夏の夜と煙
「……それでね、もう感動しちゃって。1人でパソコンの前で号泣しちゃった」
『なんか泣いてるとこ思い浮かぶ』
「あ、今ちょっと笑ったでしょー? ひどーい」
『ごめんごめん。でもそんなに良かったなら俺も今度チェックするわ』
「あ、それ絶対しないやつ」
夏の夜。
日付が変わるかどうかという夜更けの時間。
私と彼を繋ぐ、掛け替えのない時間。
他愛のない話をする。今日起こった些細な出来事――ネトフリで何を観たとか、お昼には何を食べたとか。
たぶん会話に意味なんてない。ただ離れていても、会えなくても、繋がれていると思えることが大事だった。
「いま何してるのー?」
『今? ベランダで煙草吸ってる』
「そっちは涼しそうでいいよなぁ。東京なんて36度だよ、今日」
『うわ、それはやばいね。俺、そこだけは北海道いてよかったわ』
スマホの向こうで彼が笑う。その息遣いを耳元で感じて、私も笑う。
1日の終わりの、幸せな時間だ。
「あ、ねえねえ。夏休みは帰ってこれそ?」
私は彼に訊ねる。彼は少し黙ってから、口のなかで申し訳なさそうに唸る。
『んー、ちょっと難しいかな。なんだかんだでゼミとかの課題あるし、コロナで帰りづらいし』
分かっていた。
それでもちょっと期待していた自分がいて、私は内心で小さく溜息を吐く。
私と彼はお互いに学生で、そして絶賛遠距離恋愛中だ。
高校2年のときにクラスメイトとして出会った私たちは、どちらからともなく自然と一緒にいるようになり、彼からの告白で付き合い始めた。志望校は違ったけれど大学受験を一緒に乗り越え、そして離れ離れになった。
私は東京で、彼は北海道――832キロという距離が私たちを隔てている。
距離なんて関係ないと。二人の気持ちはそんなもので揺らがないと、思っている。
だって今は地球の裏側にいたって言葉を交わし、笑い合うことができる。東京と北海道ならば飛行機に乗ってしまえば2時間とかからずに向かうことができる。
実際、遠距離恋愛をしているこの2年は大きな喧嘩をすることもなく、お互いがそれぞれの大学生活を楽しみながら、満ち足りた毎日に過ごしてきた。
むしろ高校生のときは些細なことで言い合いになっていたことを考えれば、少しだけ大人になった今のほうが愛は深まっているのかもしれないとさえ思う。
もちろん全く不安がないわけじゃない。
でも毎日の電話は欠かさなかったし、彼はなるべく時間を作っては東京に戻ってきてくれる。私もバイト代を貯めては彼の住む札幌まで会いに行った。それに、何よりも私たちは信頼し合っている。想い合っている。
だから会えなくても大丈夫。
そう、大丈夫なんだ。
大丈夫、なはずなのに――。
どうしようもなく不安になる瞬間がある。
会えない時間が愛を溶かし、気持ちを薄めてしまうような気がして、怖くなる。
私たちが最後に会ったのは3月の初め。東京の実家に帰ってきた彼と2人でディズニーランドに行った。それ以来、私たちは半年近く会えていない。
そんなのは初めてだった。
この数カ月で世の中はがらりと変わった。
新型コロナウイルスの流行で外出は自粛ムードが強まり、外出時のマスクの着用は暗黙のマナーになった。映画館や美術館は入場を制限し、居酒屋も営業時間を短縮したり、座席を空けたり、色々な工夫をしていくことが当たり前になった。今ではどこに行っても体温を測られる。
そういう大きな変化のなかに、今世界が置かれている。
『ごめんね。コロナが落ち着いたら真っ先に帰るからさ』
「ううん、謝ることじゃないよ。仕方ないもん」
彼は私が不安を感じないように、よくやってくれている。これまでと同じように毎日電話をかけてきてくれるし、ついこの前なんかは写真嫌いのくせに「髪を切った」と変な自撮りを送ってきてくれた。朝起きたときの「おはよう」から、夜寝るまでの「おやすみ」まで、私が寂しくないように、たとえ遠くても、近くにいようとしてくれる。
会えないのは誰のせいでもない。
仕方のないことなのだ。
離れていたって想い合うことはできる。2年間、そうやってやってきたんだ。
それなのに――。それなのに私は、どうしようもなく不安に圧し潰されそうになっている。
『……大丈夫?』
「……うん、平気。でも、少しだけ、寂しい」
私はどうしようもなくなって本音を溢す。
彼だって帰りたいはずだ。私に会うためだけじゃない。東京には家族だって、友達だっている。だから私は自分本位に寂しいなんて言わないように、気を付けていた。
でももうそれも限界だった。
彼に会いたかった。
会って、抱き締めてほしかった。
口にしたって彼を困らせるだけだと分かっているのに、一度自覚して、言葉にまでしてしまった感情は波となって押し寄せてくる。
「……会いたいよ」
スマホの向こうで、彼は照れくさそうに、そしてやっぱり困ったように笑う。
『分かってる。俺も会いたいから。でも今は頑張って我慢だよ。それで、コロナが落ち着いたら色んなとこ行こう』
「……うん、ごめん」
『それこそ謝ることじゃないって』
彼の声が優しかった。私はそれが嬉しくて、だから余計に寂しくなる。
傍にいてほしい。
何でもないと思っていた832キロが、とてつもなく遠くに思えた。
できることなら今すぐにでも家を飛び出して、彼の胸に飛び込みたい。
もちろんそんなことはできなかった。
代わりに彼は、未来の話をしてくれる。落ち着いたらどこへ行くか、何がしたいか。私が俯かずに前を向けるように、しゃがみ込まずに進めるように、寄り添ってくれる。
「うーん、どこだろ。一緒ならどこでもいいかなぁ」
『はい。嬉しいけどそういうのなしー』
「えーっ、なんでよぉ。じゃあどこ行きたいのー?」
『俺かぁ……。うーん、そうだな。2人で温泉とか行きたいかな。のんびりしたい』
「私、露店付きの部屋がいい!」
『うわ、それ最高だわ。どこだろ、やっぱり草津? あ、下呂温泉とかもいいかも――』
私たちはいつ訪れるかも分からない未来の話に花を咲かせた。
それはまさに花が咲くように、話をしているこの瞬間だけは幸せでいられる。
だけど2人でいられる未来に温かい気持ちを抱きながら、これが現在の不安を心の隅へと押し込めてしまうための空想だと、心の何処かでは分かっている。
少なくとも私にはそう思えてしまって。
思ってしまったからこそ、2人で温泉旅行に行くというただそれだけのことがひどく虚しく、そして遠い話のように感じられてしまう。
やがて時計が午前1時を回る。
彼が小さく欠伸を噛み殺した。
「わ、もうこんな時間だ。そろそろ寝よっか」
『ほんとだ。話してるとあっという間だな、やっぱり』
「そうだねぇ。楽しい時間はほんとあっという間」
私たちは名残惜しそうにそんな会話を続けて、そして通話を終える。
「それじゃ、また明日ね」
『うん、また明日。おやすみ』
「おやすみなさい」
急に静かになった部屋に、私の溜息が響いた。
画面の暗くなったスマホを放り出し、ベッドに横になる。身体も心も疲れているはずなのに、頭だけは妙に冴えてしまって寝れなかった。
たぶん彼はもう寝てしまっただろう。寝付きの良さと寝起きの悪さは3年も付き合えばよく知っている。
午前2時を回る。
私はどうしても寝られなかった。寝ようと思えば思うほどに目が冴えてしまう。やがて半ばあきらめた私は、物音を立てないように気をつけながら、気分転換も兼ねてこっそりと家を出た。
†
家を出た、と言っても目と鼻の先にあるコンビニに向かうだけだ。
連日の熱帯夜のおかげで少し歩いただけでも汗ばむけれど、昼間よりはいくらかましだった。
それに――夏の日差しは御免だけど――、夏の夜というのが私は意外と嫌いじゃない。夏の夜は他のどの季節のどの時間よりも気怠げで、陰鬱で、それなのに生命力を静かに溜め込んでいるような、不思議な風情を感じられる気がするのだ。
私の心の底に積もった不安を紛らわしてくれるように、ぬるい風が吹く。どこからもともなく吹いたそれは夏草の匂いを運んでくる。この咽返るような匂いも、夜だから感じられる匂いだ。
私は耳を澄まし、鼻を澄まし、夜の道を歩く。
誘蛾灯が寂しげに明滅していた。
他にお客さんのいないコンビニに入るや真っ直ぐに飲料コーナーへと向かい、ジャスミンティーをレジに持ち込む。少し眠そうな夜勤のお兄さんの肩越しに、レジ奥の煙草の陳列棚が目に入った。
「151円です」
お兄さんは言ったが、私が一向にお金を出さないので眉根を寄せて首を傾げる。ぼんやりと煙草の陳列棚を見ていた私は、そんなお兄さんの様子すら目に入らずぼんやりと口にする。
「……あの、きんまる? 1つとライターもください」
支払いを済ませてコンビニを出た私は、自分の行動にびっくりしつつ手の中にある白いケースを眺める。
もちろん私は煙草を吸わない。今手の中にある金マルは、いつも彼が吸っている銘柄の煙草だ。
ふとした思いつきだ。
ただ、彼が吸う煙草の匂いで、ほんの少しでも彼のことを感じていたくて。
慣れない手つきでビニールを向き、煙草を一本つまみ出す。口にそっと咥え、ライターで火を灯す。夜の黒に鮮やかな朱が揺らめいて、煙草の先端にそっと炎がうつろう。
私はゆっくりと煙を燻らせる。それから目を閉じ、静かに煙を吐き出す。すぐそばに彼の匂いを感じながら、目を開ける。
彼は私を想ってくれている。たぶんこれ以上ないほどに。
それなのに私は今も、どうしようもなく不安を感じている。
胸に抱いたお互いの〝好き〟が、会えない時間に薄められてしまうことを恐れている。
ゆらゆらと波のように揺らめく煙は、彼がまとう匂いを残して夏の夜に溶けていく。
この煙みたいに、私の不安が消えたらいいのに。
私の指の間をすり抜けていく煙の向こう側に、彼の後ろ姿が過ぎる。
灰になった煙草の先が、ぬるい風に揺れて、地面へと落ちた。
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