トンネルの先へ

「そんじゃ、また明日ね~」

萌江もえ~、ちゃんと勉強するんだぞ?」

「1年ん時みたいのは勘弁だからね?」

「もう二人ともっ、分かってるよ!」


 私は頬を膨らめる。二人はけらけらと笑いながら、手を振って去っていく。私はくるりと踵を返して、二人とは反対の方向へ歩いていく。

 日は既に傾いている。町田駅の駅舎の向こうから射す夕陽が、街をオレンジ色に染めていく。夏が始まる少し前の、湿った風が頬を撫でていく。私は風に靡く髪を抑えて「ああ、苦手だな」と思う。

 それにしても、さっきまでお昼だったはずなのに、時間というのはあっという間だ。おまけに明日のテストに向けて勉強するつもりだったのだが、予想問題集はたったの一問しか進んでいない。ガールズトーク恐るべし。


「ま、でもスタバの新作飲めたしいっかな」


 こういう思考だからダメなのだろう。それでも17歳の今しかできないことをしたい。それは友達と過ごすことだったり、お洒落だったり、恋だったり――あとまあ一応は勉強も。とにかくJKは暇なようで大忙しなのだ。


「恋、ね……」


 口に出して言ってみると、胸の奥がほんの少しかゆい。

 正直なところ、私にはよく好きとか嫌いとかが分からない。さっき別れた二人にはそれぞれ彼氏がいるけれど、私には彼氏どころか好きな男子さえちゃんといた試しがない。


「あぁ~でもその前に明日の数学だぁ……」


 私はわしゃわしゃと髪をかく。すれ違った綺麗な女の人にすごい見られて、顔からは火が噴き出した。恥ずかしい。私の女子力……。


「はぁ」


 私は深い溜息を吐いて歩き出す。

 スタバの新作を飲んで、ガールズトークに花を咲かせていた私たちだけど、実は中間考査の真っただ中。特に明日の数学は私にとっては鬼門で、冷静になってみればこんなことをしてる場合じゃないのだけど。


「ま、過ぎたことは仕方ないさぁ~」


 そう。仕方がない。一夜漬け……でなんとかなるとは到底思えないけれど、ここからやれる限りのことをやろう。赤点取ったら留年だと教科担当の先生からはばっちり脅されているけれど、もしそうなったら1年の時みたいに補習を受ければなんとかしてくれるはずだ、たぶん。

 過ぎたことは仕方がない。過去を振り返って後悔なんてするくらいなら、今目の前にある現実に自分を埋めてしまえばいい。

 それが私のスタンス。

 過去は振り返らない、能天気に前向きで明るい女の子。

 それが私のキャラクター。

 そうあることを言い聞かせないと、特にこの季節は思い出してしまうから。私は無意味な笑顔を無理につくって、家路を急ぐ。



 賑わう街を抜けて川沿いの道へ出る。この時期になると小さな虫が飛び回るので、自然と足取りは速くなる。私は自転車とすれ違ったり、追い抜かれたりしながら歩いていく。

 少し遠くで電車が通り過ぎていく。見下ろした川は、その電車の足音に急かされるように流れていく。川岸に茂った背の高い草の向こうで、ぴちょんと魚が跳ねて波紋が立つ。魚はすぐに見えなくなって、立てた波紋も流れに呑み込まれて消える。

 いつの間にか夕陽は覆い隠され、空には薄黒い雲が広がっていた。空気はよりいっそう湿り気を含み、じっとりと肌を撫でる。不意に鼻先を、雨の匂いが掠めていく。

 ああ、やだな。

 これは一雨くるかもしれない。

 どんよりとした空を眺めて私は溜息を吐く。吐いた溜息は気怠い空気に溶け込んではくれなくて、少したゆたっては地面に落ちた。そんな気がした。

 私は雨が嫌いだ。すごく嫌いだ。

 だって思い出してしまうのだ。

 前なんて向けない。今だってまだこんなにも、心が引き裂かれそうになる。

 始まることすらなかった私の初恋。

 どれだけ前を向こうとしたって絶対に消えてなんかくれない、不器用で拙かった私の想い。

 黒ずんだ空から雨粒が一つ、私の頬を濡らす。

 あのときも、こんな空だった――。


   †


 薄黒い空から急にこぼれた大粒の雨。


「も~、今日は晴れって言ってたのに!」


 中2の私は一人そんな悲鳴を上げて、頭の上に持ち上げた鞄を傘代わりにしながら雨のなかを走る。息を切らして逃げ込んだのは短いけど暗いトンネル。家までの道なりからは少し逸れることになるけれど、雨宿りをするにはちょうどいい場所だ。

 衣替えしたばかりの夏服はびしょびしょだ。


「止むかなぁ」


 私はトンネルのなかから西の空を見上げてみる。晴れ間が見えたりしないものだろうかと期待したけれど、果ての果てまで薄暗い空が広がっているだけだった。


「あぁ~あ」


 私はその場にしゃがみ込み、鞄を開ける。濡れた手で慎重に鞄のなかを漁り、深いため息を吐く。こんなときに限ってタオルを教室に置いてくるなんてついてない。

 とは言え、ないものはもうどうしようもない。私が再び雨のなかへ飛び込もうと決めて鞄を閉めたとき、頭上から声が降ってきた。


「うわっ、パンツまで濡れた」


 私が反射的に上げた視線が、ちょうどトンネルに駆け込んできた彼の視線とぶつかった。


「ひぅっ」

「おわっ」


 二人して短く驚いた声を上げる。彼は聞かれたことが恥ずかしかったのだろう。耳を赤くしながら、まるで何事もなかったかのように鞄から引っ張り出したしわくちゃのタオルで濡れた髪を拭いている。

 柴田くん。2、3回しか話したことのない、隣りのクラスの男の子。

 私は男子という生き物が苦手だ。がさつだし、幼いし、何を考えているのかよく分からない。そのくせ身体は大きくて、力も強いしなんか怖い。

 でも柴田くんだけはちょっと違った。

 柴田くんは小柄だ。身長は私と同じくらい。まだ声変わりもしていないせいか、親戚の小っちゃい男の子みたいに柔らかい声をしている。それに柴田くんはあまり物音を立てない。そんな物静かな、もっと言えば丁寧な仕草が他の男子とは少し違う。


「あ……やっぱパンツ濡れてなかったわ~……」


 柴田くんが言う。耳をほんの少しだけ赤くして、私のほうをちらと確認しながら。

 なんだそれ。

 私は思わず笑ってしまう。


「わ、笑うなよー」

「だって、変なんだもん」

「変じゃねーし」

「だって棒読みじゃん」

「棒読みじゃねーし」


 ふわりと、柴田くんの投げたタオルが私の頭の上にぱさりとかかる。


「……使っていいよ」

「え、でも」

「半分残してあるから」

「半分……?」


 私は首を傾げながら頭の上のタオルを手に取る。手に取って柴田くんの言葉の意味を理解する。彼はタオルの半分だけを使って濡れた髪や鞄を拭いていたらしい。もう半分を、濡れ鼠のままの私が使えるように。


「……ありがと」

「ん、いーよー」


 私はありがたく濡れた髪をタオルで拭いてく。半分だけ濡れたタオルからは柴田くんの匂いがした。

 柴田くんの匂い――。

 えーいっ、何を考えてるんだ、私は。

 過ぎった変な想像を、頭を振って追い出す。

 ちらと伺った柴田くんは、まだ止む気配のないトンネルの外の雨を何も言わず眺めている。

 雨の音がトンネルのなかに響く。

 なんだろう、この気持ち。

 私は身体の奥のほうがにわかに熱をもったような感触に、ぎゅっと胸を締め付けられる。

 なんだろう。私、こんなの知らない。

 小さく深呼吸を繰り返す。繰り返すたび、タオルから香る柴田くんの匂いが私の鼓動を加速させる。

 聞こえてはいないだろうか。

 私は急に不安になった。

 それなのに、心臓はもっと強く脈打った。

「……止まないね、雨」

 柴田くんが言う。

 止まないでくれ、と私は願う。

 今だけは、この鼓動が落ち着くまでは、もっと雨が降ればいい。この鼓動が聞こえないように、その激しい雨音で全部を掻き消してくれるように。

 そんなことを願いながら、私は湿り切ったタオルをぎゅっと握りしめる。



 次の日の昼休み、私は柴田くんを訪ねて隣りのクラスへ。

 結局借りたままになってしまったタオルを返すだけ。隣りの教室にだって何回も行ったことくらいあるのに。

 それなのにすごく緊張した。


「し、柴田くん、来てますか?」


 たまたま入り口の近くの席にいた、見たことのある友達に話しかける。前に柴田くんと話していた男子だ。声が震えていたような気がして、余計に恥ずかしい気持ちになる。


「おーい、柴田。隣りのクラスの子来てんぞ」


 呼びかけられて、間もなく柴田くんがやってくる。弁当を食べていたんだろう。ほっぺたにご飯粒がついていた。


「あ、山本さん。どうしたの?」

「あ、あの、昨日の、その、タオル……」


 私は洗って畳んだタオルを入れた紙袋を突き出す。


「ああ、わざわざ洗ってくれたんだ。ありがとう」

「ううん。こちらこそ、その、ありがとうございましたっ!」


 柴田くんは紙袋を受け取る。中を覗き込んで、忍ばせておいたメモを目ざとく摘まみ出す。


「あ、そ、それは、その、お礼の手紙っていうか、その」


 変だっただろうか。子供っぽかっただろうか。気持ち悪かっただろうか。でも分からなかったのだ。成り行きとは言え、男子にものを借りるなんて、初めてだったから。

 恐る恐る顔を上げた私に、柴田くんは笑いかけてくれる。


「あはは。山本さんって律義だね。なんかありがとう。ウサギめっちゃ可愛いし」

「あ、それ、クマです……」

「あ…………」


 固まった柴田くんが面白くて、私は笑う。柴田くんもつられて笑う。

 まるで今世界には私と柴田くんの、二人きりしかいないみたいで――。


「なになに? 柴田と山本さんって付き合ってんの?」


 声と共に大きな身体が割り込んで、二人の時間は奪われる。

 ああ、だから男子は嫌いだ。デリカシーもないし、野蛮で、大きくて。ほんの少し温かくて、澄んでいた私の気持ちは黒く濁っていく。


「付き合ってないの? じゃあ告白? なあ」

「ち、ちが――――」

「止めろよ」


 叫び出す私を遮るように、柴田くんの声が鋭く響いた。


「昨日、たまたま雨宿りして、タオル貸したんだよ。山本さんはそれを返しにきてくれただけ」


 言葉以上に、圧を含んだ柴田くんの視線に割り込み男子がたじろぐ。


「な、なんだよー」

「そういうわけだから。あんま山本さんに迷惑かけんなよ。……山本さんも、タオルありがとうね」

「あっ…………」


 柴田くんはそう言って教室の奥へ戻っていく。

 私は自分がどうしたかったのか分からなくて、逃げるように女子トイレに駆け込んだ。

 きっと柴田くんは私を庇ってくれただけ。それなのに、分かっているのに、柴田くんの言葉がちくりと胸の奥を刺す。

 迷惑なんかじゃないと、ほんの一瞬でもそう思ってしまった自分が恥ずかしくて、なんだか惨めで苦しくて。

 私は個室に籠って、何も分からないまま静かに泣いた。



 この気持ちは何なんだろう。

 答えが出ないまま、時間だけが過ぎていく。

 廊下で。昇降口で。帰り道で。私はあの柔らかで心地よい声を探す。柴田くんの姿を探す。

 でももし見つけたって話しかけたりはしない。――できない。

 前までは普通に話せたはずなのに、あの日から柴田くんを前にすると胸の奥が詰まって言葉が出なくなってしまう。それに身体全体がぼーっと熱くなる。熱中症かもしれない。

 何をしたって集中できない。勉強なんてもちろん。友達と話していたって、好きなバンドの音楽を聴いていたって、何も、何一つとして集中できない。夏バテだろうか。

 長かった梅雨が明け、私の頭はふわふわしたまま、夏休みがやってくる。

 学校がなければ忘れるだろう。なんとなくそんなことを考えて。

 でも毎日のように柴田くんのことを考えた。暑いなか、ふらっと出掛けては柴田くんの姿を探した。連絡先も知らないのに、スマホを眺めた。

 何やってんだろ、私。

 そうして何もないまま、ひどく長く感じた夏休みが終わる。

 ようやく会える。

 そう思ったら少しだけ足取りは軽くなった。

 2学期は少しだけ、1学期よりも少しだけ、柴田くんと過ごす時間が増えたらいい。他愛のないお喋りをするだけでいい。そうやって、この気持ちの正体を知っていけたなら。

 だけど、私の淡い期待は教室に着くや、廊下で湧き起こる騒ぎによってすぐに打ち砕かれる。


「柴田、転校したらしい」


 まだ強い晩夏の、朝の日差しが瞬く間に冷えていく。

 目の前が真っ暗になった。



 あの後に倒れた私は、始業式にも出ずに早退した。

 朝は晴れていたのに、まるで私の心みたいに瞬く間に曇った空はすぐにしとしとと静かな雨を降らせた。

 保健室の先生には親に迎えに来てもらうように何度も言ったが、私は頑なに一人で帰ると言い張った。

 一人になりたかった。

 雨が降っている。傘はなかった。走りもしなかった。今にも膝が砕け散ってしまいそうな、そんな危うい足取りで、私はあの日のトンネルに向かった。

 私は濡れたまま、トンネルの隅にしゃがみ込む。

 分かってる。いくら待っていたって彼は来ない。

 そして分かってしまう。夏の間、ずっと分からなかったあの気持ち。

 好きだった。

 柴田くんのことが、好きだった。

 初めての恋だった。

 でももう遅かった。

 柴田くんはいない。

 この気持ちの、行き先はない。

 伝えることも、それどころか自分の気持ちに気づくことさえできずに、私の初恋は終わった。

 涙が溢れて風景が滲む。

 このまま雨が降ればいい。もっと強く。この涙を、哀しみを、流してしまうくらい強く。

 でもこの胸の痛みを消すには、降り注ぐ晩夏の雨はあまりにも弱かった。


   †


 本格的に降り出した雨のなかを、私は歩く。

 傘は持っている。中学の終わりに買った薄いピンクの折りたたみ傘。

 でもいくら傘を持ち歩いたって、前向きな女の子を演じたって、私はちっとも変っていない。過去を振り切れてなんていない。

 だってふと思い出した過去に縋りるように、またこうしてあの日のトンネルに寄り道したりしてるんだから。

 何度来たって同じ。もう彼はいないのだ。いい加減に――。

 人がいた。見慣れない制服を着た、背の高い男の子。

 傘を忘れたのだろう。タオルで濡れた身体を拭きながら、早く止まないかとトンネルの外を眺めている。

 目が合った。

 私はその場に立ち尽くす。動けなかった。身体の奥がじんと熱くなる。ずっと凍りついていた何かが溶けだしていく。鼓動が、加速していく。


「……やっぱ、パンツは濡れてなかったわ」


 トンネルの中で、どこかぎこちなく言った男の子が照れくさそうに笑う。耳が少し赤くなっていた。


「柴田、くん……?」

「久しぶり、山本さん」


 そう笑った柴田くんは、昔よりもずっと背が伸びていて、声も少し低く太くなっていて。でも優しい笑顔の面影も、少し赤くなった耳も、あの頃のままだった。


「止まないね、雨」


 柴田くんは微笑むと、私の胸の奥はきゅーっと詰まる。でも嫌な痛さじゃない。

 とくん。心臓が脈打つ。

 この鼓動は今、柴田くんにも聞こえているだろうか。

 聞こえていたらいいと、思う。

 私はトンネルに向けて踏み出す。

 雨が降っている。でも今はまだ止まなくていい。

 何でいるの。どうしていなくなったの。

 聞きたいことも、話したいこともたくさんあるから。

 もう少し、まだ長く、このトンネルで、柴田くんと一緒にいたいから。

 そして雨が止んだなら、今度はちゃんと伝えたいんだ。

 気づけなかったこの気持ちを、今ここから始めたい。


「あのね、私――」


 あの日のトンネルを抜けて、私の初恋が走り出す。

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