友人A
純白のウェディングドレスに身を包んだ君が、バージンロードを歩いてくる。
少し緊張した面持ちで、だけど幸せに満ちた表情で。
もう涙を堪えて歯を食いしばっているお父さんと、まるでこれまで過ごしてきた27年を、嬉しかったことも辛かったことも、その一つ一つの大切を、噛み締めるように、一歩。また一歩。君は歩いてくる。
†
一目惚れ――だった。
高2の春。クラス替え後の教室で。
仲のいい友達と同じクラスになって安堵する者。離れ離れになって肩を落とす者。新しく始まる生活に胸を膨らませる者、不安を抱く者。
いろいろな青い感情が渦巻く教室で、一際眩く笑う君。窓から差し込んだ春の柔らかな
それまで恋愛とは縁のない生活を送っていた僕でさえも、世界はそれを〝恋に落ちる〟と呼ぶのだとはっきりと分かるほどに、僕は君に見惚れていた。
でも同時に分かっていた。
君は誰からも好かれるクラスの中心――言うなれば物語の主役で、かたや僕は誰の目にも留まらないような、教室の隅で本を読んだり音楽を聴いているだけの
僕らには、――同じクラスで時間を過ごし、同じ授業を聞いて、同じ行事に臨むはずの僕らには天地ほどの歴然とした、隔たる壁がある。地上のウサギがどれだけ頑張って、目を赤く腫らして月を目指しても、絶対に届かないように。
それに、僕には君をどうこうしたい、みたいな気持ちはなかった。ただ同じ教室に、好きになった人がいる。もうすぐで17歳になる僕には、斜め後ろから君を眺めるだけで十分だった。
話しかけることも、話しかけられることもなく、時間は過ぎていく。
桜はあっという間に散って、空気は熱を帯びる。装いも夏服に変わり、短い命に駆り立てられて蝉が騒ぎだす。
「……あのさ、話があるんだけど、今日の放課後、ちょっと時間……あるかな?」
授業合間の10分休み。仲のいい友達と一緒に僕の座席までやってきた君は、僕に向かってそう言った。ちょうど持っていた消しゴムが手から離れ、床に落ちて転がった。
「……え、あ、あ、う、はい」
話し方を忘れてしまったみたいに、ぎこちなく頷いた僕に、君はほっと胸を撫で下ろす。
「そ、そうしたら、放課後、屋上で待ってるね。約束だよ!」
「う、あ、はい」
僕はまたぎこちなく頷く。油を差し忘れた古い機械みたいで情けない。
君は友達と一緒に早歩きで教室から出て行く。僕はまだ緊張で強張っている、君の小さな背中を見送る。
次の授業は物理――移動教室だった。だけど僕は動けなかった。オーバーヒートしたみたいに、全身が熱かった。脳みそは揺さぶられたみたいにぐるぐると回転し、心臓は肋骨を砕くような勢いでばくばくと脈打った。
間もなく僕だけが取り残された教室にチャイムが響く。
それでもまだ、僕は動けなかった。どこか遠く、別の世界で鳴っているようなチャイムの音に、散漫な思考が散らされていく。
その日の授業は全く頭に入ってはこなかった。
先生が厳しいことで知られる古典の授業であてられても。
友達とヒロと飯を食いながら、好きなバンドの話をしていても。
僕は半日かけて、君の言葉の意味を考え続けた。
放課後の屋上。呼び出し。緊張した面持ちに、少し潤んだ瞳。ほのかに赤らんだ小さな耳。
よくよく思い返してみれば、最近なんだか、よく目が合うような気がしないでもない。
それはもしかするとひょっとして――。
僕はふと過ぎる淡くて甘い妄想を即座に否定する。
そんなわけない。だって僕と君は、話したことすら今日が初めてで――。
でも僕は君のことが好きだ。たとえ話したことがなくても。この気持ちは紛れもなく本物だ。
ならもしかしたら。万が一、億が一の確率で、君が僕と同じ気持ちだってことも――。
僕は冷静ではなかった。
都合のいいほうへ転がる思考を、何度も振り払った。
そして運命の放課後がやってくる。
終礼のあと、僕は真っ先に屋上へ向かう。まだ君の姿はなかった。
僕は鞄を置いて深呼吸を繰り返す。空が近いせいか日差しが強くて、僕は目を眇めて夕空を仰ぐ。立っているだけで少し汗ばんで、温い風が南から北へとそよいでいた。
どれくらい待っただろうか。
ほとんど待っていないような気もしたし、もうずっと何日も待っているような気もした。
そして君は屋上へとやって来た。
「……遅くなって、ごめんね」
「い、いえ! 全然待ってないので、大丈夫です」
僕は何故か直立不動で、君の凛と通る声に応える。
屋上の入り口の影にはさっきも一緒だった友達の姿があった。君はゆっくりと歩き、フェンスに寄り掛かる。グラウンドでは、ヒロも所属する野球部の掛け声とバットがボールを打つ音が響いている。
「そ、そんな構えないで、聞いてほしいな……」
「あ、え、あ、はい!」
僕は小さめに深呼吸をして、フェンスに近づく。どこを見ていればいいか分からなくて、グラウンドの野球部に視線を向ける。
僕と君との間を、穏やかな風が抜けていく。
「あ、あの、それで、その、話って……」
言ってから、僕はそれが失言だと痛感する。話を切り出す方にも、切り出せるタイミングがあるのだ。きっとこれから話すのは、それくらいに大事な話なのだ。
とくん、とくん。
心臓が脈打っている。
僕と君。
二つの鼓動が鮮明に聞こえた。
もう世界には二人以外の誰も、いなくなってしまったんじゃないかという錯覚にすら陥った。
困ったように赤くなった彼女の横顔を僕は盗み見る。僕はその美しさと可憐さに、ほんの一瞬だけ呼吸すら忘れていた。
「あのね……」
君が口を開く。凛と通る声。僕は頷く。
「……うん」
フェンスから身を起こした君は僕に真っ直ぐ向き直る。ゆっくりと沈み始めた夕陽が、僕らの鼓動を急かしていた。
「――黒田くんって、彼女とかいるのかな」
一瞬、君の言葉の意味が分からなかった。
黒田くん。黒田大樹――ヒロ。野球部の次期エースで、僕の友達のヒロ――黒田くん。
ああ、僕は、馬鹿だな。そしてどうしようもなく惨めだ。
そんなわけ、ないじゃないか。
君は
主役が脇役を好きになることなんて、絶対にあり得ない。
なんでそんな当然のことすら気づかずに、浮かれた妄想を、淡い期待を、ピエロだってびっくりの勘違いを、抱いていたのだろう。
「あ、あのね、君、いつも黒田くんと話してて、仲良さそうだから、その、知ってるかなって」
君は顔を真っ赤にして、小さな手をきゅっと握りしめながら、僕に言う。純粋で、残酷な現実を突き付ける。
「あ、ごめんね。……そんなことで呼び出したのかぁ、って感じだよね。全然、その、答えたくなかったりしたら、あの、大丈夫だから……」
君の赤らんだ顔に影が差す。
本当に好きなんだ。不安で、好きで、きっと君は気が付けばヒロのことを目で追ってしまう。ほんの少し話しただけでも舞い上がるほど嬉しくて、誰か別の女子と話しているのを見るだけで息もできないくらいに胸が苦しくなる。
きっとそれくらい、君はヒロが好きなんだ。
僕は一気に錆びついてしまった頭のなかで、そう思った。
不思議と怒りや悲しさは湧いてこなかった。ただあるべきものがそうあるように、すっとその事実が理解できた。
「ご、ごめんね。今のは、その、忘れてくれていいから――」
君が立ち去ろうとする。僕はその背中に震えを抑え込んだ、精一杯の声を投げかける。
「あー、その、ヒロとはあまりそういう話したことなくて……。明日、それとなく聞いてみますね」
躓くように立ち止まった君が、僕を振り返る。
夕空をバックに咲いた笑顔は、けれども僕を見てはいなくて――。
僕が好きな君は、僕の友達が好きなのだ。
†
どうしてあのとき、僕が君にそう申し出たのかは分からない。
恋する君の純粋な気持ちを純粋に応援したいと思ったのかもしれないし、君とヒロが単純にお似合いだと思ったからかもしれない。あるいは君と話すことのできたきっかけを、僕は失いたくなかっただけなのかもしれない。
とにかく僕は君の恋を応援することにした。
それが自分の初恋を殺すことになると分かっていても。
君は一生懸命だった。
ヒロに彼女がいないことが分かると飛び跳ねるように喜び、ポニーテールが好きだと分かれば次の日から髪型を変えた。
普段は流行りのポップソングしか聞かないのに、共通の話題を手に入れるために僕が貸したバンドのCDをひたすらに聞きこんだ。
僕は昼休みの食事に彼女たちを誘った。僕とヒロと君と君の友達。僕らは4人で他愛のない話に花を咲かせた。
休みの日にはヒロの練習試合の応援にも行った。君は野球のルールブックを片手に、難しい顔をしながらヒロを応援していた。
君は一生懸命だった。
一生懸命に、ヒロを好きだった。
僕はヒロと君が付き合うのだと、信じて疑わなかった。それどころか、付き合うまでにそう時間は掛からないだろうとさえ思っていた。
そうなればもう僕は用済み。それが正しいのだと言い聞かせた。
だけど二人の関係は、僕の予想に反して、大きな進展をみせないままに時間ばかりを消費していった。
長い夏が終わって、中庭の木々が赤や黄に色を変える。
草木が生い茂る勢いを失って、空気は急速に温度を失っていく。
そして夏の熱気が去るにつれ、僕はふと思うようになる。
ヒロを見つめる君の恋は、本当に君を幸せにするんだろうか、と。
一生懸命に好みを合わせ、興味のない音楽やスポーツに興味を持つ努力をする。その涙ぐましい健気な努力を否定するつもりはない。だけどそうやって好きになってもらった先に、どんな幸せがあるんだろうか。
君はいつになったら、恋を頑張ることから解放されるのだろうか。
ヒロのことが好きだという純粋な気持ちに従って恋をする君の横顔を、僕は尊いと思うと同時、痛々しく感じてしまった。ヒロの一挙手一投足を気にして喜んだり、哀しんだりする君を、不憫に思ってしまった。
だから僕は君に告げた。それが正義だと、君のためになるのだと思って。
「え、それってどういう……」
君は呆然と呟く。後半は声にすらなっていなかった。
「だからそのまま。ヒロ、最近、別の高校の女子と付き合い始めたみたい」
嘘だった。
だけど君は、唐突の僕の嘘を真に受けた。がっくりと落とした肩が小さく震え、目には涙が浮かんでいた。
「…………そっかぁ。まだ伝えてもないのに、振られちゃった」
長い沈黙のあとで、君はそう笑った。
そして僕は、僕が間違っていたことに、どうしようもなく歪んでいたことに気が付いた。
君のためを思って――。
そんなのは詭弁だった。本当はもう辛かっただけなのだ。ヒロのことを好きな君を、見続けていることが。僕の気持ちも知らないで、ヒロと話したことを楽しそうに僕に話す君を見ていることが。
逃げたのだ。壊そうと思ったのだ。
この嘘は君のためなんかじゃない。
僕が僕を守るために吐いた、自己愛に偏った惨めで醜い嘘だった。
まだこの瞬間に嘘だと言えたなら、僕は引き返せたのかもしれない。でも言えなかった。嘘だと言って軽蔑されるのが怖かったし、嘘を吐いた理由も話せるわけがなかった。
彼女はひとしきり泣いたあと、僕にこう告げて別れた。
「君ともヒロくんとも、友達でいたいから、その……明日まだ学校で会ったら、普通に、仲良くしてね」
僕は頷いた。けれども僕に、そんな資格はなかった。
僕らはこの日を境に疎遠になった。
全く話さないわけではなかったけれど、
最初こそヒロは不思議がっていたが、この気まずさに慣れていくのに時間は掛からなかった。
僕はなるべく君と関わらないようにした。
君と話す資格なんて僕にはない。そんな自罰的な感情も少なからずあったんだろう。
でも本心では恐れていた。
僕が吐いた最低な嘘が、嘘だとバレることを恐れていた。
だから僕は君とヒロを意識的に遠ざけた。
そして僕たちはクラスそのまま三年に上がる。受験勉強に追われているうちにあっという間に一年が過ぎて卒業を迎え、僕ら三人はバラバラになった。
†
――あれから10年。
たくさんの祝福が、温かくて穏やかな気持ちが、君を出迎えていた。
君は多くの優しさに見守られながら、バージンロードを歩いてくる。
その横顔は穏やかな未来を、生涯愛すると決めた人を、真っ直ぐに見つめている。
僕は静かに、進んでいく君の横顔を眺めている。
祝福の天蓋を抜けた先、君のことを待っているのはタキシードを着込んだ背の高い人。名前も知らない、聞き慣れない苗字の、今日初めて見る人。
優しそうな表情だった。それでいて責任感にも満ちた、頼りがいのありそうな人。
君はバージンロードを歩いていく。
やがてお父さんの腕から離れ、その背の高い彼の元へ。
そんな君の後ろ姿に、僕は救われる。あの日吐いた最低な嘘は消えないけれど、今の君が幸せだと思えるなら、ほんの少しだけ、僕は救われる。
僕はどこまでも自分本位だ。君のかつての恋愛を勝手に哀れみ、勝手に正義ぶり、そして壊した。そして勝手に罪悪感を抱き続け、今の君の人生で最高の幸せさえも、自分自身を赦すために利用している。
10年経った今も、僕はあの日を引き摺っている。
10年経った今も、初恋を終われずにいる。
君は前へ進んでいく。
あの日の痛みを乗り越えて、力強く前へ。
僕は――。
僕はまだ、あのときの友人Aのままでいる。
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