも俺はそのままにしとけよって思う。今、幸せなんだろ? なら無暗に踏み込んだりしなくていいんじゃねえの。……俺はさ、たぶん現状が、こう、幸せグラフの頂点かもしれないって思うから、その維持に努めるっつうか、欲張りすぎないようにするっつうかさ」

「なにそれ。今日、なんか変だよ」


 眉を寄せながら一生懸命に説明する幼馴染がおかしくて、私は小さく噴き出す。幼馴染は呆れたように目を見開いて、あんぐりと口を開ける。何だ、顔芸か。


「だいたい、お前が変な話するからだろ。俺がこうやって真摯に答えてやってるってのに!」

「はいはい。ありがとう。参考にさせていただきますね」

「気持ちが籠ってねえ!」

「恥ずかしいから大声出すな」

「気持ちが! 籠ってないよーっ!」


 幼馴染が馬鹿みたいに叫び、私はとうとう堪え切れなくてゲラゲラ笑う。何がそんなに面白いのかも分からないのにゲラゲラ笑う。もしかしたら虫食いみたいにできた胸の内の不安が、笑いとともにどこかへ飛んでいってくれることを期待したのかもしれない。


   †


 結果から言うと、私は幼馴染の真摯な応答を無駄にした。

 不安を抑えきれなかった。欲張ってしまった。

 きっかけは些細なことだった。

 仲のいい友達から、先輩が別の高校の制服を着た女子と歩いていたという話を聞かされたのだ。

 しかも目撃情報は一件ではなかった。一件ではないというのは、同じ出来事を複数の人が見たというのではない。少なくとも聞かされただけで三人、先輩は別の高校の女子と歩いていたというのだ。

 私は聞かなかったことにしようとした。私だってついこの前、幼馴染と二人で歩いていた。先輩にも幼馴染がいて、たまたま二人で歩いていただけかもしれない。幼馴染が三人いるかもしれない。もしかしたらお姉さんとか妹さんとか従姉妹とかかもしれない。そうやって、都合のいい可能性を思いつく限り並べ立てて、不安を押し込めようとした。

 だけど無理だった。

 私は先輩に送ったLINEの返信が途絶えた次の日の帰り、帰り道で先輩を問い詰めた。雨上がりの息が詰まるような空気をめいいっぱい吸い込んで、不安を吐き出した。


「俺と一緒にいるの楽しくなかった?」


 先輩は他校の女子と歩いていた事実を全て認めたあと、私にそう言った。歩いていた女子は幼馴染でも従姉妹でも何でもなかった。つまりはそういうことなのだと、私は理解した。

 だけど私は首を振る。我ながら馬鹿だと思う。

 それでも、たとえ他にも付き合っている女子がいたとしても、先輩と二人で過ごしたあの時間のきらめきを否定してしまうことはできなかった。


「ならそれでいいじゃん。みんな幸せだろ?」


 そう言われて、私は泣いた。何で泣いたのかは分からない。幸せだけど哀しくて、苦しいけれど好きだった。


「ごめん。俺さ、そういう重いのとか、面倒くさいのとか、ちょっと無理だわ」


 先輩はほんの少しだけ顔を歪めながら、私に向けてそう言った。


   †


 あたりはすっかり暗くなって、落ちてきそうだった空はとうとう雨を降らせ始めた。

 鞄には折り畳み傘が入っていたけれど、取り出す気力すら私にはなかった。私はぬかるんだ地面に足を取られたみたいにブランコから動けないまま、氷の矢みたいに冷たい雨にその身体を晒し続けている。

 こうしていると本当に世界が終わるみたいだった。

 雨は制服に滲み込み、私の体温を容赦なく奪っていく。少しずつ命が漏れ出していくような感覚だった。

 別に死にたいわけじゃない。でもどうしたいのか、どうしたらいいのか分からない。

 私に無理だと告げた先輩は私が落ち着くのを待ってはくれたけど、そのあと用事があると言って帰っていった。私は何も言えないまま、改札口を通って人混みに紛れて行く先輩の背中を見送ることしかできなかった。

 本当はずっと気づいていた。時折、先輩が電話をしていると女の人の声が聞こえた。用事があるときはいつも、決まっていつもよりほんの少しだけ甘い香水の匂いがした。コンドームが入っているポーチに女性もののリップが覗いていたこともある。

 きっと不安はいきなり押し寄せたりしない。そういう些細な出来事の積み重ねが、今の私の姿だ。我慢し続けられるほど割り切れなかった。

 私は幼かったのだろう。何も知らなかったのだろう。恋の甘い部分だけを吸って、有頂天になっていた。恋は苦いものだと、傷つけられることもある痛いものだと、知らなかった。

 それなのに。

 こんなにも胸が痛いのに。

 もう一度会いたかった。

 過ごした時間は嘘ではないと確かめたかった。

 先輩が私と付き合っていたことを、こんな簡単に過去にしてしまいたくなかった。

 不意に雨が止んだ。

 実際は止んだのではなく、遮られたのだということが頭上でパラパラと鳴っている雨音のせいで分かった。私はハッとして顔を上げる。


「なーにやってんだ」


 そう言って苦い笑みを浮かべていたのは、先輩ではなかった。

 私はこの期に及んでつまらない期待を抱いてしまった自分を嘲笑したくなる。


「なんだ、あんたか」

「あんたかとは失敬だな。ったく、そんなに濡れてよ。風邪引くぞ」

「ほっといて」


 幼馴染のスニーカーは泥まみれで、制服のスラックスは膝の上まで濡れていた。自分だって濡れてんじゃん、と恨み言を言わないのは、幼馴染がこの雨のなか必死になって私を探してくれたのだと分かったから。

 嬉しいとは言わなかった。余計に泣きそうになるのを堪えていたから、すっごい不細工な顔になっていたに違いない。


「可愛くねえの」


 なんて失礼な。

 幼馴染はそれだけ言って黙った。私は幼馴染がすぐに帰っていくかと思ったけれど、幼馴染はその場にとどまって、無言で私に傘を差し続けていた。


「なに、してんの」

「ほっとけ。雨の音に耳を澄ましてんだよ」

「意味分かんな」


 私もそれだけ言って黙る。黙って並んだ私たちを、降りしきる雨の音が包み込んでいく。ほんの少しだけ、圧し潰すようだった雨音は心地よい音色に変わっているような気がした。

 来てほしいのは、会いたいのは、あんたじゃないのに。私はまだそう思っている。この世界の終わりみたいな雨を切り裂いて、先輩が私を迎えに来てくれないかと、ありもしない妄想を願っている。

 それなのに、そっと優しく添えられた幼馴染の気持ちに寄り掛かってしまう私はたぶん、今とてもずるい女の子だ。

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