泣きたいのは僕のほうだ
「…………は? 今、何て」
熱気のこもる昇降口。下駄箱は少し埃っぽくて、履き古しのローファーやらスニーカーやらが授業終わりの解放感滲む喧騒に紛れて地面を擦る。
もうそろそろ買い替えたほうがいいなと思っていたボロのスニーカーを両手に持った僕の前には、ほんの少し緊張したような顔で僕を見ている彼女がいる。
聞き取れなかったわけじゃない。確かに聞こえたその言葉がにわかには信じられなくて、僕はフリーズした頭で、あるいはほのかに熱を帯びる顔で、そう言った。
僕の反応が気に食わなかったのか、彼女は眉をひそめ、むっと頬を膨らめる。
「だーかーらーっ、七夕祭り、一緒に行こうって言ったの」
「誰と?」
「この状況で君以外の選択肢ある?」
「いや、そうじゃなくて。他に……」
彼女は呆れたと言わんばかり、魂ごと吐き出すような深い溜息を吐く。
「二人だよ?」
「へぇ」
なぜか僕は生返事。彼女の言葉に、理解がほとんど追いついていなかった。彼女はそんな僕と自分を交互に指差して、最後にはVサインを突き付ける。
「私と君、二人!」
「お、おう……」
「もしかして、二人はいや?」
突然に伏し目になった彼女の不安げな表情に、僕の心臓は危うく口を突いて飛び出しそうになる。砕け散った言葉を必死で掻き集め、僕はそれらを慌てて並べ立てる。
「そ、そ、そんな、そんなわけねえだろ! い、い、いいいいいこう、た、七夕まづっ……」
噛んだ。舌を。
痛みに悶える僕を見て、彼女は楽しそうにうししと笑う。
「それじゃ約束。六時にパンダ公園の三角噴水のとこ。遅れたら針一億万本のますからね!」
彼女は言って、くるりと踵を返して去っていく。校門で待ち合わせていたらしい友達と合流して去っていく。
「一億万なんて数ないけど……」
昇降口に取り残された僕は、下校する生徒の雑踏のなかでぽつりと呟く。
頬が熱いのは、きっと夏のせいだ。
†
高二の春、僕は彼女に出会った。
たまたま同じクラスで、たまたま座席が隣り。たまたま床に落ちた彼女のスマホが目に入って、聴いている音楽が僕の好きなバンドのものだと気づいた。
イアホンをつけながら、風に散っていく桜を背景に音楽に聞き入る彼女に、柄にもなく僕は話しかけた。
運命と言えば聞こえはいいけれど、単なる偶然の重なりに過ぎない。
僕のほうから話しかけたのも、きっと新学期特有の、なんかクラス替えとかで気分が浮ついてしまったせいの、気まぐれ。
でもそれで十分だった。
僕らは友達になった。
とは言え、僕らはただの友達。
特に気さくで友達の多かった彼女からすれば、僕は大勢いるクラスメイトのうちの一人。
やんわりとクラスのなかでグループが出来ていっても、僕らが疎遠になることはなかった。けれど特にこの関係が発展することもなかった。
そもそも性格は真逆だった。
僕は友達が多いわけではなかったし、人前で話したりするのも得意ではない。別に孤独を愛したりする厨二心はなかったし、クラスに馴染めていないわけでもないけれど、どちらかと言えば一人で音楽を聴き耽っていたり、クラスの端のほうで他愛もない馬鹿話に花を咲かせているくらいが気楽で好きだった。
一方の彼女はクラス中心。少し前に流行ったカーストというのをつけるなら、きっとトップ3くらいには入るんだろう。いつも周りには男女を問わず友達がいて、行事などのイベントごとになれば率先して動いてくれる。だけど特別に優秀だとか、手際がよくて信頼されているとか、そういうわけでもなくて。でも彼女が頑張る姿を見せられると、周りはなんだか放っておけなくて。そんな賑やかな学校生活を、まとって歩いているような子だった。
そう、僕らはただの友達。その他大勢のうちの一人。
僕らは新譜が出れば感想を言い合い、ライブの知らせがあれば協力してチケットを取ったりする。好きなバンドという共通点だけが繋いでいる、そういうありきたりな関係。
だからみんなが騒ぐような甘酸っぱいことがあったり、話して聞かせるような楽しいことは何もない。
そのはずだったのに――。
†
梅雨ただ中の気怠い授業中。
僕は昨日の帰り際のことが気になって、ついつい彼女の後姿に目がいってしまう。
今はもう席替えをして隣りではない。
誰もが嘆く中央最前の席で退屈そうに頬杖をついて、彼女は黒板を見上げている。
僕は廊下側の真ん中あたり。掲示物を貼るボードの目の前にある席なので、たびたび誰かが集まってくるのが少し面倒だけれどハズレというほどでもない。真上にあるクーラーの風がほぼ全く当たらないことに気づいたのは最近で、少し次の席替えが待ち遠しくはなったけれど。
二人で。
その言葉の意味を、僕は昨日の帰り道からずっと考えている。考えているけれど、分からなかった。もしくは淡い期待を抱いて、そうでなかったときのショックが怖くて懸命に予防線を張っている。
僕らはただの友達。その他大勢のうちの――
「――――っ!」
不意に振り向いた彼女と目が合った。
そして雷にでも打たれたみたいに、僕も彼女も慌てて視線を逸らす。逸らした拍子、動転した僕は膝を思い切り机の裏にぶつけた。すごい音がしたので先生が振り返って〝寝るなよ〟とかなんとかてきとうなことを言い、クラスのなかで笑いが起きる。
正直、どうでもよかった。そんなことよりも胸が内側からすごい勢いで叩かれていることとか、火が出てると勘違いするほど顔が熱いことのほうが問題だった。
視線を感じるくらい見入ってしまったのだろうか。それとも――考えかけて首を横に振って余計な思考を頭から追い出す。
そんなわけがない。ただの偶然。そう、いつもの偶然だ。
僕は一度深呼吸をして、ゆっくりと顔を上げる。恐る恐る慎重に向けた視線は、同じように慎重に振り返る彼女の視線と再び重なる。
今度は互いに逸らさなかった。
彼女がはにかんだから、僕もなんだか嬉しくって思わず笑ってしまう。
目が合ったら、一度逸らして、それからまた合わせる。
その日から僕らは面白がるように、何かを確かめようとするように、繰り返しそうした。
意味なんてない、ささやかな僕らだけの合図。
誰も知らない、僕らだけの秘密だった。
†
そして、あっという間に時間は過ぎた。
約束の日を明日に控え、僕はクローゼットの少ない中身を引っ張り出して床に広げてみる。
たぶん制服で行くものじゃないだろうな、という答えに辿り着いたがゆえの結果だった。
とは言え、何を着ていくべきかさっぱり見当がつかない。そもそも選ぶだけのレパートリーもあまりないけれど。
とにかく、冷静になって考えてみれば、女子と二人で出掛けるなんて生まれて初めてのことだ。
何を着ていけばいいのか。何を持っていけばいいのか。待ち合わせ場所にはどれくらい早く行けばいいのか。だいたい、何を話したらいいのか。
疑問と悩みは挙げればキリがない。
「なに、お前デート?」
突然に廊下から掛けられた声に僕は跳び上がる。
「い、いきなり開けんなよ、兄貴」
「さては図星だろ。乙女だね~。何着てこうか悩んでんだろ」
「やめろ! 出て行け! クソ兄貴!」
「そう邪見にすんなよ。ほれ、せっかくアドバイスしてやろうってのに」
僕は兄貴を押し出しかけて、手を止める。
「見たところ七夕祭りだろ? きっと女の子は浴衣着てくるぜ。そしたらお前も浴衣着たほうがいいだろ」
「……持ってないから」
「そしたら甚兵衛だな。俺の貸してやろうか?」
「やだよ、借り物じゃカッコつかないだろ」
「……カッコつけてえんだ」
「うるさい! やっぱり出てけよ!」
僕は全力で兄貴を部屋から追い出す。
結局そのあとも二時間ばかり何を着ていくか悩み、僕は兄貴に甚兵衛を借りることにした。
†
六時にパンダ公園の三角噴水。
学校が終わり、いつもの一・五倍増しの速度で家に帰った僕は兄貴の甚兵衛に念入りにアイロンをかけてから、余裕をもって家を出た。
おかげで待ち合わせ場所に着いたのは五時前。針を一億万本飲まされる危機は回避できたけれど、さすがに早く着きすぎた。
とりあえず僕は忘れ物がないかを確認したあと、自販機で水を買って待つことにした。普段ならここで缶コーヒーを買うところだったけれど、カフェインに利尿作用があることを思い出して止めた。彼女と祭りを楽しんでいる最中にトイレに行きたくなったりしたら、なんとなくカッコ悪い気がしたから。
僕は噴水の周りに飛んでくる鳩やスズメを数えたりしながら彼女を待った。
五時を過ぎて、五時半が過ぎた。あと一五分――五分――六時。
遅れたら針一億万本飲ますと言っていた彼女は時間になっても現れなかった。
まあ、女子は身支度に時間が掛かるって言うしな、と僕は彼女を待ち続ける。もしかしたら兄貴の予想通り、本当に浴衣を着てくるのかもしれない。僕は彼女の浴衣姿を想像したりしてみる。
六時半を過ぎた。
僕は彼女に連絡をする。返事どころか既読にすらならなかった。
七時になった。
もうじき七夕祭りのメインイベントである打ち上げ花火が始まる。待ち合わせ場所のパンダ公園から祭りの会場である神社までは歩いて一〇分くらい。まだ十分に花火には間に合う。
だけど彼女は来なかった。
七時半になった。雨が降り出した。
僕は待ち続けた。
けれど彼女は現れなかった。
からかわれただけだったのかもしれない。
何かの罰ゲームだったのに、僕が本気にしただけだったのかもしれない。
今頃、冗談が通じない奴だと僕を笑っているのだろうか。
そうだったら、どれだけ良かっただろう。
ふいに僕のスマホが光った。メッセージの受信――彼女の友達からだった。
僕はメッセージを開くまでもなく、ロック画面に映る言葉に言葉を失う。
彼女が交通事故に遭った。
即死だった。
†
八時になった。
雨のせいで途中でお開きになった七夕祭りから、人がぞろぞろと帰っていく。僕は三角噴水の前、一歩たりとも動くことが出来ずにいた。
何も考えられなかった。
何も考えたくなかった。
何も。何も。何も何も何も。
彼女が今日、僕と約束していたことを彼女の友達たちは知っているのだろう。僕のスマホにはさっきから交互に、メッセージと通話の通知で光っている。
応じる気はなかった。読む気もなかった。
信じたくなかった。
何を間違えた。
約束をしたのがいけなかった?
一時間も早く着いて、暇をつぶしていたのがいけなかった?
それともあのとき――新学期の初日、彼女に話しかけたところから間違いだったのだろうか?
どうすればよかった?
どうすれば彼女は死なずにすんだ?
僕は意味のないifを繰り返し、繰り返し、繰り返し続けた。
どうすれば。どうすれば。どうすればよかった?
「――ねぇ、おりひめさまとひこぼしさま、あえたかなぁ?」
頭の上にお面をつけた女の子がお父さんとお母さんと歩いている。女の子はお父さんの腕に抱えられながら、透けたビニール傘越しに雨の降る夜空を見上げる。
「どうだろうなぁ。途中まで晴れてたから会えてるといいなぁ」
「うん、あえてるといい!」
「ママも会えてると思うな。今ごろきっと二人でお夕飯だね」
僕も夜空を仰ぐ。天の川なんてものは影も形もなくて。薄い灰色の雲が覆う空からは止みそうもない雨が降り続いている。
七夕に降る雨のことだ。
一年に一度しか会えない織姫と彦星が、それさえ叶わずに流す涙だそうだ。
「ふざけるな……」
僕の渇き切った喉が、裂くように鋭くて、潰れたように掠れた声を出す。
何が催涙雨だ。何が七夕だ。織姫も彦星も、甘ったれたこと言いやがって。
今年会えたかどうか? どうだっていいだろ、そんなこと。
お前らには来年がある。来年が駄目なら再来年がある。再来年が駄目でもその次も、その次も、次の次だってある。
いつまでだって待てばいい。会えるその日まで、いつまでも、いつまでも待てばいい。
僕らには、彼女には、もう次なんて――――。
僕は曇天に向かって泣いた。人目もはばからずに大声を上げて泣いた。降りしきる雨に、この涙が紛れてしまわないように。
僕は、彼女が好きだった。
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