秋晴れの空は果てのない青(前篇)

 九月のこの時期、学校はいつも以上に華やかに飾り付けられる。

 生徒も先生も、どこか気分は浮ついて、あっという間に訪れては嵐のように去っていくお祭りの非日常に、胸を躍らせるのだ。


「ねー、こっちマジック足りない」

「何色ー?」

「ん、青!」

「青はそれがラス一さんだ。あ、そう言えばさっき買い出し班が駅前のロフトに向かってったから頼んどくね」

「え! 何それずるい。わたしも行きたかった!」

「あんたはサボるからだめ~」

「むー、わたしも買い出ししたいのに~」


 わたしはインクの出なくなった青マジックに〝いんくぎれ〟と書いたガムテープを張って頬を膨らめる。買い出し班が戻ってくるまではわたしの作業は進められないないので、何か手伝えることはないかとあたりを見回す。

 教室のなかはごちゃごちゃ。おまけに廊下までごちゃごちゃで誰のどの作業が進んでいて、どれがそうではないのか分からない。まあそもそも、何の取り柄も特技もないわたしには、手伝えることすら限られるのだけど。


「ちょっと男子! 黒板に落書きしてないで早く看板作ってよ!」

「なあ、この禰豆子、超上手くね?」

「誰かこっち木材運ぶの手伝ってー」

「完成した衣装どれー? 私ちょっと着てみたい!」

「三組のクレープめっちゃ美味いぞ!」

「はいそこ躍ってないで、準備して!」


 わいわい、がやがや。いろんな声が、どれも楽しそうに飛び交っている。もしかしたら文化祭というのは、準備のほうが楽しいのかもしれないとさえ思えてくる。


「あ、葉子はこ。手空いてる?」


 ぼんやりとしていた私に廊下から声が掛けられる。同じクラスで親友の文乃あやのだった。


「あやちゃん! 空いてる空いてる! なんか手伝う?」

「こっちで看板手伝って」

「わかった~」


 わたしは立ち上がって教室を出る。廊下には絵具や風船や木材や画用紙がとにかくたくさん広げられていた。文乃は一生懸命、紫色の風船を膨らめている。


「何で風船?」

「ここフォトスポットにしようって望海のぞみが」

「なるほど」

「お化け屋敷なのにフォトスポットってちょっと変だけどね」

「そうかなぁ。ディズニーぽくていいじゃん」

「確かに、その手があったか」


 わたしはドンキの袋から風船を摘まみ出して膨らめていく。どうやら廊下の壁を縁取るように風船を飾り付けるらしいが、まだ風船は半分くらいしか膨らめられていない。先は長そうだ。

 文化祭では各クラス、屋台などの催し物を企画する。ちなみに私のクラスは今年、〝ホラーハウスYAMADA〟(YAMADAは担任の名前)というお化け屋敷をやることになっている。

 そして催し物の種類に限らず、各クラス(の主に女子)が最も力を入れるのが、このフォトスポットづくりだ。文化祭当日は揃いのクラスTシャツを着たり、用意したコスプレ衣装を着たりして思い出作りを楽しむのである。


「今年はフォトコンもあるって言うからね。どこも気合い入ってるし負けらんないよ」

「そう言えばさ、フォトコンの豪華賞品ってほんとなのかな?」

「あー、噂になってるやつ? どうなんだろ」


 フォトスポットの過熱ぶりに目をつけた実行委員は、今年の文化祭から公式にフォトコンテストを企画した。

 とは言え、思い出作りの写真は優劣をつけるためではなく、それぞれが思い思いに楽しむために撮るのであり、だるい、めんどくさい、というのが生徒の本音だった。ところが一転、グランプリ獲得者のいるクラス、部活動には豪華賞品が出るという出所不明の噂が流れ、企画倒れ寸前だったフォトコンはにわかな盛り上がりを見せている。

 ちなみにグランプリは撮影者でも被写体でもなく、背景となっているフォトスポットを作った団体に贈られることになっている。グランプリはさておいても、実際、写真映えするスポットのある場所には行列ができるので、その集客効果も決して侮ってはいけない。


「あ、ペンキないじゃん」


 風船を膨らめるのを早々に投げ出し、壁に飾る絵を描いていた文乃がぽつりと溢す。


「ちょっと美術室でペンキ借りてくる」

「ほーい、わたしは風船膨らめてる~」

「よろしく~。あ、ついでに購買でなんか買ってくるけど、食べたいのある?」

「んー、あ、焼きそばパンとイチゴオレ!」

「りょーかい」


 駆け足で廊下を走っていった文乃に、わたしは膨らめた風船の口を持った手をぶんぶんと振る。まだ口を結んでいなかった風船はその拍子にわたしの手から離れ、せっかく吹き込んだ空気を吐き出して飛んでいく。


「あ」


 ブルーインパルスもびっくりな急旋回で飛んでいった風船は、ちょうど文乃と入れ違いに廊下の角を曲がってきた人の頭に激突した。

 萎んだ風船がぱたと肩に落ち、衝突事故の被害者はそれを摘まみ上げる。

 どうしてこうなる。わたしは恥ずかしさと嬉しさと申し訳なさとで顔が熱くなった。


「…………ごめんなさい」


 とりあえず謝った。風船を摘まんだ男子はそのまま無言でわたしに歩み寄り、わたしの頭に風船を乗せる。なんだ仕返しか、かわいいか。


「びっくりした」

「そういうのはもっとびっくりした感じで言ってよ」


 わたしは緩む口元に力を込めながら言い返す。わたしの頭から萎んだ風船が落ちる。

 隣りのクラスの三田みたくん。一年生のときからずっと、わたしの好きな人。


「何やってんの?」

「風船膨らめてるの」

「いや、めっちゃ萎んで飛んできたけどね」


 三田くんは小さく笑って、わたしの隣りにしゃがみ込む。風船ナイス! と、わたしは心のなかで小さくガッツポーズをした。


「三田くんは? クラスの準備おサボり?」

「俺は軽音部と演劇部と打ち合わせ。写真撮るから」

「あ、そっか。三田くん、写真部だっけ」

「そう。本当はいろいろ回ったりしたかったけど、ジャン負けした」

「うわぁ、大変だ。かわいそ」

「そういうのはもっとかわいそうな感じで言えよな」


 言いながら、三田くんは拾った風船息を吹き込む。いつものようにぶっきらぼうで、だけどほんのちょっとだけ優しい。わたしは風船を膨らめる三田くんの横顔をちらと盗み見る。

 少し伸びた髪から覗く、小さな耳がかわいい。めいいっぱい息を吹き込んでいるせいか膨れた頬はほんの少しだけ赤い。まくったワイシャツの袖から覗く腕は細いの意外と骨張っていて、やっぱり男の子なんだなと思う。


「はい、出来上がり」


 三田くんはあっという間に風船を膨らめて、口を結んでしまった。男の子の肺活量だとやっぱり速いんだなとわたしは思って風船を受け取る。いやちょっと待ってその風船ってさっきわたしが膨らめて吹っ飛ばしたやつじゃ――。

 顔から火が出た。

 わたしは受け取った風船を慌てて投げ飛ばし、急いで身体を反転させる。出来上がりじゃねえって何言ってんのこの子ったら。


「え、なに、なに…………」


 わたしが起こした突然の奇行に驚いていた三田くんも、何かに気づいたらしい。そのまま膝の上に乗せていた腕の顔を埋めてしまった。

 めちゃめちゃ気まずい。けど嬉しい。けど気まずい。けど嬉しいけどこんなことを喜んでいる自分が恥ずかしい。


「……そろそろ戻るわ」


 三田くんが立ち上がる。わたしはちらと三田くんの顔を見ては、目を逸らす。三田くんの頬は風船を膨らめていないのに、まだほんの少しだけ、赤いままだった。


   ◇


「で、どうすんの」

「どうすんのって何が?」


 文乃が買ってきてくれた焼きそばパンを齧りながら、わたしは聞き返す。文乃は呆れたように溜息を吐いて、パックの緑茶をすする。


「決まってんでしょ。文化祭誰と回るのって話」

「んー、あやちゃんは?」

「だからうちと葉子は受付で入れ違いじゃん」

「そうだった」

「望海は彼氏と回るって言ってたし、陽子ようこ茉奈まなは部活の友達と約束しちゃったって言ってたし、葉子このままだとぼっちだよ?」

「え、あやちゃんは?」

「うちは美術部の展示の店番するから」

「なるほど……」


 あまり真面目には考えていなかったけれど、これは由々しき問題だ。せっかくの文化祭。いくら写真映えスポットが無数にあるとしても、一人で回る文化祭に思い出作りも何もない。


「三田、誘ってみれば?」

「え、三田くんっ? な、ななななんで」

「それで隠してるつもりなら、さすがのうちも白目だよ」


 文乃はこの手の話題に人一倍勘が鋭い。わたしは隠しても無駄だと悟り、白状した。もっとも元から隠し立てするような間柄でもないのだけれど。


「んー、たぶん難しいかな。体育館のステージ撮影あるみたいだったし」

「じゃあぼっち確定ね」

「え、それはやだやだ。なんとかして」

「誘ってみたらいいじゃない。ステージ撮影あるってことは、他の人と約束もしてないってことでしょ? 案外いけるかも。さっき向こうもまんざらじゃないみたいだったし」


 わたしはイチゴオレを噴き出した。まあそりゃ廊下だから誰かに見られてるだろうくらいは思ってたけど。まさか文乃に見られているとは思わなかった。


「み、みてたの…………」

「スマホ取りに戻ったら、なんか甘い空気出してたから」

「出てた……?」

「出てたね」

「うきゃーっ!」


 わたしは身体をくねらせる。思い出しただけでも顔が熱くなる。ちなみに三田くんが膨らめてくれた風船は、壁の一番目立たない場所にそっと飾った。


「誘ってみたらいいじゃない。もしフラれたら、文化祭終わったあとで慰めてあげるから」

「でもさ」

「でもじゃないの。高校の文化祭なんて三回しかないんだよ? 躊躇ってるのなんて勿体ないよ。それにほら、お祭りムードの勢いでなんとかなるかもしれないし」


 文乃がぐっと拳を握る。ありがちな後押しも、文乃が言うと重みが違う。できることを躊躇って後悔なんてしたくない。


「わかった。わたし、三田くん誘ってみる!」


 ぐっと拳を握る。手に持っていたパックが握り潰されて、ストローの先からイチゴオレが飛び出した。


   ◇


 そう、威勢よく決意してはみたものの話しかけることもできないまま準備期間が過ぎていった。

 三田くんは隣りのクラスなので、気軽に話しかけるのも難しいし、写真部の展示準備や撮影の打ち合わせで忙しいらしく、滅多に教室では見かけなかった。何より三田くんを見ると、風船経由のキスを思い出してしまってろくに顔も見られない。絶対からかわれるし、不審者だと思われる。

 そんな恥ずかしさを振り切ってでも、隣りのクラスの人に聞いて三田くんを探しに行けばよかったのかもしれない。でもそれじゃあなんかすっごい気があるみたいに見えるかもしれないし。それに、三田くんだって忙しいのに訊ねていったら迷惑かもしれないし。

 わたしがたくさんの〝でも〟を並べているうちにとうとう文化祭当日の朝を迎えてしまった。

 初日は校内公開日。外部の人がくる一般公開と違い、学校の生徒と先生だけの文化祭だ。

 いつもの始業の時間、全校生徒が体育館に集められ、開祭式がスタートする。

 わらわらと集まり、浮足立つ空気のなかで、わたしは三田くんの姿を探す。せっかく見つけた三田くんは友達と一緒で、わたしは話しかけることができない。

 実行委員長の先輩がノリノリのアナウンスで文化祭のスタートを宣言する。わっと歓声が上がり、あちこちで指笛が鳴る。

 漫才部がステージに上がり、コントを披露している。面白いのかは分からなかったけれど、会場はどっと盛り上がる。わたしはステージ前に集まった生徒の波に揉まれて、三田くんを見失う。

 もう、他の誰かと約束してしまったかもしれない。

 私はそう思おうとした。

 コントが終わり、合唱部がステージに出てくる。普段の合唱曲とは違って、人気のポップスを合唱曲風にアレンジした歌声の完成度は高く、会場のボルテージは最高潮に達する。やはり人波に揉まれていたわたしの体力はとうとう限界に達した。

 耳元で響く大音量の歓声と猛烈な熱気にあてられて、眩暈がした。


「――大丈夫か? 吉沢」


 不意に後ろから腕を掴まれた。わたしはギョッとして振り返る。腕を掴んでいたのは三田くんだった。


「……ちょっと、酔ったかも」


 わたしは俯きながら、あざとい女子大生みたいな台詞を言う。いつものように笑い飛ばされるとばかり思っていたわたしは、いつまで経っても笑わない三田くんの顔を思わず見上げてしまう。


「そうか。ちょっと体育館出て風に当たろう」



 ガコン、と自販機から飲み物が出てくる音がした。


「ポカリみたいのでいいよな?」

「……うん、ありがとう。買ったあとで言われても、他に答えようないよ」

「図々しいやつだな。感謝しろ」


 三田くんはわたしにポカリスエットを差し出して、隣りに座った。わたしはもう一度お礼を言って受け取り、一口だけ飲んだ。

 わたしたちは今、体育館前のベンチに座っている。

 夏の終わりの風はいくらか涼しくて心地いい。


「まあ、減らず口叩けるなら大丈夫そうだな」

「……あの、ごめんね。せっかく盛り上がってる感じだったのに」

「別にいいよ。俺、ああいう雰囲気そんな得意じゃないし」

「そっか」

「うん」


 会話が途切れて沈黙が流れる。両手に持ったポカリスエットが、ひんやりと冷たい。

 この場所と体育館のなかとを隔てているのは一枚の壁だけなのに、さっきまでの喧騒が嘘のように遠退いている。ほんのちょっと波の音みたいだなと思って、わたしは耳を澄ませてみる。全然波の音じゃなかった。

 それからわたしは隣りの三田くんを盗み見る。三田くんはぼんやりと、校舎の隙間から見える秋晴れの空を眺めている。


「……あのさ、三田くん?」


 わたしは決心した。緊張で、また眩暈がしてきそうだった。

 声は震えていなかっただろうか。

 顔は変じゃなかっただろうか。

 胸の打つ心臓の音は、聞こえてしまっていないだろうか。


「なに?」


 三田くんがわたしを見る。ほんの一瞬だけ視線がぶつかって、わたしはすぐに下を向いてしまう。


「まだ気分悪い?」

「ううん。そうじゃなくてね」

「いいよ、ゆっくりで」


 ほらやっぱり。三田くんはぶっきらぼうで素っ気なくて、でもほんの少しだけちゃんと優しい。

 わたしはそんな三田くんが好きなんだ。

 きっとこれは神様がくれた千載一遇のチャンスだ。今ここで、言わなくちゃいけない。

 まだ告白なんてできなくて。ただ文化祭一緒に回ろうって誘うだけだけど。

 わたしは顔を上げる。ほんの少しだけ心配そうに、三田くんがわたしを見ている。


「もしよかったら、わたしと――」

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