秋晴れの空は果てのない青(後篇)

「…………ねえ、そんな世界の終わりみたいな顔でここいるのやめてくれない?」

「だってぇー……」

「だっても何もないの。ただでさえ美術室なんて誰も来ないのに、呪いの人形みたいのいたら余計に入りづらいでしょ」

「呪いの人形て……あやちゃんひどい」

「ほら、三組のクレープ美味しいって評判よ。食べてきたら?」

「今はお腹減ってないもん」


 ぐう、とわたしの腹の虫が鳴る。文乃はやれやれと溜息を吐いた。


「別にさ、葉子と一緒が嫌だとか、他に誰かと回るとかでもないんでしょ? なら仕方ないじゃん」

「でも、せっかく勇気出したのに……」


 文乃が言って、わたしはもう何度目になるのか分からない溜息を吐く。

 人酔いのせいで開祭式を途中で抜けたわたしは、偶然にも付き添ってくれた三田くんに勇気を振り絞って告げた。もちろん告白ではない。文化祭の二日目、一般公開の日に一緒に回ろうと誘っただけだ。

 結果は見事に撃沈。前もって聞いていた通り、写真部である三田くんは体育館の実演を撮影する仕事があるらしく、時間は取れそうにないとのことだった。


「もう辛気臭いわね。勇気出せただけ進歩じゃない」

「そうかな」


 文乃は一生懸命にわたしを慰めてくれる。けれどそう簡単に前向きには捉えられない。

 恋ってやつはなんて不自由なんだろう。ふとしたときに相手のことを考えてしまい、そうなると何も手につかなくなる。ほんの一言話したり、目が合っただけでも胸の奥が苦しくなって、気がつくとその姿を探してしまったりする。

 楽しいかと言われればそうでもない。幸せかと聞かれればやはりそうでもない。

 苦しくって、切なくて、時々とても寂しくなって泣きたくなる。

 まるで自分が自分じゃないみたいで、わたしはいつも怖くなって足踏みをする。

 たとえばこうやって勇気を振り絞ってみたりしても、それが報われるかは分からない。当たり前と言えば当たり前なのだけど、剥き出しの心で挑む分、ダメだったときの反動は大きいのだ。


「そうだよ。出せる勇気があるだけ、ずっといいと思う」


 文乃は言う。その慰めの言葉には、どこか隠しきれない苦しさが滲んでいた。

 わたしだけじゃない。文乃だって恋をしていて、きっといろいろあるのだろう。わたしが知っていることもあるし、知らないような、話せないようなこともきっとたくさんあるのだろう。

 やっぱり恋は不自由だ。だけどわたしたちは、どうやら誰かを想わずにはいられないようにできているらしい。

 わたしは深く溜息を吐いて、窓の外を見上げる。

 九月半ばの秋空は、痛いくらいに青く澄んでいる。



 そうやって、わたしの文化祭一日目はあっという間に過ぎていった。

〝ホラーハウスYAMADA〟は意外にも盛況だった。これは望海たちメイク班の頑張りが大きい。意外、というのはこの盛り上がりがホラーハウス本来の盛況さではなく、〝血糊メイク天才的!〟〝かぼちゃのお化けめっかわ!〟〝ゾンビ超リアルなんだけど!〟という、これまたやはり写真映えにまつわるところの話題性だからだ。

 正直、盛り上がってるなら何でもいいのだろう。わたしたちはクラスで話し合い、明日の一般公開ではホラーハウスのなかに間接照明を導入し、写真を撮りやすくすることにした。

 ちなみに三組のクレープはしっかり食べに行った。評判通りに美味しかった。

 わたしは校内をあてもなく歩き回ってみたり、体育館を覗き込んだりしてみた。だけど開祭式の途中、体育館の前で話して以来、三田くんの姿を見つけることはできなかった。


   ◇


 二日目――。

 準備期間の理由もなく楽しくなっていたふわふわした気持ちはどこへ消えたのか、手持無沙汰になることが分かり切っているわたしはほんの少し憂鬱だった。

 始業とともに一般公開は始まって、まばらに人が入ってくる。一般公開と言っても普通の公立校なので、人が押し寄せたりすることはない。遊びにやって来るのは在校生の家族や友人に卒業生、いいとこ近所の子供たちと言ったところだ。

 わたしは午前番なので幽霊の衣装(白いワンピースと頭につける三角の布)に着替えて、来客の数を数えたり案内をしたりと受付の仕事をこなす。

 一日目の勢いそのままに、やはりホラーハウスは盛況で、途切れることなくお客さんが訪れた。もちろん写真を撮りにやってきている人がほとんど。ミイラのコスプレで校内を練り歩く宣伝班のうたい文句も、いつの間にか〝リアルゾンビと一緒に写真撮影!〟〝かわいいかぼちゃと握手!〟などに変わっていた。

 完全に、少し気の早いハロウィンだった。



 当番を終えて、わたしは歩いて回る。行列に並んで三組のクレープをリピートし、三年生のクラスが中庭でやっていた焼きそばを買って食べた。特にやることもしたいこともないわたしは、早速手持無沙汰になった。

 ぼんやりと賑わう廊下を眺めながら、写真部は何か展示してないのかなと思いつく。パンフレットを確認すれば、部室で展示をしているらしい。

 三田くんと文化祭を楽しむことは叶わなかったけれど、三田くんがどんな写真を撮るのか気になった。それに展示を見たよと報告すれば、一つ会話の種にもなる。

 わたしは写真部へと向かう。文化部の部室が並ぶ旧校舎は、帰宅部のわたしが普段訪れることは滅多にないので少し緊張した。

 旧校舎は随分と静かだった。熱気と喧騒は遠退いて、耳をすませば秋の涼やかな風の音が聞こえてくる。人もまばらで、文化祭の最中とは思えないくらいに寂しげだ。

 わたしは踏むと音がする階段を上がる。途中、腰の曲がった白髪の先生とすれ違う。何の教科の先生かは忘れた。旧校舎に足を運ぶ生徒が余程珍しいのか、先生はにこやかに会釈をしてきた。わたしは何となく立ち止まって、小さく会釈を返した。

 写真部の部室は二階の一番奥にあった。見ている人はもちろん、三田くんどころか、当番をしている写真部の人すらいなかった。

 入っていいものかと迷ったが、部室の前の机にTAKE FREEのチラシが置いてあるあたり、展示はちゃんと行われているらしい。わたしは何故か物音を立てないように気をつけながら、そろりそろりと部室に入ってみた。

 部室のなかはもっと静かに感じられた。まるで文化祭から世界ごと切り離されてしまったみたいだった。

 わたしは壁に飾られた写真を見て回り、並べられた机の上で写真立てに収められた写真を眺めた。机の上の一画が、三田くんの作品を並べた場所だった。

 三田くんが切り取ったのは風景だった。

 学校の、わたしたちが過ごす風景だった。

 誰もいない廊下。踏み荒らされていないグラウンド。青々と茂る中庭の花壇。登校する生徒たちの後ろ姿。朝陽の差し込む教室。机の落書き。ピアノ。履きこんだ上履き。繋いだ手。購買のおばちゃんの笑顔。夕陽のなかに立つ校舎。静かな体育館と寂しく転がるバスケットボール。ロッカーのなかの教科書。ベンチの上に脱ぎ捨てられたジャージ。鉛筆と消しゴム。

 それは見慣れた風景で、よく知っている景色のはずだった。だけど切り取られたその一瞬の光景は、まるで世界の裏側を差し出されているんじゃないかと思えるくらい、新鮮で綺麗だった。わたしは何気ない日常が、こんなにも掛け替えのないものに見えるなんて知らなかった。


「すごい」


 わたしは呟く。誰もいない部室に、わたしの声だけがぽつりと響く。

 躊躇ってるのなんてもったいないと、文乃が言っていたのを思い出した。

 きっと文乃が言っていた意味と、今わたしが感じていることはまた少し違うのだろう。だけど今はそのもったいなさが、尊さがよく分かる。

〝また〟なんてないのだ。

 当たり前だけど、今この瞬間は紛れもなく今だけのもので、それは気がついたときには遥か後ろに過ぎ去っている。

 たぶん青春っていうのは、そんな一瞬に向けて伸ばした手を掴んだり離したりすることなんだろう。

 気がついたときには、わたしは駆け出していた。

 考えるのも悩むのも今だけは置き去りにして。ただ心がそうしたいと叫んだほうへ。

 階段を転がるように駆け下りて旧校舎を飛び出す。三田くんが切り取った風景のなかを駆け抜けて、わたしはただまっすぐに彼の元へ走る。

 体育館へと続く階段を二段飛ばしで上がっていく。ちょうど演目の間なのか、体育館から出てくる人の波を掻き分けて、わたしは三田くんの姿を探す。

 三田くんはすぐに見つかった。もうこれが運命なのかもしれないと思いたくなるくらいに、体育館の出入り口の横に涼んでいる三田くんがいた。


「三田くん!」


 わたしは叫ぶ。声が喧騒を切り裂いて、秋の青空に響く。周りの人なんて知らない。全部を振り切って三田くんを呼ぶ。

 振り返った三田くんはだいぶ驚いた様子で、息を切らすわたしに問いかける。


「なに、どうしたの」


 わたしは膝に手をつき深呼吸をする。荒れた息を整えているのか、緊張を解そうとしているのか、自分でもよく分からなかった。


「あのね、見たよ、展示。学校の写真」


 言うと、三田くんはほんの一瞬だけ嬉しそうに口元を緩めて、それから恥ずかしそうに顔を背けた。襟足を触って、逸らした視線がまたわたしに向けられる。


「…………どうだった?」

「すっごい良かった! うまく言えないけど、青春を掴まえてた!」


 わたしが思ったことをそのまま口にすると、三田くんは見たこともない柔らかな顔で笑った。


「なんだよ、それ」

「分かんない! でもそう思ったの」

「そんな変な感想初めて聞いた」


 三田くんは嬉しそうに笑った。わたしも嬉しくなって笑った。


「それ言うためだけに走ってきたの?」

「感想は半分。お願いがあって」

「お願い?」

「わたしの青春も掴まえて」

「……は?」


 三田くんの顔が赤くなった。わたしも自分の言葉に恥ずかしくなった。でも駆け出した気持ちは止められなかった。


「写真、撮ってほしいの」


 文化祭は一緒に回れないけれど。同じ時間を過ごして思い出はつくれないけれど。

 たぶん三田くんが切り取ってくれた一瞬なら、永遠よりも確かな意味を持つような気がするから。


「うん。いいよ。……どこで撮ろうか」

「ここで。わたしが走って、三田くんを掴まえたここで」

「やっぱり吉沢、ちょっと変だ」


 三田くんが笑って言って、わたしにカメラを向ける。わたしは泣き笑いみたいな変な顔でカメラに向かう。


「変だけど、でも綺麗だな」


 その一瞬を掴まえるように。

 シャッターの切られる音が、秋の青に響く。


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