12分の恋

 目覚ましの鬱陶しい音。俺は目を開け、伸ばした右手で暴力的な音を止める。

 起き上がって寝ぼけた頭を揺らしながら洗面所へ向かう。顔を洗い、髪を濡らして寝癖を直す。ふと見上げた鏡には気怠そうな生気のない顔が映っている。

 われながら酷い顔だ。年相応の、やる気とか活気とか覇気とか、そういうものが一切感じられない。

 まあ別に、そういうものが欲しいわけじゃない。勉強が得意なやつがいたり、スポーツが苦手なやつがいたり。そういう得手不得手と同じで、俺はやる気を出すのが苦手なやつなのだ。

 それってけっこうクソじゃね? とか、頑張れよ一六歳! とか思わないわけじゃない。思わないわけじゃないけど怠い。そういうの、考えることすらちょっと怠い。

 俺は部屋に戻る。窓を開けて空気を入れ替える。部屋に吹き込んでくる生温かい風は、まだまだしっかりと夏の匂いをさせている。

 ああ、怠い。まず夏とか怠い。暑いし臭いし、とにかく怠い。

 まだ蝉も、近づいてくる夏の終わりに駆り立てられるように、必死さ丸出しで鳴いている。

 まあせいぜいファイト。

 俺は寝間着の着古したTシャツと中学の時のジャージを脱いで制服に着替える。シャツに袖を通し、ズボンを履く。てきとうな靴下に、ネクタイ……は面倒だからいいや。

 だいたい一カ月ぶりの制服は、まるで自分のものじゃないみたいに思える。あれだけ毎日着ていたのに不思議だった。それと、怠い。

 最後にほぼ中身の入っていないスクールバッグをひったくり、俺は一階へと下りる。母親がおはようと言ってくるので、ああとかうんとか返しておく。

 朝飯は食べない。朝からがつがつ栄養を摂取するなんて理解不能だし、そもそも省エネがモットーなので人並みに何かを補給する必要もないのだ。

 俺はローファーを履いて家を出る。斜めに降り注いでくる太陽の光にげんなりと目を眇める。

 まだ朝だというのに、夏ももう終わりだというのに、それはそれは勤勉なことで何より。

 ああ、怠い。

 俺は自分自身の貧困な感性を嘲笑って、小さく鼻を鳴らす。


   †


 夏休みが終わり、約一カ月ぶりの登校。

 四月から毎日のように通い、馴染んだように思っていた駅のホームは、たった一カ月で随分と変わってしまったように思えた。

 よく考えれば、俺が家に引き籠って学生の特権を謳歌している間も世の中はちゃんと動いていたのだ。サラリーマンはクソ暑いなか家と会社を往復し、電車は概ね時間通りに走り続けていた。

 たかだか一カ月。しかしされど一カ月。

 それは俺みたいに取るに足らない存在を置いていくには十分な時間なのだろう。

 間もなく電車がやってくる。俺は並んでいた列の流れに沿って乗り込み、出入り口横の定位置を陣取る。電車がゆっくりと走り出す。

 見渡す限りの乗客のなかで、俺は何やら最も疲れ果てた顔をしている。一カ月も休んでいたくせに。だが一カ月も夏休みを満喫したからこそ、久々の学校というのは憂鬱なのだ。

 間もなく一つ目の駅に停車。さっきとは反対側の扉が開き、雪崩れ込むように人が入ってくる。車内はあっという間にすし詰め状態。俺の前には近所の女子校のセーラー服を着た女子生徒が押し込まれてくる。

 女子生徒が俯きがちに小さく会釈。俺も軽く頭を下げて返しておく。

 扉が閉まると、人の熱気とか息遣いとかそういうものが全部、この狭い車両に閉じ込められたみたいで息苦しくなってくる。俺は窓の外に目をやって、気を紛らわす。


「今日からなんですね」


 俺の胸の、少し下のあたりから声がする。もちろん声の正体はさっきの女子生徒。俺は窓の外を眺めていた視線を戻し、返事をする。


「そうっすね。そちらはもっと早くから?」

「私の学校は先週からです」

「そうなんすね。俺はもう、既に帰りてえっす」


 俺が言うと、彼女はくすくすと笑った。何が面白いのかはよく分からない。

 一カ月ぶりに見た彼女は特に何も変わっていなかった。低い身長もポニーテールも、休み前と変わらない。ただ少しだけ、大人びたような表情に、俺はなぜだか目を逸らす。


「でもちゃんと学校には行くんですね」

「……ああ、そうっすね。これはその、……あれっす、あれ。遅刻とか欠席とかして、目立つほうが怠いじゃないっすか」

「真面目」

「省エネなんすよ」


 俺が一瞬、強く胸を打った鼓動を紛らわすように苦笑いを浮かべていると、電車が揺れる。既にすし詰め状態の車両のなかで、乗客が一斉によろめいて押し寄せる。彼女は押されるがまま、スーツの背中と扉の間に潰されそうになる。


「場所、変わりましょうか」

「え、でも」


 俺は女子生徒の手を引いて扉の脇へ移動させ、自分自身は入れ替わるように扉の前へ。手摺に伸ばした腕で、背の低い女子生徒が潰されてしまわないように人の波を堰き止める。


「あ、ありがとうございます……」

「別にいいっすよ……」


 彼女に見上げられ、俺は急に恥ずかしくなってくる。省エネだ、省エネ。たぶん胸のあたりのじんとする熱さはちょっと、エネルギーの消費が激しすぎる、気がする。


「大丈夫、ですか?」


 ほんの少しだけ吊り上がった、つぶらな瞳が俺を映す。俺の心臓がどくどくと、鋭くて深い鼓動を刻んでいく。


   †


 彼女を初めて見かけたのは四月。

 高校に上がった俺の生まれて初めての電車通学。とは言え心躍るようなことはなく、通学時間が伸びた分だけ怠さが増していた。

 車両に籠る熱気に辟易しながら、気を紛らわすように代わり映えのない中吊り広告を眺めるだけの大した意味のない時間。どうやら人気アイドルのお忍びデートを激写したらしい。興味はないけれど、ああ書いておけば売れるのだろう。世の中ってやつは案外暇を持て余しているらしい。

 広告にも飽きて、俺は視線を下げる。不意に、一人の女子が目に留まる。

 たぶん身長は一五〇センチくらい。電車の揺れで前後左右から押し寄せてくる人の波に懸命に耐えながら、座席の横の手摺にしがみついている女の子。後ろで一つに結ばれたポニーテールが、どことなくリスを連想させる。着ているセーラー服から近くの女子校の生徒だと分かった。

 ただそれだけ。だが毎日同じ電車に乗れば毎日同じ顔を見かけるのは必然で、乗客に揉まれながら懸命に手摺にしがみつくその子を見つけるのが、俺のなんとなくの日課になった。

 代わり映えのない日々がやはり気怠いということを確認するための作業。

 そんな意味のない日々に変化があったのは五月。

 ゴールデンウイークが明けて、通学へのモチベーションに反比例して怠さが青天井の時期。

 いつものように俺の最寄駅の一つ先で大量の乗客とともに車内に雪崩れ込んだ彼女は、いつもの手摺を掴むことができずに扉の前まで押し流されてくる。

 扉と乗客に挟まれながら、顔を赤くしている彼女。確かに車内は暑い。五月になってから気温も上がっているし、いくらクーラーがかかっていても常軌を逸した人口密度の車内の温度は高い。

 だが俺は気づいてしまう。

 まあ、毎日見ていたからだろう。彼女の顔が赤い理由が車内の温度によるものではないことに。

 痴漢だった。

 吊革に捕まって後ろに立っている三〇代くらいのサラリーマンの手が、その子の尻をスカートの上をゆっくりと這っている。

 最初に思ったのはめんどくせえなという感想。俺は省エネをモットーとする、クズなのだ。余計なことになるべく力は使いたくないし、毎日が退屈かつ平凡であることを何より大切にしている。だからヒーローを気取って痴漢を撃退、などというのはモットーに反する。エネルギー消費が激しいし、普通に学校に遅刻するだろう。

 もう一度言う。俺はクズなのだ。

 だが残念なことに、俺は中途半端なクズだった。

 頭のなかで何かをシミュレーション。だが痴漢撃退など経験したことも見聞きしたこともないので、シミュレーションに対して意味はない。

 次の駅に停車するのを待った。幸い乗り合わせている乗客には男性が多い。反対側の扉が開くのも運がいい。乗客が下りようと動き出す直前、俺は声を上げた。


「さーせん、この人痴漢してんだけど」


 手を掴んだりするのはちょっと怖いので、指を差した。痴漢の男はぎょっとした顔で俺を見る。それからすぐに何言ってんだこいつという顔で俺を見下す。


「チカン、ダメ、ゼッタイ」


 どうして片言なのかは分からなかった。車内がざわめき、注目が痴漢男と俺に集められる。だが集められるだけ。おいおい頼むよ、傍観専門とか止めてくれよ、まじで。

 俺が出しゃばったことを後悔しかけた瞬間、隣りで例の女の子が泣き出す。女の子の涙に弱いのは、この世の男たちの真理なのだろう。たぶん俺を除いて。

 痴漢男は複数の乗客によって瞬く間に取り押さえられ、あっけなく駅員に連れて行かれた。

 事情聴取とかがあるのだろう。痴漢に遭っていた例の女の子もどこかへ連れて行かれ、目撃者ということで俺も駅員からいくつか質問をされた。俺はてきとうに答えながら、ああ今日は遅刻だなとぼんやり時計を眺めていた。

 慣れないことをすると疲れる。俺は疲労を癒すべくホームのベンチでぼーっとする。

 遅れていくのは怠い。授業中に教室に入るなど本物の馬鹿か目立ちたがりのすることだ。かと言って三限目とかからぬるっと出席しているのもそれはそれで怠いし、このまま家に帰ってサボったことが親にバレるのも怠い。とりあえず全部が怠い。

 とりあえず考えるのを止めてベンチに座っていると、事情聴取を終えたらしい彼女がホームに戻ってくる。目はまだ少し赤かった。


「あの」


 彼女は俺を見つけるや近寄り、声を掛けてくる。俺は露骨に面倒くさそうな顔をする。なんかイチャモンとかつけられんのかな、などと考える。


「助けてくれてありがとうございました」

「…………ああ、まあ気にすることはないっすよ。ちょうど学校サボろうと思ってたんで」


 俺が言うと、彼女はくすくすと笑う。何が面白いのかは分からなかった。

 彼女が俺の隣りに腰を下ろす。本格的に意味が分からなくて、俺は内心でめちゃめちゃ困惑した。お前は早く学校行けよ。

 もちろん話すことはない。電車が二本、右からやって来て、それから左へと走り去っていった。


「あの、本当にありがとうございました」

「いや、もうそれさっき聞いたし」


 俺が言うと、彼女はまた笑う。だから何が面白いんだろうか。

 思わず盗み見てしまった横顔はぎこちなく歪んでいて、まだ少し潤んだ目は切なさそうに煌めいていて。俺はなぜかその場から動けなかった。結局もう二本、電車を左へと見送った。


   †


 それから俺と彼女は、毎朝電車で顔を合わせるたびに二言くらいの言葉を交わす仲になった。

 もちろんそれだけ。乗り合わせている時間はたったの12分しかない。おまけに俺はほとんど相槌を打っているだけなので、会話は滅多に発展しない。だから俺も彼女も、お互いの名前さえ知らないままだ。

 俯いている俺の膝に、ぽんとミネラルウォーターが置かれる。俺はそれを受け取る。残念なことに、俺はお腹が弱いから硬水は飲めないんだな、これが。


「もう、びっくりしましたよ。いきなり、吐くわ、なんて宣言するんだもん」


 ベンチに座る俺の隣りに、ポニーテールを揺らしながら腰を下ろして彼女が言う。俺はてきとうに、ははは、と笑っておく。

 彼女に定位置を譲ったあと、俺は激しい動悸に襲われた。変な汗を掻き、仕舞いには眩暈と吐き気を催して今ここに至るのである。

 最悪だった。なんせ今日は2学期の初日。遅刻しても欠席しても目立つ。どうせ今頃、あいつまだ夏休みだと思ってるんじゃね、みたいに笑われているに決まっている。


「とりあえず水、飲んでください。少し休めば気分もよくなりますよ」

「あぁ、ありがとうございます……」


 俺はとりあえずペットボトルを開け、水を一口だけ含む。これくらいならさすがに俺の胃腸も文句はつけないだろう。


「前もこんな感じでしたね」

「前? ……ああ、前ね」

「あのときとはちょっと立場が逆ですけど」

「そうっすね」


 俺の顔はまた少し火照ってくる。原因は不明だった。もしかしたら変な病気なのかもしれないとほんの少しだけ不安になってくる。もちろん俺のそんな心配は露とも知らず、彼女はにこにこと笑いながら、足を前後に揺らしている。


「いいんすか? 遅刻っすよ」

「貴方もね」

「まあ、俺はいいんすよ。でも、あなたは俺のせいで、遅刻になったわけだし」


 俺が言うと、彼女は笑う。夏の終わりにぴったりな、風鈴のように涼しげで軽やかな笑み。


「あはは。真面目。でもいいの。あの日の恩返しってことで」


 温い風が吹いた。

 鳴り響く心臓が、じんと再び熱をもつ。

 少し高い声。目尻によった皺。口元のえくぼ。少し厚めの唇。靡いた髪のシャンプーの匂い。

 たぶん全部が、この胸の熱の原因で。

 電車が右からやって来る。開いた扉からまばらに人が降りたり乗ったりしていく。


「それじゃあ私もそろそろ学校行きますね。ちゃんと休むんですよ? あと、行けそうなら学校はあんまりサボらないように」


 彼女はまた笑う。俺は伸ばした腕で、電車へ向かおうとする彼女のセーラー服の袖を摘まむ。

 ああ、怠いな。すごく怠い。こんなのはきっと、俺らしくない。

 だけどそんな戸惑いは、振り返った彼女の表情が一瞬で掻き消していく。


「あと少しだけ……。あと少しだけ、ここにいて欲しいんすけど」


 この鼓動が、この温度が、この手の震えが、彼女にも少し伝わるだろうか。

 伝わればいい。まだ言葉にするには少し自信がないから。ほんの少しでも、伝わればいい。

 もう間もなく夏は終わる。

 俺がまだ知らない新しい季節が、始まっていく予感がした。

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