夏、ヒーロー、パンツ(後篇)

 普段は朝からプールやら校舎裏やらトイレやら、とにかく手を変え品を変え、彼らに呼び出される僕だったが、この日は何もなかった。

 テストが近いからだろう。いくらなんでも冬には受験を控える身なのだ。彼らと言えど、多少なりともテスト勉強くらいはするのだろう。

 僕はそんなことを考えながら教室へと上がる。いつもと違う、不愉快なざわめきは僕のそんな牧歌的な想像を一瞬にして掻き消した。


〝人殺しの娘〟


 そう黒板に大きく書かれていた。文字の隣りには週刊誌の切り抜きに、匿名掲示板のコピー。考えられる限りの非道な悪口が、カラフルなチョークで殴り書きされていた。

 性質の悪い悪戯だ。僕は特に興味もわかず、黒板の周りでざわめくクラスメイトたちを一瞥して席に着く。

 後ろの入り口でぼとりと落ちる、鞄の鈍い音。一瞬にして静寂に包まれたクラス中の視線がその一点へと注がれる。

 疑いの視線の先には日向そらが立っていた。呆然とした顔で、鞄を取り落し、まるで時間が止まったみたいに固まっていた。いつも笑っていた彼女は、その瞬間どこにもいなかった。


「ねえ、日向さん、これ本当なの?」

「親父さん人殺しってマジ?」

「俺、ニュースで見たことあるんだけど」

「えぇ、怖くね? 人殺しの血流れてるってこと?」


 ゆっくりと、不愉快な好奇心が騒めき出す。しばらく立ち尽くしていた日向はようやく我に返り、へらりと白い歯を見せて笑う。その引き攣った笑顔は、日向が精いっぱいに叫んだ悲鳴のように見えた。


「やだなぁ~。やめてよぉ、こういうのはよくないって~」


 日向は黒板へと向かい、書かれた文字を消していく。切り抜きやコピーを剥がし、折りたたんでゴミ箱へと捨てる。

 クラスメイトの間に広がった騒めきと猜疑心は収まらないまま、チャイムが鳴った。

 一体誰がこんなことをしたのだろう。

 もしかしたら絶妙なタイミングで僕への虐めを邪魔されていたことに腹を立てていた彼らかもしれない。

 あるいは大事な時期に転校してきて授業を掻き回す彼女を鬱陶しく思った誰かかもしれない。

 それとも、ゴシップ好きの誰かがたまたま気づいて悪ふざけをしただけかもしれない。

 可能性はいくらでもあって、どれも確証が得られるわけではない。

 確かなのは、その一撃で、一言の落書きで、日向そらは完全にクラスで孤立したということ。

 嫌な緊張をはらんだままホームルームが終わる。

 間もなく始まった授業に集中している生徒は独りとしておらず、みんな机の下に隠したスマホで舞い込んだゴシップの確証を得ようと指を走らせている。やがてクラスのあちこちで、ひそひそと言葉が交わされる。


「三人も殺してるらしいぞ」

「母親自殺だって」

「遺族のコメント見つけた」

「うっわ、さすがにこれはヤバくね」

「殺人鬼の娘ってマジじゃん」


 僕はちらと日向の様子を伺う。僕のほうが後ろの席なので彼女の顔はよく見えない。だが俯き、太腿の上で拳を握って耐えていることは考えるまでもなくよく分かった。


「おーい、うるさいぞー。授業に集中しろー」


 棒読みの、覇気のない教師の声。我関せずを貫く、無慈悲な態度だ。

 当然、そんな教師の言葉に耳を傾けるクラスメイトなんていない。

 よくよく考えれば、七月の中途半端な時期に転校なんておかしな話だ。何か事情を抱えていることは少し考えれば想像できる。もちろんそれが殺人犯の娘で、知らない土地へと逃げて新生活を始めるため、なんて理由だと想像できるわけもないのだけれど。

 ――だから、どうした。

 僕は知っている。ほんの少しだけかもしれないけれど、日向そらがどういう人間かを知っている。

 あの日、暑い夏の朝、溺れる僕を助けるようにプールへ飛び込んだ彼女のこと。

 後ろから消しカスを投げられる僕から、彼らの気を逸らすためにいびきを掻いて寝始めたり、弁当を食べ始めた彼女のこと。

 プロレスごっこと称してサンドバック代わりにされる僕を解放するために、窓から飛び降りるなんて真似をして騒ぎを起こした彼女のこと。

 彼らとともに姿を消した僕を探して走り回り、コロッケパンを吹き飛ばした彼女のこと。

 最初は単なる変人なんだと思っていた。

 でもそれは少し違うことに気が付いた。

 彼女――日向そらは決して誰も傷つけず、自分が笑われることでいつだって誰かを助けようとしていたんだ。

 それは安い同情かもしれない。

 あるいは善行を積むことで、自分に流れる罪の血を雪ぎたかっただけかもしれない。

 でも理由なんてどうでもいいじゃないか。

 僕は、それで救われたのだ。

 きっと彼女は気づいていないだろう。彼女にとって僕はただの可哀そうなクラスメイトで、自己満足の救済の結果、僕が何を思うのかなんて気に掛けたりしていない。

 でも。

 それでも。

 日向そらは、僕のヒーローなんだ。


「ぼ」


 言葉に詰まった。クラス中の騒めきが、悪意を蔓延らせて彼女に迫っていく。


「ぼ……、ぼ、ぼ」


 立て、僕。


「ぼく、ぼ、僕を――」


 椅子を吹き飛ばす勢いで、立ち上がる。椅子が床を打つ音に、騒めきがぴしゃりと止んだ。

 いけ、僕!


「僕を、僕を、僕を見ろぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 雄叫びを上げた。何を思ったか、無我夢中でベルトを緩めた僕の腰から、制服のズボンがすとんと落ちる。周囲の女子が悲鳴を上げた。


「ぼ、僕はブリーフだ! め、めめめめずらしいだろ。今日日、ぶ、ブリーフを、ブリーフを、履いてる奴なんて、見たことないだろ! ははははっ!」


 もう何も考えられなかった。とにかく日向そらに集まった注目を逸らすことだけを果たしたかった。


「ど、どうだ! ぼ、僕を見ろ! 殺人犯の娘くらい大したことないだろ! 僕は、も、もっと身近にいる変態だ! 何なら、今すぐブリーフを脱いだっていい!」


 僕は叫んで、ブリーフのゴムに手を掛ける。

 悲鳴。狂乱。

 義憤に駆られた男子たちが僕を取り押さえにかかる。

 当僕が抵抗できるはずもなく呆気なく取り押さえられ、生徒指導室へと連行された。

 その日の昼には両親が学校へ呼ばれ、僕はすさまじい説教を三時間受け続けた。その間、僕は脱ぎたかっただけだと意味不明な供述をし続けた。

 当然、家に帰ってからも説教は続き、父は怒鳴って、母は泣いた。

 そして僕は学校中の笑い者になった。すれ違えば道が開き、女子からは蔑みの目を向けられた。男子たちに陰で〝ブリーフ君〟と呼ばれ続けた。僕を虐めていた彼らは面白がって、僕を何度も脱がして遊んだ。もう傷を残さないようになんて手加減されることはなく、いじめは一層激しさを増した。

 もうどうでもよかった。日向そらを殺人犯の娘だと噂する声が聞こえなくなったから。

 それだけで、僕の勝ちだった。

 いつものようにズボンを脱がされ、蹴飛ばされた僕は校舎裏で蹲る。その日はチャイムが鳴っても動けなくて、白いブリーフを晒したまま僕は固いアスファルトに寝転んでいた。


「とりゃ」


 横になった僕の視線の先、やはり窓から飛び出してくる日向そらの姿が見えた。彼女が現れるときは、いつも跳んでくるな、と僕は思った。


「……や、水遊びボーイ」

「……今はブリーフ君だよ」

「……そうだった。ごめん」


 彼女は困ったように眉尻を寄せて笑う。僕は身体を起こし、花壇に腰かける。彼女も少し距離を置いて、花壇にすとんと座った。


「授業、受けなくていいの……」

「君だって受けてないじゃん」

「まあ、僕は、その色々あるから」

「じゃあ、わたしもいいの。今日は気分じゃないから」

「相変わらず自由だね」

「全然。いろんなものに、雁字搦めだよ」


 長い沈黙が降りる。

 夏の、湿っぽくて気怠い風が吹いた。


「……ごめんね」

「何が」

「だって、わたしのせいで……」

「違うよ。君のせいじゃない。君のおかげだよ」


 僕は頬についた砂を払い、花壇の土塗れになっているズボンを拾う。


「君みたいになろうって、思ったんだ。ちょっと失敗したけど」

「ちょっとじゃないよ」


 日向は笑う。困ったように、まん丸の青い目にうっすらと涙を浮かべながら。


「でも少しはなれた。だから後悔はしてないよ」

「じゃあ、ブリーフ君はわたしのヒーローだね」

「そんなダサくて弱っちいヒーロー嫌だよ。それに、ヒーローは君だから」


 僕は笑う。傷だらけの顔で。蹴られた脇腹が痛むのも構わずに。


「わたし女の子だから、ヒーローじゃないよ。変なひと」

「君にだけは言われたくないな」


 僕が言うと、日向は笑った。初めて出会ったあの日に見た、過ぎるほどに眩しい笑顔で。

 咽返るような暑い夏。僕は太陽のような少女に出会った。

 ほんの少し、何かが変わって夏が過ぎていく。

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