描く人(後篇)

 キスをした次の日の朝、教室に着くよりも早く校内放送が響いた。

 呼び出されたのは先生と私。どうして呼び出されているのかは、周りで騒めいている生徒たちが聞かなくても教えてくれた。

 鞄を持ったまま職員室へ向かった私を教頭が出迎え、私は校長室へと連れていかれる。初めて入る校長室は、想像していたよりもずっと普通で質素な部屋だった。

 先生と私は執務机の前に並んで立ち、校長先生が険しい顔で椅子に座っている。教頭もどこか落ち着かない様子で、時折溜息を吐いたり、窓の外を見たりしながら話が切り出されるのを待っている。

 私はちらと先生を伺う。先生はただ真っ直ぐに前を見ているだけで、いつもと何も変わっていないように見えた。そのことがほんの少しだけ寂しかった。


「呼ばれた理由は分かるかな?」


 やがて校長先生が切り出す。少し間を置いて、先生が答える。


「昨日の放課後の件、でしょうか」

「それもそうだが、どうやら以前から生徒たちの間では噂になっていたようじゃないか。君が生徒と不適切な関係を持っているのではないか、とね」


 私は思わず声を上げそうになった。先生に対する私の気持ちを〝不適切〟とかそういう黴の生えた言葉で括ろうとする校長先生に私は腹が立った。

 だけど私が何も言わなかったのは、私が口を開くよりも先に先生が頭を下げたから。


「申し訳ございません」


 いつもどこかのんびりしている先生の、聞いたこともないような固く冷たい声だった。


「もちろん、校長先生方が心配しているようなことは何もありません。ですが私の指導に、教師としての自覚に至らない部分はあったかもしれません。茅吹は美術部にも所属しており、熱心に取り組んでくれている生徒です。周囲から見て、私が彼女に肩入れしているように見えるような指導や接し方をしてしまっていたのかもしれません。全て私の至らなさが原因です。彼女は一生徒、一部員として一生懸命に取り組んでくれているだけです」


 先生が頭を下げたまま、静かに、だけど強く言った。校長先生は眉を顰め、教頭は咳払いを一つ挟んで口を開く。


「ですが、その、き、キスをしていたという証言もありましてね……」

「昨日の美術準備室のことでしょうか?」

「じ、自覚があるということですか?」

「いいえ。ですが、おそらく、彼女のまつ毛についてしまった絵の具を取ろうと近づいたときのことではないかと思います。今考えてみれば、角度によってはそういう行為をしていたという風に見える可能性もあるかと。茅吹は私が荷物を運び入れるのを手伝ってくれたのですが、あまり整理整頓がされている場所ではないので。使いっぱなしにしていた絵の具を撥ねさせてしまいました」


 先生は顔を上げる。校長室には重苦しい沈黙が流れる。


「では全て誤解だと?」

「はい。誓って、噂されているような事実はありません」


 先生がきっぱりと言い切り、校長先生と教頭は二人そろって深く息を吐いた。


「まあ、君に限ってとは思っていたがね。だが自覚が足りなかったのは事実だ。若くてかっこいい先生はそういう誤解も生まれやすい。今後はこういうことがないように、もっと注意深く生徒の指導に当たるように」

「あくまで噂です。二人が何もなかったという顔をしていれば、そのうち熱は冷めることでしょう。一応、しばらくの間は美術部の顧問は別の先生にお願いすることになります。それ以外の学校生活でも、誤解が生じることのないよう、慎んで行動するようお願いします」

「はい。申し訳ございませんでした」


 先生がもう一度、頭を下げる。釣られて私も頭を下げた。



 私たちは校長室を後にする。並んで廊下を歩きながら、互いに何も話さない。ほんの少しできた、二人の間の空白のせいで、先生がすごく遠くに感じられる。


「あの、先生」


 私は不意に立ち止まって、階段を上がっていく先生を呼び止める。先生は立ち止まって振り返り、それから私が言葉を続けるよりも先に口を開く。それはまるで私が何か言うのを恐れているように見えてしまって、私はもうそれ以上何も言えはしなかった。


「茅吹さん。ご迷惑をおかけしました」


 聞きたいのはそんな言葉じゃなかった。だけど私にはどうすることもできないのだと、悟らされる。


「…………私も、ごめんなさい」

「いえ。茅吹さんが謝ることは何も。さっきも言ったように、教師である僕の自覚が足りていなかったからこそ招いた事態です」

「先生……」

「安心してください。教頭先生が仰っていたように、こちらが毅然とした態度をしていれば噂は忘れられていきます」

「そうじゃなくて」


 私はいけないことをしている。そういう自覚はあった。だけど気持ちは止まらなかったし、止められなかった。決して受け止めてもらえない気持ちは、地面に落ちて砕けるだけだと分かっていても、私にはどうすることもできやしなかった。

 授業開始のチャイムが鳴った。響く鐘の音が、今この瞬間だけ先生と私を世界から切り離してくれるたらなんて、私は突拍子もないことを祈った。


「……正直に言うと、戸惑いました。昨日、茅吹さんにキスをされるまで、こういうことになり得るのだという可能性さえ、頭のなかにはありませんでしたから」


 先生はどこか悲しい目をしていた。


「僕みたいに何の取り柄もない人間に好意を抱いてもらえたのなら、それはとても喜ばしいことだと思っています。ですが、僕はその好意に応えることはできません。僕と茅吹さんは、男女である前に教師と生徒であり、大人と子供だからです。すいません」


 先生はゆっくりと、深く、私に向かって頭を下げた。

 いつだってそうだった。先生は生徒に、私に真っ直ぐに向き合ってくれる。誰よりも真摯に言葉とか感情とかを拾い上げようとしてくれる。

 だから私は何も言えなかった。そんなに悲しい目で、辛そうな顔で、頭なんか下げられてしまったら、もう何も、私の気持ちなんて伝えられるわけがなかった。

 先生が泣きそうなほど辛い顔をしていたから、私は笑う。たぶんそれだけが、今の私ができる唯一のことで、そうすることだけがきっと正しかった。


「……知ってましたよ。ちょっと、…………ほんのちょっと、からかってみたかっただけです。先生だって、女子高生とあんなことできて、ラッキーだったでしょ」


 私は無理矢理口角を吊り上げて、意地悪く笑ってみせる。先生は困ったように視線を伏せる。私はなんだか耐えられなくなって、そのまま先生に背を向けて駆け出した。

 呼び止める声はなかった。先生と私は教師と生徒だから。大人と子供だから。先生は私の背中に掛ける言葉をもたないし、私も真摯に向き合ってくれた先生の言葉という現実をちゃんと受け止めることができない。



 私は外廊下を飛び出して、校舎裏に向かう。

 やけに静かな校舎裏には風が吹く音だけが聞こえている。授業中なら誰が来ることもない。この痛いくらいの静寂だけが私を、邪まで狡くて醜い私の存在を許してくれるような気がしていた。

 私はしゃがみ込む。つい昨日の放課後、私が告白を断った男子のことを思い出した。

 きっと彼も痛かったのだろう。辛かったのだろう。苦しかったのだろう。

 今なら少しだけ、あのとき言葉に詰まった彼の気持ちが分かる気がする。

 剥き出しの心は、シャボン玉のように脆いから。

 私は呼び出されたとき、ほんの少しだけ嬉しかった。理由なんて分からない。ただもしかしたら何かが変わるかもしれないと、そんなことを思った。

 先生は困るだろうか。きっと困っているだろう。そして困りながら、でも照れ臭そうにはにかんで、私を受け入れてくれる。そんな都合のいい妄想を抱いたりした。

 でも先生は言った。噂されているようなことは何一つないと。そう言わなければいけなかったのは分かっているけど、私はそれがどうしようもなく寂しくて、痛かった。

 たぶん、こうなることは初めから分かっていた。先生が、先生は先生だから、生徒である私の気持ちを受け止めてくれるはずはない。

 先生の言葉は正しくて、私の気持ちは間違いだったんだ。

 胸の奥が詰まるように痛くて、私は唇をきつく結ぶ。痛みはいつまで耐えても引かなくて、私はブラウスの胸のあたりを強く握る。

 涙が溢れた。砂利の上にぽつりぽつりと水滴が落ちて滲んでいく。

 時間が経てば、いつか私が大人になれば、この胸の痛みは消えるのだろうか。空気と地面に消えていくこの水滴みたいに、この痛みもいつかは消えてなくなるのだろうか。

 私には分からなかった。

 初めて知った胸の痛みがこれから先、どうなっていくかなんて想像もつかなかった。

 分かっているのは一つだけ。もうこの痛みを知らなかったときの私には戻れないということ。先生を好きになる前の私は、もう消えてなくなってしまったということ。

 きっとこれは間違いだった。

 私は間違えたんだ。

 先生にキスをするべきじゃなかったし、もっと先生に近づきたいなんて望むべきじゃなかった。先生と過ごす時間を増やしたいだなんて美術部に入るべきではなかったし、初めて話したあの日に本なんか借りるべきじゃなかった。

 好きになるべきじゃ、なかったんだ。

 私は間違えた。

 間違えた。間違えた。間違えた。

 どんなに後悔しても遅かった。胸の痛みが消えないのと同じで、先生を好きになってしまった私の気持ちも全然薄まってすらくれなかった。

 好きだった。

 本や絵について楽しそうに話すときの、少年のような笑顔が好きだった。

 授業中に見せる少し不愛想で真剣な表情が好きだった。

 筆を持つときの、少し骨張った細い腕が好きだった。

 私が話す拙い言葉を、真正面で受け止めようとしてくれるところが好きだった。

 他の先生に仕事を押し付けられがちな、損なところも好きだった。

 考え方が好きだった。

 声が好きだった。

 私を真っ直ぐに見てくれる目が好きだった。

 全部。先生の全部が好きだった。

 だから、苦しかった。

 それなのに今もまだ、間違っていると分かっているのにそれでも、私は先生のことが――。


「…………大嫌い」


 恋なんて、知らなければよかったんだ。

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