君はもう、蜃気楼

「二〇時三〇分発、新宿行き。間もなく出発です。二〇時三〇分発、新宿行き――――」


 バス会社のお姉さんの声がして、僕はゆっくり立ち上がる。胸に固く誓った決意とは裏腹に、背負ったリュックは軽かった。中に入っているのは一年間、時給七三〇円の電気屋で働いて貯めたお金と最低限の着替え、スマホの充電器くらいのものだ。


「お預かりする荷物がある方はこちらへ」


 肌の浅黒い中年の男が声を掛けてくる。ちらと見えた名札には彼の名前と運転手である旨が書かれていた。僕はよろしくお願いします、と言って軽く会釈をする。

 僕が予約した座席は後ろのタイヤの真上だった。プランのなかで一番安いバスなので、もしかすると走り出したら振動がうるさいかもしれないな、と僕は小さく溜息を吐く。

 僕は膝の上にリュックを乗せ、後ろの人に許可を取ってから座席を少し倒す。快適とは言えないが、この日のために用意した耳栓とアイマスクがあれば眠れないことはないだろう。

 間もなく、バスガイドによる予約客の確認が行われ、キャンセル客を除く全員がいることが確かめられる。扉がゆっくりと閉まり、バスが緩やかに走り出す。

 アナウンスされた消灯時間は二一時三〇分。まだ少し時間があるので、僕はぼんやりとカーテンの隙間から外の景色を覗き見る。

 何もない町だ。長距離バスの出発地点が無人駅の前にあるロータリーであるあたり、この町にいかにランドマークとなりうるものがないかを物語っている。

 不意に右手に握っていたスマホの画面に明かりが灯る。バイト先の店長からのメッセージだ。内容は〝気を付けて行ってこい〟の一言。素っ気ないところが店長らしいな、と僕は思う。

 僕は数秒だけ返事を考え、素っ気ない感じでお礼を送るだけにした。

 店長だけは唯一、この旅の目的を知っている。

 そもそも店長が背中を押してくなかったら、僕はまだ今ごろ自分のベッドの上で燻ぶっていたに違いないのだ。

 メッセージのアプリを消してホーム画面へ。

 そこには一年前の、僕と、僕の隣りで笑う彼女の姿がある。長い黒髪に、一重まぶたのつぶらな瞳。Tシャツとジーンズは着古し。化粧っ気はまるでなくて、ほんのりと日に焼けた頬にはそばかすが浮いている。

 そう。僕の彼女――だった人。

 今もまだ、忘れることのできない大好きな人。

 彼女は一年前の夏。入学からたった三カ月で地元の専門学校を辞め、僕に別れを告げてこの町から出て行った。僕はと言えば、彼女からきちんと事情を聞くことも、もちろん男らしく引き留めたりすることもできず、ただ呆然と去っていく彼女を見送ってしまった。

 もう一年も経ったんだ、という現実感のない他人事のような感想と、未だに褪せることのない鮮やかな思い出たちが僕の胸のうちに交互に湧いた。

 不思議な感覚だ。これから一年越しに、彼女に会いに行くとなれば尚更に。

 僕は胸に抱いた決意ともう一つ――決して消えることのない彼女への恋心とともに今夜、東京へと向かう。


   †


「私ら、もう別れよ」


 授業終わりの帰り道。チェーン店のファミレスの、窓際奥から三番目のいつもの席で。

 いつものようにハンバーグセットを食べていた彼女が不意にそう切り出した。

 僕らの通う専門学校は電車で一時間半、三つ隣りの町にある。この町はいわゆる寂れた地方都市というやつで、たとえ寂れていたとしても駅前の小さな繁華街は僕らにとっては唯一といっていい遊び場だった。チェーン店のファミレスに、いつもガラガラの居酒屋。強引に昭和レトロを謳う古臭いゲームセンターに、最新のヒットチャートがいつまでも入らないカラオケ。

 地元に帰ってしまえば本当に何もないので、僕らは友人と、あるいは恋人と、二〇時過ぎの早すぎる終電の時間まで、だらだらと時間を消費して過ごす。

 この日もそのはずだった。

 いつもと変わらない、退屈で、だけど悪くない一日。

 授業疲れた、課題が怠い、とか嘆いたところで変わらない現実に愚痴をこぼしながら、時間を貪っていくだけの今日。

 だから唐突に切り出された彼女の言葉に応答するのに、僕は随分と長い時間を必要とした。


「なんで……?」


 時間を掛けたのに結局はそう返すしかない情けなさに僕は内心で溜息を吐く。だけど彼女は僕のそんな内心に構うことなく、階段を一段飛ばしで駆け上るように話を続ける。


「学校も辞める。んで、この田舎町ともおさらばしようかなって」


 これまた唐突だった。でもそれが思いつきや、いつもの愚痴の延長線上の冗談でないことは、彼女の目を見ればよく分かった。


「ほら、前にさ、バンドやってたって言ったじゃろ? 夢なんだ。でっけえステージ立って、たっくさんの人たちの前で演奏して。だから東京に行くんだ。知ってる? 東京の駅の前はね、ギター一本で夢を歌ってる人たちがいるんだって」


 そう言った彼女は楽しそうで、どこか苦しそうだった。

 僕は知っている。周りの友達がネイルをするために爪を伸ばしていても彼女がそれをしないのは、ギターを弾くからだということ。

 だから夢を叶えたいと真剣に言う彼女の話は唐突だったけれど、まるで突拍子もない話というわけでもない。


「そう、なんだ」


 だけど僕は掠れた弱々しい声でそう頷くことしかできない。

 彼女の夢の話なんてほとんど頭に入ってこない。音楽の話なんて知らない。

 それじゃあ僕はどうなるの? 遠距離恋愛っていう手はないの?

 そんな問いが僕の心のなかで浮かんだり消えたりして、僕は思っていたよりもずっと、彼女のことが好きだったのだと気づく。

 でもそんな問いも、気づいた気持ちも、何一つとして僕は口に出せないまま、ハンバーグを食べ終えて付け合わせのインゲンマメを皿の端へと避ける彼女の手元を眺めている。


「君のこと嫌いになったとか、そういうのじゃないよ。でもね、たぶん、色んなものを置いてけぼりにして、ここから進まなくちゃだめだって思うんだ。……それに、」


 彼女はフォークとナイフを置いて、困ったような、誤魔化すような笑みを浮かべる。


「このままこの町にいて、大人になって、私に何が残るのかなって思っちゃうんだよ」


 この話から二週間後、彼女は本当にいなくなった。

 その時間は僕が気持ちの整理をつけるにはあまりに短くて、行かないでくれという本心も、頑張ってという強がりも伝えられないまま、僕らは離れ離れになった。


   †


 とんとん、と、僕は肩を叩かれて目を開ける。

 ぼやけた視界のなかで、バスガイドのお姉さんがにこりと微笑む。


「到着しましたよ。新宿です」


 どうやら僕は夢を見ていたらしい。用意したアイマスクと耳栓など使うまでもなく、いつの間にかぐっすり寝ていたというわけだ。

 バスガイドと運転手それぞれに深々とお辞儀をしてバスを下りる。下りた瞬間、僕の鼻先を掠めていった

 小さな箱から飛び出した先には、僕のちっぽけな想像など及ばない、壮大な光景が広がっていた。

 まず目につくのは人。まだ朝の五時だというのに長距離バスの待合室には人が溢れている。どこか眠たげなサラリーマンに、僕と同年代くらいの男女の集団。

 そもそもバスターミナルからして僕の町とは大違いだ。無人駅の前にある広場などではなく、城みたいな大きな建物。床には汚れの一つとしてついていない。何のために設けられているのか分からない緑を植えたスペースには穏やか陽の光を浴びながら、妙に洒落た紙のカップを片手にスマホを眺める綺麗な女の人がいた。

 まるで迷路だった。僕は迷いながら、なんとか人の流れに乗って建物の外へ出る。外へ出てもまた、圧巻の光景が広がっている。

 待合室など比べものにならない人が横断歩道を行き交っていた。信号待ちの車の数も圧倒的で、僕はにわかに祭りでも始まるのかと疑いたくなった。

 鼻孔を通って肺を満たす空気には気怠さと活気が混ざっていて、吹く風はどこか忙しなく、僕の横を通り過ぎていく。

 僕は慣れないスマホの地図アプリで駅の方向を確かめる。いつものくせでふらふらと歩きながら画面に気を取られ、前から来た男の人にぶつかった。


「気をつけろ」


 よろめいた僕が謝るまでもなく、その人はそれだけ言って歩き去っていく。あっという間に人混みへと紛れてしまった背中を、僕は呆然と見送った。

 人の流れに注意を払いながら、僕は横断歩道を渡って駅へと辿り着く。だが困ったことに駅が大きすぎた。無数に色分けされた路線のどれが僕の目的地に通じているのか分からず途方に暮れる。

 僕は目まぐるしく行き交う人たちに酔ったのか、あるいは空を覆い尽くすほどに高くそびえる建物の数々に目が回ったのか、とにかく途方もない疲労を感じて、ひとまず休むことにする。

 元から所持金は心許なかったし、あまりに多すぎる選択肢はどの店に入るのが正しいのか僕に教えてはくれない。そもそも朝早いので開いている店は少なかったのだけれど、僕は店構えに気後れして入ることができなかった。

 なるべく人のいない道の端を選んで息を吐く。

 僕は言いようのない虚無感に打ちひしがれていた。

 一年前、僕と同じように東京を訪れた彼女は一体何を思ったのだろう。

 抱いた夢とこれから始める新しい生活に、胸躍ったのだろうか。

 それとも今の僕と同じように、全てに溢れる街の喧騒に呑み込まれ、途方に暮れていたのだろうか。

 たった一人で、足を踏み入れるにはどれほどの勇気が必要だったのだろうか。

 僕はこの一年、ずっと止まったような時間を過ごしてきた。

 もしあの日、引き留められていたら。

 もしあの時、頑張ってねと口に出来ていたら。

 決して取り戻せないIFだけを繰り返し、僕は相変わらず留まったままのあの町で弛緩した毎日をただ過ごしてきた。彼女を想っているつもりで満足して、ただ漫然と生きてきた。

 そんな僕が、今更彼女に会って一体どんな言葉を掛けるというのだろう。

 行かないで、も、頑張ってね、も所詮はIFなのだ。一年越しの言葉だなんて言って、美化するのはきっと誠実じゃない。

 僕が漫然と過ごしていた間、彼女はこの東京で、必死になって夢に向かって努力していたはずなのだから。



 会いたいという気持ちと会いたくない、会うべきじゃないという気持ちと。色んな理由をあれこれと考え続けた僕は結局、当初の予定通り彼女に会いに行くことにした。

 決め手はなかった。

 きっと、せっかくここまで来たしな、という最も自分本位で情けない理由で、僕は電車に乗った。

 彼女が住んでいる場所は知らなかった。けれどSNSの近況で、彼女がバイトとして働いているというカフェは知っていた。

 新宿から電車を乗り継いで一五分。乗り継ぎを間違えたり、信じられないほどの人混みに揉みくちゃにされたりしていたら、何故か一時間半もかかった。

 駅から歩いて五分程度、街のなかにひっそりとたたずんでいるカフェ。道路と店を隔てる植えられた緑の奥にはテラス席があって、まだモーニングの時間だというのに、席はまばらに埋まっている。コーヒーを片手にPCやタブレットを眺めている人の姿が目立った。

 僕は緑に身を隠しながら、店のなかを覗く。幸いガラス張りだったので店内の様子は難なく見渡すことができた。

 彼女がここで働いているのはそうだとして、今日シフトが入っているかは定かではない。もし今日が休みであれば、僕がどれほどの決意で訪れたとしても、もう顔を見ることさえ叶わない。


「いない、か」


 果たして彼女はいなかった。僕は落胆とも安堵とも取れる曖昧な溜息を吐いて、踵を返す。


「……りょう、くん?」


 そして掛けられた声に、僕は固まる。

 一年間、耳にすることはなくてもずっと僕のなかにあった声だ。忘れるはずがなかった。

 恐る恐る声の方向を見れば、目の前に彼女がいた。


「どうしたの? ……って、そっか。インスタに載せたもんね、ここで働いてること。ちょうど今からシフトなんだけど、なんか食べてく?」

「あ、いや……」


 一度、いないと油断したからだろう。あらかじめ色々と考えていた言葉は呆気なく霧散し、僕の口からは意味のない音がぼそぼそと漏れた。


「君も上京してたんだね。あ、それとも旅行とか?」


 彼女はにこにこと、笑みを湛えながら言った。まるで一年前のことなんて、もう何でもないのだとでも言いたげに。

 その証拠に、というのも変だろうけれど、彼女は僕の知る彼女とは少し違っていた。

 決して濃いわけではないのだろうけれど、目元に引いたアイラインに頬の乗せられたチーク。薄い唇にはほんのりとオレンジを帯びる瑞々しいグロス。

 僕の知る着古しのTシャツは、柔らかそうな素材のサマーニットに。色気なんて欠片もなかったジーンズは腰のラインを際立たせるタイトスカートへ。少し背が高くなったように見えたのは、前ならば足が疲れると言って絶対に履かなかった踵の高いブーツを履いているせいだった。

 そして――。


「爪……」

「ん? ああ、これ? 可愛いでしょ。昨日変えたばっかなんだ」


 そう言って彼女は見せびらかすように、夏の空みたいな青の濃淡で彩られた手のネイルをひらひらと振ってみせる。

 嬉しそうに口元を緩める彼女を見て、僕はようやく理解する。僕が一年間、思い続けた彼女はもう――。


「……ああ、うん、いいね」


 僕はいろんなものを呑み込んで、彼女に笑みを向ける。きっと引き攣っていたんだろう。彼女は僕の様子に首を傾げる。

 必死に堪えていたつもりだった。だけどもう、いろいろな感情が溢れてきて、僕自身何が何だか分からなかった。

 じわりと視界がぼやけた。

 まるで蜃気楼のように、彼女の姿も揺らいでぼやけた。

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