四角くて、痛い(後篇)
「なあ、俺、アユカワのこと好きかもしれねえ」
イシダが俺にそう言ったのは、大学三年に上がろうかという時期。二カ月近くある春休みを持て余し、二人で馴染みの雀荘に入り浸っているある日のことだった。
「……誰だっけ。アユカワって」
「は? 前にノート貸してくれた子だよ。学年主席の」
「あー、いたな、そんなの」
「そんなのとは何だ、そんなのとは」
イシダは
「真面目そうに見えて、っていうかまあ真面目なんだけど、けっこう可愛いところもあんだよ。気配りとかもすげえできるし」
「へぇ。まあ、お前、そういう子が好きだよな」
僕は生返事。
イシダはこんなだが、顔がいいので意外とモテる。男子校のくせに近所の女子校の生徒にも顔が広かったし、クラスで唯一彼女持ちの男だったりした。
俺とイシダとオヤジ二人の四人は黙々と、時折煙草を吸いながら
「今度デートすんだ」
「へぇ」
俺はやはり生返事。大して興味はない素振りをしつつ、聞いてみる。
「どこ行くの」
「アユカワが行きたい展示やってる美術館。何だっけな、えーっと……」
「ちょっとお前には難易度高くね?」
「るっせ。これから勉強すんだよ。お、リーチ」
「ふーん、頑張れよ」
俺は手牌に視線を落として思わず舌打ち。全然役が揃わない。
「んでよ、アユカワの誕生日が近いんだが、何プレゼントしたらいいと思う?」
「聞く相手、間違いすぎだろ。だいたい俺はそのアユカワって人よく知らねぇし」
「まあそうだよな。んじゃ、ミサキにでも聞いてみっか」
イシダが言うや、俺の手に変な力が込められて掴んでいた牌が床を転がる。煙草を咥えたオヤジがそれを拾ってくれる。俺は礼を言って受け取り、それを
「イシダ、それだけは止めとけ」
「は? 何でだよ? こういうのは女子に訊くのが一番だろ」
「…………」
沈黙が、卓の空気を冷ややかなものに変えていく。俺は冗談めかして肩を竦めた。
「ほら、考えてみろ。ミサキとアユカワさんじゃ、全然タイプ違うだろ? ミサキの言う通りに選んだら、絶対失敗すんぞ」
俺は笑う。貼り付けた笑み。大丈夫。ずっと作ってきた笑みだ。バレるはずがない。悟られてはいけない。ミサキの想いも、俺の本心も。
「……まあ、それもそうか。仕方ねえ、自分で考えっか。おしっ、やり、
イシダが拳を握り、手牌を返す。煙草を吸っていたオヤジたちが落胆とともに吐いた紫煙が、俺の視界を真っ白に染めた。
†
三人でいることになんとなく違和感のようなものを抱き始めたのはいつからだろう。
イシダが大学をサボり、ミサキと二人きりだと妙に緊張することを意識したときだろうか。
俺の知らない漫画の話で盛り上がるイシダとミサキを眺めていたときだろうか。
変わらないはずの関係。だがそれは時計の針がいつの間にか少しだけ遅れるように、確実に、不可逆に、俺たちの関係を蝕んでいく。
生じた
どうすればいいのかなんて分からなかった。
正解なんて分からなかった。
たぶんもっと上手い立ち回り方があったのかもしれない。
でも俺には、俺たちにはどうすることもできなかった。
†
抱えた違和感を拭いきれぬまま、俺たちは出会ってから三回目の夏を迎えた。
三年にもなるとさすがに履修する科目もばらけるので、俺たち三人がまとまって勉強することは少なくなった。それでも授業が被っていれば、いつもと同じように図書館やカフェで顔を突き合わせながら勉強した。
「最近、イシダのやつ出席率悪いね」
国際法のレポートを片付けたミサキがコーヒーを飲みながらぽつりと溢す。俺は何と返せばいいのか迷って、テキストを真剣に読んでいる振りをする。
「聞いてる?」
「ああ、ごめん。読んでた。ここ難しくってさぁ」
俺は苦笑する。ミサキは不機嫌そうに、元々の吊り目をさらに細める。
「で、何の話?」
「ううん、もういい。大した話じゃないから」
ミサキは煙草を吸ってくると言って席を立ったので、俺はほっと胸を撫で下ろす。少し不機嫌だったが構わない。
イシダがどこにいるか、俺には予想がついている。
おそらくはアユカワと一緒に勉強している。アユカワノートが俺のノートなどより遥かに優れているのは知っているし、事実アユカワのほうが俺やミサキよりも成績がいい。テスト前の勉強が仲良し同士の馴れ合いではなく、本気で単位や評定を取りにいくものならばイシダの判断は至極真っ当だ。そう、真っ当なのだ。
もちろんイシダの目的がそれだけでないことは知っている。そして俺はそれを考えないようにしている。考えなければ全部元通りになると、俺のなかのこの気持ちも消えてくれるのだと信じるように。
†
そんな悶々とした気分のままで勉強に身が入るはずもなく、俺は惨憺たる結果でテストを終えた。
本気で落ち込む俺を見かねてか、イシダの提案で夏休みに入るとすぐに俺たちは三人で花火大会へと出かけることになった。
待ち合わせ場所に早く着いた俺がアイスを齧っていると、レジャーシートを担いだイシダがやって来る。夕方だというのに空気は沸騰しているかと思うほどに暑い。
「ミヤモト。ミサキ、少し遅れるってよ」
「そっか。まぁ、待つか」
本来ならば場所取りのために先遣隊を出したりと、やるべきことは色々とあるのだろうが生憎俺たちはそこまで本気で花火を見たいわけではない。要は酒を飲んで、仲間と過ごすための口実にたまたま花火大会という催しが選ばれただけなのだ。
俺とイシダは何を話すでもなく、時折暑さに呻いたりしながらミサキを待つ。
俺の方から話したいことは色々とあったが、何をどう話せばいいのかは分からなかった。ちらと横目に見たイシダは、何も考えていなさそうだった。
「ごめん、待った?」
声がして振り返る。俺は言葉を失う。
「着付けに思ったより時間かかっちゃって……って二人とも何でTシャツ短パンなの」
顔をしかめたミサキは浴衣姿だった。
紺色とも紫色ともつかない絶妙な色味の生地に白や黄色の蝶が舞っている。赤色の帯は雪駄の鼻緒とお揃いで、いつもより少しだけ薄い化粧に映える。
「だってそういうの持ってねえもん」
「えー、そうなの? それなら先に言ってよ。私だけめちゃめちゃ気合い入ってるみたいでやなんだけど」
「まあいいんじゃねえの? 似合ってるし」
イシダがモテるのはこういうところなのかもしれないなと、俺はようやく我に返って思う。
ミサキはと言えば、まんざらでもなさそうに、ほんのりと頬を赤らめて緩む口元に不自然な力を込めている。
そんな二人を眺めながら、嬉しいような苦しいような気持ちになる。
俺はやっぱりミサキのことが好きだ。どうしようもなく好きだった。考えないように意識の隅へ追いやっても、この気持ちは消えてくれない。叶わないと知っているのに、なくなってはくれないのだ。
ミサキの綺麗な目は俺を映さない。ミサキが見ているのはイシダで、俺はただの気のいい友達でしかない。
進むことも戻ることもできなかった。
恋は素敵なものだなんて、そんなものは叶った奴が語る美談だ。叶わないと知っているのに、それでも想いを抱え続けるしかない恋は、ただの地獄だ。
「おい、行くぞ」
イシダに呼ばれ、俺は顔を上げる。自分でも知らぬ間に、顔を背けて俯いていたらしい。
「わりい、すぐ行く」
少し先を歩く二人を追いかけようと踏み出す。その瞬間、手に持っていた食べかけのアイスが溶けて地面に落ちた。
俺たちは途中で缶ビールを買い、だらだらと歩きながら会場へと向かう。会場が近づくにつれて人の数も増え、路上は元気のいい声と腹の虫を刺激するソースの匂いで満たされる。
さすがに人が多くどの屋台も行列が出来ているので、俺たち三人は手分けして目当ての屋台に並ぶことにした。俺の担当はチョコバナナ。ちなみにミサキがタコ焼き担当で、イシダはレジャーシートを敷くために一足早く河川敷へ向かっている。
並んでいる途中、奇跡的に河川敷の一角を確保したらしいイシダからドヤ顔の自撮り付きで場所の詳細が送られてきた。俺が自撮りをスルーして、まだかかりそうと返すだと、イシダからは焼きそばを買いに行くと返信が来る。
ようやくチョコバナナを買えたころには、既に花火が打ち上げられていた。屋台が並んでいる場所からも見えるが、木や建物が陰になる。欠けて見える花火も十分綺麗だが、せっかく場所も取れたことなので全貌を拝みたい。
俺は両手にチョコバナナを抱えながら、人混みをすり抜けていく。小さい女の子が父親に肩車をされながら、打ち上がる色とりどりの花火に歓声を上げていた。
「ミサキ!」
俺は運よくミサキを見つけた。どうやら彼女もタコ焼きを買えたところらしく、巾着を持つ手の反対側にタコ焼きのパックが入ったビニールを下げている。
歓声のせいで俺の声は届いていないようだった。俺は歩みを早め、人混みで立ち止まっているミサキの元へと向かう。
「ミサキ! 早いとこ河川敷行こう――……ミサキ?」
立ち尽くすミサキの手から、タコ焼きパックの詰まったビニール袋が落ちた。
「ミサキ、大丈夫? 気分でも……」
俺はミサキの横に並ぶ。固まったミサキの視線の先には、俺ですら見たことのないような笑みを浮かべるイシダと、小さな男の子の手を引く浴衣姿のアユカワがいた。
周りは嫌になるほど騒がしいのに、二人の声だけははっきりと聞こえた。
「まさかアユカワがいるなんてびっくり!」
「弟がどうしても来たいって言うから家族で来てるの」
「あ、初めまして。お姉さんの大学の友達のイシダです」
「ほら、ちゃんと挨拶して。……ごめんね、人見知りなの」
「いいよいいよ。気にしないで」
本気で声を張れば届く距離のはずだった。だけどイシダとアユカワの二人は、まるで別世界にいるみたいに遠かった。
「アユカワさ、その……浴衣、めっちゃ似合ってる」
「……うん、ありがとう」
イシダが後ろ頭をかきながらぎこちなく言って、アユカワが頬を赤らめる。
一際大きな花火が弾けた。何がが砕け散る音だった。
これはダメなやつだ。同じ言葉でも、込められた重みが違いすぎる。
俺は反射的にミサキへと視線を戻す。頬を流れる涙は花火の色を映して輝いていて、だけど足元で潰れたタコ焼きよりもずっと、惨めで痛々しくて。
気がついたときには、俺はミサキの手を掴んで踵を返していた。
ここから離れなければならない。
一秒でも早く、一センチでも遠く、こんな場所から離れなければならない。
心臓は凍りついたように冷たいのに、胸を破るような早鐘を打った。音も匂いも全部遠退いて、全身から粘つく汗が噴き出した。
「――たい、……痛いってば」
来た道を戻って、ようやく人混みから抜けたころ、やっとミサキの声が聞こえた。掴んでいた手を振り解かれ、俺は我に返る。
振り返ってももう花火は見えない。どん、どん、と何かを壊すような音だけが聞こえていた。
「ミサキ……」
俺は少し小さくなった、今にも折れてしまいそうなミサキの名前を呼ぶ。他にどんな声を掛けたらいいのか分からなかった。
長い沈黙が流れた。どん、どん、と花火の音だけが夜に響いている。
「…………知ってたんだけどね。でも直で見ると、やっぱ少しきつい」
ミサキは笑った。泣きながら笑った。
俺はミサキを抱き締めた。
ミサキが砕け散ってしまわないように強く。あるいは壊してしまうほどに強く。
「俺、ずっとミサキのこと好きだった。でも、ミサキの気持ちは気づいてたから、言うつもりなかったんだ。だけど……」
何を言ってるんだ俺は。
急速に取り戻されていく冷静さのなかで、俺は俺が今まさに口走った言葉を後悔する。
ミサキがもがいて、俺の腕が解ける。ミサキは涙でぼろぼろになった顔で俺を見上げていた。
「俺、ミサキのこと好きだよ。俺のこと好きじゃなくても、ミサキが好きだ」
心は止めろろ叫んでいるのに、俺の口は止まらなかった。ずっと押し込めてきたはずの想いは嘘のようにすらすらと、俺の口から吐き出された。
たぶん俺はどうにもならないと言い聞かせながら、心の何処かでは願っていたのだ。いつの日か、イシダの気持ちをミサキが目の当たりにして、砕け散るその瞬間を。
俺は最低だ。
変わらない三人でいたいと願いながら、全部が壊れることを望んでいた。
燻ぶらせた想いはいつの間にか腐り果て、罅割れた隙間からどろどろと溢れ出ているようだった。
「ミサキ」
俺はもう一度ミサキを抱き締める。腕のなかで、ミサキが俺を見上げていた。
どちらからともなく、顔を近づけた。
甘くて、荒い、吐息が触れた。
そして俺たちは、痛くて苦いキスをした。
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