横顔と水面

 夕陽が差していた。

 冬の始まりを告げる金木犀の匂いがして、僕は胸の高鳴りを誤魔化すように深く息を吸う。空はオレンジ色で、山の端に隠れる太陽が穏やかに流れる川をきらきらと照らしていた。そんな光る水面を背景にして、隣りをゆっくりと歩く先輩の横顔から、僕は目が離せずにいる。


「今日で最後だねぇ」


 脆いガラス細工みたいな、触れれば壊れてしまいそうな空気にそぐわない、先輩のへらっとした笑み。だけど僕はその表情にどうしようもなく胸を締め付けられている。


「…………でも、卒業まではまだ、三カ月もあるっすよ」

「うん。でももう登校日はほとんどないから」


 縋るように、目前に迫る現実を拒むように、吐き出された僕の言葉は先輩に届き、弾けて砕けた。


「それに、東京におばあちゃん家あるから。年が明けたら、徐々にそっちに移るつもり。大学の監督からも、ちょっと早めに練習参加しに来ていいよって言われてるんだ」

「……そっすか」


 そう吐き出すので精いっぱいだった。僕はまだ、未来に向かって進むという過程で生じる別れに柔軟な理解を示せるほど大人ではなかった。

 今日は年内最後の登校日。三年生である先輩は年が明ければ自由登校になって学校へは来なくなる。つまり学校しか接点のない僕と先輩にとっては、事実上これが二人で帰る最後の日だった。

 先輩は東京の大学に進学が決まっている。部活の剣道で、スポーツ推薦を受けたのだと言う。先輩は推薦など受けなくても合格できるくらいの実力――模試やテストの類では学年トップ5を譲ったことがないらしい――があるにも関わらず、スポーツ推薦なんて使って入学したのは、先輩の部活に対する情熱と覚悟のあらわれだ。

 容姿端麗。眉目秀麗。文武両道。

 よくよく考えてみなくても、こうして先輩と僕が並んで歩いているのはおかしな光景だろう。言ってみれば、住む世界が違う。

 もちろん付き合っているとか、そういう関係ではない。

 単なる幼馴染。家が隣りで、母親を小さいときに亡くしている僕を、いつも気に掛けてくれた近所のお姉ちゃん。

 だから先輩にとって僕は、僕の評価はたぶん、頼りなくてすぐに泣きじゃくるあの頃とあまり変わっていない。だからこうして、今も並んで歩いてくれるのだ。

 先輩が振り返る。肩にかかるくらいの髪を靡かせ、スカートをひらめかせて。


「そんな顔しないでよ~。死ぬわけじゃないんだからさ、わたし」

「分かってますよ、そんなの」

「じゃあなんでそんな苦しそうな顔してるの?」


 不意に先輩は僕との間をぐっと詰めてきて、僕は思わず一歩後退る。先輩の白い息が僕の頬に触れた。


「…………」


 僕は何も答えられなかった。もし喉の下で渦巻いている気持ちを口にしてしまえば、それこそガラスでできたようなこの関係は壊れてしまうに違いなかったから。


「君もさ、同じ大学来たらいいよ。キャンパス綺麗だし、いい場所だよ」

「先輩、俺の成績知ってます? 下から数えたほうが早いんすよ」

「それこそまだ一年も、時間あるんだからさ」


 先輩は言って、困ったように笑いながら僕から離れる。その表情が意味するのはきっと、東京という知らない場所に踏み出していくことへの漠然とした不安なのだろう。

 だいたいの生徒が近県の大学か専門学校、あるいは就職を選択するなかで、東京の大学に進学するというのはそれだけですごい挑戦なのだと、改めて思う。


「よいしょ~」


 先輩はまた唐突にそう言って、舗装された歩道から河川敷の芝へ。軽やかに走る先輩の背中は、今しがた過ぎった不安を、振り払おうとしているみたいだった。

 僕は先輩のそんな背中を追って、金木犀の匂いに混ざるシャンプーの爽やかな香りを辿る。

 あっという間に岸まで走っていった先輩はしゃがみ込み、足元の砂利をがさごそと漁っている。


「お、いいの見っけ」


 拾い上げたのは少し平べったいだけのただの石ころ。先輩は、透けるはずもないのにそれを夕陽に翳して、何やら楽しそうに口元を緩めている。


「昔さ、よくやったよね」

「……水切り?」

「そ。――――とりゃっ」


 振り被った先輩が鋭いスナップで石を放る。低い軌道で水面に降り立った石ころは波紋を広げながら跳ね、穏やかな流れの川の上を滑っていく。


「……ニ、三、四、五…………うーん、五回かぁ。前はもっと上手くいったのになぁ」


 僕からしてみれば上々の成果だったが、先輩は納得いかないようで腕組み。頭のなかで何かをシミュレーションしたあと、再び石を探し始める。


「やろうよ。水切り。どっちが多く跳ねるか勝負ね」

「勝負って、僕、一度だって勝ったことないっすよ」


 言いつつ、僕は鞄を下ろしていい石を探す。

 水切りをするのにいい石というのは平べったい石だ。なるべく低く鋭く投げられた石の平べったい面と水面がぶつかることで石は弾かれ、水面を何度もバウンドする。

 原理はそれなりに分かっているつもりだ。だがどうしてか僕は、ただの一度だって先輩より多く跳ねさせらたことがない。

 昔から先輩は母親がいなくなって塞ぎ込んでいた僕を連れ出して、こうしてよく遊んでくれた。いつも先輩は僕に何かと勝負事を仕掛けてきては大人げなく全力で負かしてきた。僕は悔しくて、もう一回とせがみ、それに応じてくれる先輩はまた容赦なく僕を打ち負かす。僕は何とかして勝ちたくて、勝てる方法を必死で考えているうちに悩んでいたことを忘れている。

 思えば、それは先輩なりの気遣いであり、優しさだったのだろう。あのときは思い至らなかったけれど、先輩をずっと見続けてきた今の僕は彼女の優しさをよく知っている。

 きっとこれが僕と先輩の、最後の勝負だ。僕だって最後くらいは勝ちたかったし、勝つことでもう一〇年も変わっていない僕と先輩の関係に波風の一つくらい立てられるかもしれないと、根拠のない期待を抱いていた。

 触れた石は冬の澄んだ空気に当てられ続けて、氷のように冷たかった。


「よし」


 やがて僕は決心と覚悟を胸に、一粒の石ころを選ぶ。選んだのは掌に馴染むちょうどいいサイズの、平な石。相棒には悪くない、理想的なかたちだろう。


「お、早いな~。うーん、じゃあわたしはこれにしよ」


 先輩も石ころを摘まむ。たぶん石選びまではほぼ互角。あとは投げる僕らの実力次第といったことろか。


「じゃあせーのでいくからね」

「うっす」


 僕らは互いに距離を取り、川べりまでの助走距離を取る。


「よし、じゃあいくよ? ――せーのっ」


 僕らは同時に軽く駆け出し、振り被る。綺麗なフォームかは分からない。だけど僕らはほぼ同時に腕を振り、選び抜いた石をその指先から放り投げる。

 空中を水面と平行に横回転する石が重力に引かれて着水。僕はその石の行く先を、祈るように見守る。


「……一、……二、……三、四、五、六、七。やった! 七回! これ自己ベストな気がする!」


 無邪気に飛び跳ねた先輩の隣りで、僕は対照的にがっくりと膝をつく。

 三回。出だしは良かった気がしたが、一回目に跳ねたあと傾いた僕の石ころは二、三、と立て続けに水面を転がって呆気なく水底へと沈んでいった。

 二つの石が駆けた水面ではそれぞれの波紋が静かに広がっている。広い川幅の、真ん中あたりまで等間隔で並ぶ先輩の波紋と、そのだいぶ手前で水面を荒らすように重なり合った僕の波紋。

 まるで東京に、夢とか希望に向かって力強く進んでいこうとする先輩と、田舎の片隅で足踏みしながら恨めしそうにそれを見送る僕みたいに。


「ふっふっふっ。わたしに勝とうなんて一〇〇年早いのだよ、少年」

「だから言ったじゃないすか。知ってますよ、んなこと。でも――」


 腰に手を当て必要以上に勝ち誇る先輩に、僕は投げやりな笑みを向けて肩を竦める。そしてあの頃と同じように、人差し指を一本、顔の前に立てる。


「もう一回」


   †


 冬の太陽は傾いてから沈むまでがあっという間だ。

 街灯の少ない田舎の河川敷は、油断すれば少し危ないくらいには見通しが悪くなる。


「次で最後かなぁ。何回跳ねたか見えないし、寒いし」


 先輩が石を探しながら言う。まさか高校生にもなって、こんな何度も水切りをすることになるとは思っていなかったのだろう。勝てない僕が何度も再戦を要求するので、昔を懐かしんだだけだった一回きりの水切りは、いつの間にか本腰を入れた遊びになっていた。

 僕は振り返ってしゃがみ込んだ先輩の背中をちらと見やる。


「そうっすね。次が本当に最後っすね」


 次の一回が、正真正銘、最後の勝負。何度だって僕がせがみ、その度に先輩が応えてくれた〝もう一回〟はたぶんきっと、もう永遠に訪れない。


「よ~し、君に決めた!」


 言いながら石を選んだ先輩が立ち上がる。続いて僕も、選んだ石を握りしめて立ち上がる。


「じゃあまたせーので」

「……うっす」

「緊張してるの?」


 うししし、と僕の横顔を盗み見た先輩が笑う。僕は眉を顰め、先輩を見る。


「最後くらい、勝ちたいんすよ」


 今日の戦績はここまで僕の全敗。昔と変わらないと言えばそれまでだが、今日くらいは――今日だけはそれじゃ嫌だった。


「負けず嫌いだよねぇ、昔からさ」

「今日はとくに、勝ちたいんす」

「ふーん、変なの。でも負けてあげない」


 先輩は笑う。でもそれでいい。先輩はいつだって、僕の数歩先を軽やかに走っている。そういう存在でいい。僕はいつだってその背を追い駆けて、追いつけないことに苦しんで、それでもまた追い駆ける。

 そしてもしいつの日か、追いつけるときが来たのなら。

 先輩の凛としたその姿に、並ぶことができたなら。


「ねえ、先輩」

「んー?」

「もし僕が勝ったら……」

「もし勝ったら?」


 もし先輩に勝てたなら、追い駆け続けた背中に少しは近づけたと言えるだろうか。追いついたとは言えないまでも、その見込みくらいはあると思ってもらえるだろうか。

 僕は内心でかぶりを振った。そうじゃないだろう。もし勝ったら――聞いてほしいことがあるだなんて、勝負をダシにして伝える気持ちは。それはたぶん、きっと、すごく、不誠実な気がした。


「……いや、やっぱ何でもないっす」

「えー、何それ~」

「何でもないっす。ほら、投げましょうよ」

「うーむ、気になるなぁ」


 先輩は僕をちらちらと伺っていたが、頑として口を閉ざした僕を見て諦めたようだった。最後の一投に向けて深く息を吸う。


「それじゃ、いくよ。――せーのっ」


 僕らはゆっくりと駆け出す。ぴたりと重なる動き。同時に暗い水面に石を放る。


「一、……ニ、……」


 二つの石が同時に跳ねる。先輩が数を数えるたび、水面には二つ並んだ波紋が描かれる。


「三、……四、……」


 届け。届け――。僕は呼吸も忘れて石に祈る。


「……五、あ」

「お」


 かつん、と。

 五回跳ねた僕と先輩の石は、空中でぶつかって弾け、そのまま小さな飛沫を上げて水中に消えた。

 穏やかな水面には、重なる波紋が二つ。

 僕と先輩は顔を見合わせる。そして予想もしていなかった結末に、堪え切れなかった笑いを溢しながら冷たい砂利の上に座り込む。

 ひとしきり笑って、笑うのにも飽きて、それから僕は水面を眺めている先輩の横顔に視線を向ける。


「先輩、僕、行きます。先輩の大学。だからあと一年だけ……、必ず追いつくから、その……待っててほしいっす」


 先輩が僕を見る。少し驚いたような表情で。それから先輩は水面に視線を戻して、ゆっくりと立ち上がる。釣られて立った僕の目に移る、その横顔。


「分かった。一年だけ待っててあげる」


 先輩のその笑顔は薄闇のなかでも鮮烈に瞬いていた。

 だから僕はもう立ち止まらずに進んでいける。


「帰ろっか」

「うっす」


 僕らは歩き出す。並んだ僕らの姿は、映り込んだ水面で一つに重なって。

 今はまだ、頼りなくて泣き虫な弟みたいな僕だけど。

 先輩の待つ東京に、僕が追いついたそのときなら。

 追い続ける背中じゃなく、思い焦がれた横顔に少しでも誇れる自分になれたなら。

 そのときはきっと――。

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