この気持ちの名前を僕は知らない(前篇)
「――――え、今何て」
いつもと同じ帰り道。今日の合奏は上手くいったね、なんて話をしながらあるく夜道で。
僕は思わず立ち止まって聞き返す。
アルトサックスの入るケースを背負った彼女は決まりが悪そうに、立ち尽くす僕の前を三歩歩いてから振り返る。吐く息が白く、冬の澄んだ空気に溶けていた。
「だからー、わたし転校するの。年が明けたら。横浜に」
もう一度突き付けられた彼女の言葉に、僕は返す言葉を持ち合わせない。
「先生は知ってるけど。まだ皆には言ってないから内緒だよ。君にだけ特別。まあ、……なんていうかさ、幼稚園からの付き合いだし」
「なんで……」
「お父さんの仕事の都合。本社に呼ばれたんだって。もうウチじゃお祭りみたい。お母さんもすっごい喜んじゃって、ちらし寿司食べたよ」
そう言った彼女の笑顔があまりにぎこちなくて、僕はそれが正真正銘の事実で、僕程度にはどうしようもない現実なのだと思い知る。それでも僕は、彼女を引き留める言葉を探す。無理でも、無駄でも、そうせずにはいられなかった。
「どうすんだよ、コンクールは……」
「んー、わたしがいなくても何とかなるよ。みんな上手いし」
彼女が道端の小石を蹴る。勢いよく転がった小石はアスファルトを乾いた音で叩きながら、脇の排水路に落ちていった。
「もちろん、皆と部活やりたかったなーって気持ちはあるよ。新体制になってようやくまとまってきた感じもあったし、二月には追いコンもあったから。先輩たちに演奏聞いてもらいたかったし」
「なら――」
行くなよ。
そんな無責任な言葉は、どうしたって言えなくて。僕は言葉を呑む代わり、自分の唇を思い切り噛んだ。
「そんな顔しないでよ~。別に死んじゃうわけじゃないし、電車に乗れば……まぁ、二時間半くらいで帰って来れるんだし。そんなに寂しいって言うなら、遊びに来てあげるからさぁ」
彼女はそう言って笑う。耳と頬を赤くして、僕から顔を背けながら。声だけは気丈さを装って、無理矢理にでも笑ってみせる。
「あ、ほら、わたし新しい学校でもたぶん吹部入るから。もし全国とか出たら会えるかもよ。そしたらそのときはライバルだね~、わたしたち」
「…………で」
「んー?」
「……なんでだよっ!」
僕は思わず声を荒げた。唐突のことに頭も心もぐしゃぐしゃで、どうしたらいいのか分からなかった。
「え……どうしたの。声、大きいよ」
「なんでそうやってヘラヘラしてんだよっ! 部活だって、あんなに頑張ってたじゃないか! 今の皆とコンクールで賞を取るとか言って! 嘘だったのかよっ!」
僕は誰に、何に怒っているのかも分からなくて。
それなのに、思ってもいない言葉ばかりがするすると口を突いて溢れた。
「何がライバルだよ。二時間半? そんな時間かけて、どうせこんな田舎になんか来ないだろ。都会のほうが楽しいに決まってる。僕らのことなんかすぐ忘れて、新しい友達と大して美味しくもないけど綺麗に盛り付けられたパンケーキでも食ってればいいだろ、裏切り者!」
僕は昂る感情のまま、絶叫同然に言い放って我に返る。彼女の引き攣った笑顔がどうしようもなく強張って、目尻から一筋、頬を光るものが伝った。
だがそれも一瞬。彼女はへらりと笑い、手の甲で目尻を拭う。
「そうだね、ごめんね。みんなで賞取ろうねって約束、守れなくて」
違う。そうじゃない。
僕が言いたいのは。
君に言わせたかったのは。
そんな言葉じゃないのに。
「じゃあね! 私、今日こっちから帰るから。また明日ね……っ」
走って遠ざかっていく彼女の背中を見送ることさえできずに、冬の夜空の下で僕は俯いていた。
◇◇◇
あんな酷いことを口走っておいて、僕にはもうどんな顔で彼女に会えばいいのか分からなくなった。
幼稚園からの幼馴染だ。これまでに喧嘩くらい、いくらだってしてきた。でもこんなのは初めてだった。
僕も、彼女も、すれ違うだけで気まずくなって、自分の存在を消すように顔を背けた。
部活では毎日のように顔を合わせることになったが、幸か不幸か僕らは楽器が違ったので、必要以上の接点が生まれることはなかった。
当然、周りの友達は僕らを心配した。
つい昨日まで他愛のない馬鹿話に花を咲かせていたはずの僕らが顔さえ合わせようとしないのだから当然だった。
でも僕には分からなかった。彼女にどんな顔をしたらいいのか。何て声を掛けたらいいのか。
そうやって僕がまごついているうちにあっという間に年は暮れ、クリスマスの定期演奏会を終えた直後のミーティングで、彼女が転校することが、顧問の口から告げられた。引っ越しの準備や新しい学校での手続きがあるから部活に出るのも今日が最後になると、彼女は自分の口でそう説明した。
彼女は笑いながら泣いていた。最後は笑顔でいたいと、涙を拭いながら微笑んでいる彼女は、仲間たちと手を振って別れる最後の瞬間まで、気高い彼女のままだった。
みんなも泣いていた。彼女との別れを惜しみ、思い出を振り返りながら、培った絆が決して解けることはないと彼女に笑顔を送っていた。
驚いたのは、いつも厳しく、陰で〝鉄仮面〟と呼ばれている顧問の先生さえ少し涙ぐんでいたことだった。
みんなが彼女との別れに涙を浮かべ、別々に歩むことになる未来に、それでも確かな希望と応援を込めて微笑んでいた。
僕も気持ちは同じだった。
でも僕だけは泣く資格も、笑う資格もないような気がして、必死に無表情を装った。
心の中で惜しみながら、どこか実感は薄かった。一〇年近く特に理由もなくすぐそばにいた彼女が、いなくなるのだという実感が湧かなかったのだ。
それでも次の日、僕の実感なんか置き去りにして、現実は突きつけられる。
僕は演奏が全く手につかなかった。普段ならばあり得ないミスをしては先生やパートリーダーに注意を受けた。受けた注意さえ、僕はどこか上の空だった。
どれだけ探してももう彼女はいなかった。彼女の奏でるアルトサックスの音は、もうどの教室からも聞こえてはこなかった。
僕はようやく理解した。いや理解ならとっくにしていたはずだった。ただその事実を受け容れまいと拒み続けていたんだ。
彼女はこの学校から、この町から、そして僕の日常から、去っていくのだ。
僕はその日、家に帰ってからお風呂場で少しだけ泣いた。
◇◇◇
「……なあ、岡本よ、本当にいいのか? 明日なんだろ? 出発」
「あー、うん」
僕は楽譜に顧問の先生の指示を書き込みながら生返事をする。年明け早々の合奏で、まるで身が入っていないと怒られた。たった五日間の正月休み、僕は楽器に触れることもなくこたつで餅を食べていただけだったので当然と言えば当然だった。
「あー、うんじゃなくてさ。送別会も来なかったし。何があったか知らねえけどさ、もう会えなくなるかもしんねえじゃん? 後悔しないのか?」
そういらぬ世話を焼くのは同じトランペットで、部内唯一の男子の沢田。彼は地味で冴えないメガネの僕と違って、着崩した制服が派手な印象の、いわゆる〝陽キャ〟。部の外にも友達は多かったし、確か秋の文化祭では芸人コンテストだか何だかで入選していた。
吹奏楽部というのは良くも悪くも女子社会で、数少ない男子は男子であるという一点を理由に肩を寄せ合う。だから部活という接点がなければ一生関わることがなかったであろう僕に、沢田はよく話しかけてくる。
「んー、どうだろう。後悔するかもしれないし、しないかもしれない。どっちになっても、もうどうでもいいんだよ」
「はぁ……」
何故お前が溜息を吐くんだ。言わないで思うだけ。僕は眉をひっそりと寄せた。
「明日の八時の電車だと。部活前に女子たちが見送りに行くって言ってた」
「そうなんだ」
僕はまたどうでもよさそうに生返事をして、トランペットを胸の前に構えた。
彼女はもういない。
これはどうしようもない現実なんだと、言い聞かせるように。
まだ心の隅に残る何かをすり潰していくように。
僕は乱暴に、トランペットを鳴らす。
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