描く人(前篇)

「好きです。俺と、付き合ってください」


 放課後の体育館裏。ほのかに香る金木犀の匂い。開け放たれた扉の隙間からは、ボールを突く音と騒めく声が聞こえてくる。

 私は弱く吹いた風に靡く髪を、右手でそっと抑える。

 真っ直ぐに向けられる澄んだ眼差し。ほんの少し赤らんだ頬。相手の心臓の脈打つ音は、今にも聞こえてきてしまいそうで、私のほうが少し戸惑った。


「ごめんなさい」


 私は槍みたいに突き出された剥き出しの好意から逃げるように頭を下げる。相手のほうは自信があったのか何なのか、言葉に迷ったまま時間が止まったみたいに立ち尽くしている。


「もう、行っていいかしら?」


 私が訊いても彼は俯いているだけだったので、踵を返す。踏みしめた砂利が冬手前の澄んだ空気に小気味よく音を立てていた。



 校舎と校舎を繋ぐ外廊下から中へ戻る。途中、腕を組みながら歩く一学年上のカップルとすれ違う。他愛のない男女の会話。今日は駅前のカフェに寄ろうとか、なんとかかんとか。

 楽しいのかな、と疑問に思った。私には絶対に手に入らないものだと分かっているからか、変な屈折なく素直に羨ましく思えた。


「青春ですね」


 立ち止まって振り返り、見えなくなったカップルの後ろ姿を眺めていた私に、ぼそりと声が掛けられる。私はさすがにびっくりして、思わず小さな悲鳴を上げる。声の方を見上げれば、教材のたくさん入った箱を抱えた先生が立っていた。

 少し伸びた癖毛。憂鬱そうな目元。男のくせに長くて綺麗なまつ毛。背は高くて、華奢なのに意外と骨張って男らしい腕。


「こんにちは。茅吹かやぶきさん」

「い、いきなり声掛けないでください。びっくりするので」

「すいません。一応、遠目に声をかけたのですが、気付いていなかったようだったので」


 先生の口元がふと緩む。笑うようなことは何もないけれど、その少年みたいな表情のギャップに私の胸の奥は詰まるようにちくりと痛む。


「て、手伝いますよ」

「いいんですか? もう下校されるのでは?」

「まだ帰りませんよ。部活出ますから」

「それなら部活に行ったほうが……」

「先生、顧問でしょ。教えてほしいことあるんです。だからこれも準備のうちです」


 私は半ば強引な理由付けで手伝いをこじつける。だけどそこまでおかしくもないだろう。実際、私は美術部の部員で、先生は美術部の顧問なのだから。


「それじゃあお言葉に甘えてもいいでしょうか」


 先生は言ってから一度荷物を下ろす。少し考えてから筒状に丸めた画用紙の束を渡してくる。私は先生が考え込んだ間が、どれが軽くて私の負担にならないかを吟味した時間だと知っている。

 私たちは並んで歩き出す。先生は相変わらず荷物が重いのか、ゆらゆらと身体を揺らしながらゆっくりと歩いている。


「茅吹さんはとても熱心ですよね」


 三階に上がる途中あたりで先生が呟く。

 私の所属する美術部は、あまり美術部らしいことをしない。部員のほとんどが幽霊部員だし、そもそも活動は週に一度だけ、おまけに任意の参加である。もちろんその週一度の集まりでさえ、先生が絵を描いている横で先輩たちがお菓子を食べたりしながら談笑しているだけで活動が終わる。


「そう、ですかね」

「はい。僕が知っている限り、絵を描いているのは茅吹さんだけですから」


 私はなんだか恥ずかしくなって黙り込む。ゆっくりと階段を上がる足音が二つ、静まり返った校舎に響く。


「絵を描くのは、楽しいですか?」

「うーん、どうなんでしょう。まだよく分かりません」


 廊下を歩きながら先生に訊かれて、私は苦笑いとともに答えを濁す。

 別に楽しくはない。私は絵が好きなわけでもなければ、絵を描くのが上手いわけでもない。それどころか郊外研修で美術館とかに行っても、何の感慨を抱くこともなく半分くらいで飽きてしまうタイプだ。

 そんな私がカンバスに向かうのは、もっと不純で邪まな気持ちが理由だ。


「先生は楽しいんですよね? 絵を描くの」

「いえ。僕もよく分かりません。楽しい……とは少し違うのかもしれませんね。何かを作り、描くのは、楽しいよりも苦しいのほうが、多いかもしれません」


 先生は時々こうやって難しい話をする。でも本心を隠したり、誤魔化したりはしない。先生の話が何だか難しいのは、私のふとした言葉を真摯に受け止めてくれている証拠なのだろうということを、私は知っている。

 そんな調子で歩いていたら、あっという間に美術準備室に到着してしまう。両手の塞がっている先生の代わりに鍵を開け、中に入る。

 準備室は埃の匂いがする。


「ありがとうございました。とても助かりましたよ。よく考えたら、一人じゃ準備室に入ることもできませんでした」


 私は画用紙を壁に立てかける。準備室の奥では先生が運んできた教材を箱から出して整理している。手持ち無沙汰になった私は、棚に並んでいる画材や描きかけのまま放置されているカンバスとかを眺めるふりをする。息を潜めて先生を盗み見ても、先生はちっとも私の視線には気づかない。

 その横顔に夕陽が差し込んでいた。長いまつ毛がきらきら光って、高い鼻が陰をつくっている。綺麗だった。模写に使う石膏像なんかよりもずっと。

 先生はどんな人を好きになるのだろう。

 年下でも好きになってくれるのだろうか。

 もし私が好きだと伝えたら、どんな反応をしてくれるのだろう。


「……どうか、しましたか?」


 あまりにも気づかないからと高を括って見すぎていたのだろうか。先生が私のほうを向く。うまい言い訳は思いつかなくて、恥ずかしさに顔が熱くなる。


「あぁ、そうでしたね。何か聞きたいことがあるんですよね? このあとまだ仕事があるので、部活動に顔を出せるの少し遅れそうなので、よかったらここで聞きますよ。もちろん、ここで教えられることであればですが」


 先生が真っ直ぐに私を見る。ブラックホールみたいに黒い瞳だ。私はどうすることもできなくて、その視線に吸い込まれるように先生の元へと進んでしまう。

 心臓が口から出てしまいそうだった。とくとくと打つ胸の音が、先生に聞こえてやいないかと不安になった。

 だけど歩みは止められなかった。不安なのに、怖いのに、いけないことだと知っているのに、もっと近づきたいと思ってしまう自分がいた。

 私はなんて欲張りなんだろう。

 最初は見ているだけで満足なはずだった。たまに廊下ですれ違ったり、職員室で見かけたり。

 ずっと見ていたら、話したくなった。美術部に入って気を引くために絵を描いた。先生は私に話しかけてくれた。

 話したら、もっと近づきたくなった。先生に触れたいと思うようになった。


「茅吹さん?」


 先生が首を傾げる。心配そうに眉を寄せ、熱でもあるのかと私に向けて手を伸ばす。


「もし体調が優れないようなら、部活動は無理せず――」


 いけないことだと知っている。間違っていることだって分かっている。消さなきゃいけないことだってちゃんと分かっている。

 頭では分かっているのに。心も体も、それを受け入れてはくれなくて。

 窓から夕陽が差し込んでいる。

 ほんの少し冷たくなった空気のなかで、先生と私――影は一つに重なって。

 準備室を満たす埃の匂いはほんの一瞬、先生から香る絵の具の匂いに塗り替えられて。

 私は先生に、啄むようなキスをした。


   ◇


 私は昔から人付き合いに興味がなかった。

 特に女子特有の陰湿さというか、湿っぽくて強固な繋がりみたいのには心底うんざりしていた。

 勉強も運動もできて、背が高くて器量もそれなり。自分で言うのも変な気がするけれど、愛想がないことを除けば出来ないことなんてなかった。

 だからだろうか。小さいころの私は注目の的だった。

 そして女子が組むグループのなかで、一人だけ目立つというのは致命的な悪手だった。

 最初は陰口だった。だけど私は陰口を言われていることを知っていたし、彼女たちも隠すつもりがないのか、それまでいたグループは自然と居心地が悪くなった。

 私は男子たちに混ざっても遜色なく走ったり、ボールを投げたりできたから、居場所づくりには困らなかった。

 だけど男子たちと仲良くなればなるほど、女子には執拗に嫌われた。

 中学に上がると男子たちとも一緒に居づらくなっていく。〝ビッチ〟だと陰口を叩かれ、クラスのなかになんとなく私には関わってはいけないのだという雰囲気を作られた。

 私は孤立した。

 構わなかった。元々誰かと一緒にいるのが好きだったわけでもないし、不愉快な気分にさせてくる相手ならばこちらから願い下げだ。こいつらは皆、青臭いガキなのだと思うことにした。

 見た目が鋭いからか、あるいはやられたらやり返すからか、直接的に虐められることは少なかった。だけど空気のように扱われ続ける私を、大人たちは気に掛けようともしなかった。

 そして私は高校生になった。

 高校では私は誰かとつるむようなことはしなかった。もう面倒事はまっぴらだったし、一人のほうがずっと楽だということを学んだから。

 長い人生のなかでたった三年。本でも読んでいればあっという間に過ぎる、束の間の時間だ。

 そんな風に擦れた私の高一の冬。ちょうど一年前のこと。

 私は先生と初めて話した。


「面白いですよね、それ」


 私はいつものように読書に耽っていて我に返る。掛けられた声の方向を見れば、先生が私の横に立ってこちらを見ている。

 美術の授業中だった。私は慌てて本を閉じて仕舞った。反射的な行動だった。周りのクラスメイトたちは中心に置かれた石膏像をデッサンしたり、スマホをいじったりしている。


「いえ、いいんですよ。続きが気になる気持ちはよく分かるので」


 先生は周りに聞こえないくらいのギリギリの声のトーンで喋っていた。それは周りの生徒の作業の邪魔をしないようにという気遣いにも思えたし、堂々たるサボりが周囲に広くバレて私が恥をかくをの避けてくれているようにも思えた。どちらにせよ、優しい人なんだなと私は思った。


「別に、そういうのじゃ、ないので」


 私も声を潜めて言う。本音だ。別に面白いからとか、続きが気になるからとか、そういうので読んでいるんじゃない。ただの暇潰しだ。


「そうなんですか? 僕はけっこう好きなんですよ、その作家」

「はぁ……」


 クラスメイトたちはデッサンに飽きたのか、半分くらいがスマホをいじり始めている。どうして私だけが注意されなくちゃならないんだと、不満に思う。


「まあ美術は世の中に出てもあまり役に立ちませんからね。正直怠いなというのも分かります。それに創作というのは、無理強いするものでもありませんから、描きたい人や描く必要のある人が描けばいいんだと僕は思っています」


 先生は、だから普段はこういう声掛けはしません、と微笑む。

 私には全然意味が分からなかった。たぶん顔をしかめていたと思う。単なる注意のくせに、こうやって意味の分からない理屈をこねてくる教師にはうんざりだった。


「この作家の別の作品なんですけどね。世界を拒絶し続ける少年の話があるんです。少年はずっと世界を拒み続け、色々な人が差し伸べてくれた偽善や善を受け入れず、物語の結末では死んでしまう。そういう話です」

「だから何ですか?」

「ほんの一瞬だけ、茅吹さんの後ろ姿がその少年に見えました。だからちょっと、声をかけてみたんです」


 私は首を傾げた。先生はぼそぼそと何かを呟きながら準備室へ行き、そして戻ってきた。手には一冊の本が抱えられていた。


「ありました。これ、お貸しするのでよかったら読んでみてください。結末にはすごく驚きますから」

「先生、たった今ネタバレしてましたけど」

「あ……そうでした」


 先生は微笑んだ。いつも気怠そうな顔をしているのに、不意に見せたその笑顔は少年みたいだった。


「いいです。読んでみます」


 私は先生の手から本を奪う。先生は少し驚いたように目を開いて、それからやっぱり少年みたいに微笑む。


「感想、聞かせてくださいね。僕はだいたいいつも、美術室か美術準備室にいるので」

「……分かりました。読んだら、返すときに」

「楽しみにしていますね」


 先生はまた微笑み、それから窓の外に視線を投げる。


「本はいい。色々な娯楽のなかで、最も孤独に寄り添ってくれるものだと僕は思います。今、胸のなかにあるものを整理してくれますから。ですが読書だけでは溜まり過ぎた感情が吐き出せないときもあるような気が、僕はするんです。だからもし叫びたくなったり、壊したくなったりしたら、美術室に来てみてください。絵を描くことで癒える心もあると思いますから」



 私は先生に借りた本をすぐに読んで感想を言いに行った。

 別に本が面白かったわけでもないし、まして読書が好きになったわけでもない。気の利いた感想を思いついたわけでもない。だけど興味を持った。先生という人間がどんな人間なのか、無性に気になったのだ。

 私が本を読む時間は少し減って、遠巻きに先生を眺める時間が増えた。

 ぼさぼさの髪は天然パーマ。洋服には無頓着で、いつもお土産屋さんで売ってそうな変なTシャツを着ている。好きな食べ物は売店のカレーパンで、苦手な食べ物は甘いもの。放課後はいつも一人、美術室で絵を描いていて、完成した作品は準備室の奥に仕舞い込んでいる。若いからか生徒によくからかわれていて、年配の教師たちにはよく仕事を押し付けられている。それでも先生は絶対に怒ったり、不満を露わにしたりはしない。困ったように笑っているだけ。

 先生はたまにおすすめの本を貸してくれて、私はそれを熱心に読んでは感想を言いに美術室へ向かった。空が暗くなるまで話し込むことも珍しくなかった。

 本の感想以外にも、先生は画集を見せてくれたりした。この絵はこうで、あの絵はああでと私に丁寧な解説をする先生はまるで子供みたいだった。

 それから私は美術部に入った。

 絵を描くことに興味はなかった。

 先生のことを、好きになってしまったのだ。

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