君がいた景色

 東京で過ごす最後の夕暮れは、ほんの少し埃っぽくて。

 窓から夕陽が差し込んで、宙を舞う埃が星屑みたいに煌めいていて。

 私はなんだか泣きたくなってくる。

 部屋はもう空っぽ。築二五年の安アパートの一室には数箱のダンボールが詰んであるだけ。私が東京で過ごした四年という、長いようで短く、だけど何よりも掛け替えのなかった時間も明日で終わるんだ。

 君と一緒に選んだ、淡いブルーのカーテンも。

 釘すら真っ直ぐに打てない私を見かねて、君が組み立ててくれた本棚も。

 君との思い出が散りばめられた、壁掛けのコルクボードも。

 もうどこにもない。

 もうここに君はいない。

 部屋は空っぽのはずなのに、もう全部片づけたはずなのに、君はもういないのに、どうしてこの部屋はこんなにも消せない思いでいっぱいなんだろう――。

 どうしようもなく息が詰まるような気がして私はベランダに出る。

 植木の一つだって置けないような小さくて狭いベランダ。室外機が我が物顔で居座っているそのベランダで、私は自分の右側を空けるように柵に寄り掛かってハッとする。

 左側に寄る癖。この小さなベランダで、君と並ぶ癖。

 狭いね、なんて言いながら身を寄せ合って、暑い夏の夜には近くのコンビニで買ってきた缶ビールを飲んだ。

 君はまだ半分だって飲んでないのに顔を赤くして、いつも先に寝ちゃうから私はほんの少し寂しくて。でも人形みたいに長いまつげも、すっと通った鼻筋も、私の隣りで立てる穏やかな寝息も。愛おしい全部がここにあるって感じられて、私は嬉しくて幸せで――。

 今の私は、一年経っても抜け切らないそんな癖に、一人苦笑い。

 夕陽のオレンジが鮮やかに染め上げていく空気をいっぱいに吸い込んで、四年間眺めていた景色に心のなかで元気よく、そして潔く別れを告げる。

 地元に戻って就職。別に珍しくもない、ただそれだけのこと。

 確かに東京はキラキラしていて、色んな人がいっぱいいて、皆がそれぞれエネルギーに溢れて過ごしている。そんな素敵な街だ。

 もちろんそれだけじゃないことは知ってるけど、私はこの四年間、東京で過ごせてよかったと思ってる。

 東京の大学で色んなことを学んだ。

 東京に来て、たくさんの友人と過ごした。

 それに東京に来なければ、君にだって出会えなかった――。

 ベランダからは夕暮れのオレンジに溶ける東京タワーの赤が見える。君と初めてのデートで行った場所。大切な思い出の、一ページ目。

 映画を見たあと、上京して間もない私を、東京っぽいところ行ってみようと言って君が連れて行ってくれたよね。

 私は安直だなぁ、なんて笑ったりしながら、見上げたタワーは空に突き刺さってるみたいで。私の住んでた地元は茶畑と田んぼばっかりで、こんな高い建物なんてなかったから、私は東京にいるんだって少しドキドキしてた。

 でもね、ドキドキの理由はそれだけじゃなくて。

 きっとこのときには、もう君のことが好きだったんだって今は思うよ。

 初めてのデートに舞い上がって柄にもなくヒールを履いてきた私を、君はおぶって展望台まで連れて行ってくれたっけ。すごく恥ずかしかったのに、すごく嬉しくて、広くて少しごつごつした背中が暖かった。

 君のくるんとカールした癖毛から香る、柔らかいシャンプーの匂いを嗅いでた話は結局、できないままになっちゃったね。

 覚えてる。全部、覚えてる。

 一年目の記念日に予約してくれたレストランも。

 二年目の記念日に見た眩いばかりの夜景も。

 晴れの日も雨の日も、二人でよく歩いたあの道も。

 テスト前、文句を言いながら勉強し合った図書館のあの席も。

 夕飯の献立を二人で考えながら、新婚みたいなんて冗談を言い合ったスーパーも。

 駅で待ち合わせして、大学まで通ったあのオレンジの電車も。

 楽しかった気持ちも、嬉しかった出来事も、思わず叫びたくなるような辛いことも。

 全部、覚えてる。

 私が、この街が、全部。

 もうこの世界のどこにも、君がいないことだって。



 深夜、病院からの電話。

 バイト終わりに泊まりに来るって言っていた君の帰りを待っていた私は、部屋着のままタクシーに飛び込んで病院へ。走らないで、落ち着いて、なんて看護師さんの言葉を置き去りにして、君が眠る病室に向かったんだ。

 一秒でも遅れたら、少しでも足を止めたら、もう君が手に届かないどこかに消えてなくなってしまうような気がして。

 病室に飛び込んだ私の目に真っ先に移ったのは俯いている君のお母さんと、腕組みをして難しい顔で医者と話しているお父さんの姿。

 よく考えれば当然なのだけど、全く予想していなかった私はたどたどしく自己紹介をする。突然、すっぴん部屋着、おまけに汗だくで病室に駆け込んできた初対面の女を、疲れ切った様子だったご両親は快く病室に入れてくれた。

 君は眠っていた。

 バイト終わり、ロッカールームで着替えている最中に倒れたって、お母さんが教えてくれた。

 脳出血。

 難しいことは分からなかったけれど、君の隣りに用意されたモニターの、ちかちか明滅する波と上下する数字が君の命そのものなんだって。無味乾燥なはずなのにやけに生々しい現実が、私に向けて突き付けられていたんだ。

 私は君の手を握って祈った。今にも消えてしまいそうな君の命の、その波に、私は祈った。

 負けないで。

 行かないで。

 傍にいて――。

 でも君は、まるで最後に一目、私に会うためだけに待っていたと言わんばかり。命の波を少しずつ弱らせて、ゆっくりと息を引き取った。

 あまりに突然すぎる君との別れに、私は涙の一筋すら流せなくて。

 私はただ漫然と、君がいなくなった東京で君との思い出を拾い集めるように一年を過ごした。

 君がずっと心配していた単位も何とか取り切って、無事に大学も卒業した。

 そして私は帰ることにしたんだ。

 君と過ごした東京を離れて、空だけが広くて何もない地元に。

 この街は、私にとって掛け替えのない場所だ。

 きっと一生分の幸せとときめきを、私にくれた場所だ。

 でも、だからこそ、私はここにはいられない。

 ベランダから見える東京タワーも。

 最寄り駅のホームも。

 大学の図書館も。

 何の変哲もない交差点も。

 よく行った居酒屋も。

 あの景色も。

 あの音も。

 あの匂いも。

 東京の全部に君がいる。

 この街の思い出が、君との思い出なんだ。

 だからこれが最後の夕暮れ。

 これから先、君なしで生きるには、色んな大切が詰め込まれたこの街は重すぎる。

 私の心にぽっかりと穴が空いたように、君がいなくなった私の右隣り。

 狭いと思っていたはずのベランダは、どこか広く感じられて。


「ありがとう」


 一年越しの涙が頬を伝って、いつも二人で見ていた景色が滲んでいく。

 でもどんなに景色がぼやけても、君との思い出はいつまでもぼやけてくれそうにないんだ。


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