この気持ちの名前を僕は知らない(後篇)

 けたたましく鳴った目覚ましの音に叩かれるように、僕は目を覚ます。

 時刻は七時。いつも通りの朝だ。

 僕は顔を洗って着替えを済ませ、一階のリビングに下りる。まだ冬休みなので父は寝ているが、母は僕の部活のために既に起きて朝食と弁当を用意してくれている。


「どうしたの、このイチゴ」


 僕は大きなイチゴを頬張りながら、母に訊ねる。


「ああ、そうそう。昨日の夕方にね、伊藤さんが来てね。引っ越しのご挨拶にってくれたのよ」

「へぇ」


 伊藤、というのはもちろん彼女の苗字のことだ。幼稚園からの付き合いで、家もまあそんなに離れていない僕らは親同士の仲もいい。


「あ、そうだ。忘れてたわ」


 母はぽんと柏手を打ち、紙袋をごそごそと漁る。


「これあんたにって受け取ってたんだったわ。はい」

「んー」


 僕はイチゴに続いてトーストを齧りながら、母が差し出した紙片を受け取る。それはつつましい花柄の封筒で、中には一枚の手紙が収められている。


「読んでもらえないかもしれないけど――って言ってたけど、あんたたち何、喧嘩でもしたの?」


 渡すよう頼まれた手紙を渡し忘れるくらいに普段は抜けている母だったが、こういう勘だけは妙に鋭い。そう言えば、小学生のときに上級生にいじめられて帰ってきた僕の様子を見ていち早く何が起きたのかを察してくれたのも母だった。

 などと思いながら、僕は中の手紙を取り出して流し読む。咥えたままだったトーストが、僕の口からぼとりと落ちる。


『あの日からずっと、話せないままになっちゃったね……。

 本当はもっと、最後まで色々話したりしたかったんだけど、こんな感じになっちゃってごめんね。

 君とは幼稚園の、ひまわり組からの付き合いだったね。……あれ、ばら組だっけ? 忘れちゃった(笑)

 でもね、君と出会ったときのことはちゃんと覚えてるんだ。男の子におもちゃを取られちゃって泣いてる私をなぐさめて、君はおもちゃ取り返しにいってくれたよね。でも返り討ちにあっちゃって。二人でわんわん泣いた(笑)

 おもちゃ取られちゃったのは悲しかったけど、君が一緒にいてくれたから嬉しかったなぁ』


 まとまりのない文章の羅列。でもそれは僕と彼女が一緒に過ごしてきた時間を丁寧に、思い起こさせていく。

 幼稚園での出逢い。小学二年の遠足。日が暮れるまで、傷だらけになりながら練習した自転車。夏休みに互いの家族と行った大阪旅行。修学旅行で言ったディズニーランドで、耳のカチューシャをつけられた僕が本気で拗ねた話――。


『あ、一つだけね、今でもちょっと後悔してることがあるんだ。

 私、中学生になったときすぐ吹部に入るって決めたんだけど、一人だとちょっと心細くて、君も無理矢理に入部させちゃったこと。

 君は優しいから、一緒に入ってくれたけど、本当は他にやりたいこととかあったんじゃないかなって。

 だって吹部、めっちゃ練習きびしいし、休みないし、先生こわいし(笑)

 だから仮入部のとき、君のこと強引に連れてきちゃって、よかったのかなって。

 あ、でもね、君のトランペットはすごい好き。それにすごいなって思うよ。最初は全然吹けなかったのに、誰よりもたくさん練習してたから。

 私知ってるんだよ? 休みの日もよく河原で練習してたでしょ(笑) こっそり聞いてました。

 ま、そんな感じでね、ちょっと後悔もあるんだけど、ざっくり二年間、君と部活できて楽しかったなって言うのが一番思ってること。

 だから、こんな感じのお別れになっちゃったのがすごく寂しいんだけど、きっとまた会えるよね?

 てか、私ちゃんと遊びに帰ってくるからね? そしたら、そのときはちゃんと温かく出迎えてね(笑)

 だからさよならは言わないよ! またいつか、会うとき、楽しみにしてるね!』


 滲んでぼけた文字を読み終えて、僕は唇を噛む。

 不甲斐ない。

 僕はただ意地を張っていただけだ。見栄を張っていただけだ。彼女がいなくなるという事実から目を背けて、情けない自分を見ないふりをしていた。

 彼女がいなくなった毎日を、これからどうやって過ごしていけばいいのか、僕には分からなかったから逃げていたんだ。

 でも彼女は、こんな僕にも真っ直ぐに、思いを伝えようとしてくれている。

 彼女がこの手紙を、一体どんな気持ちで書いたのか。それすら想像できないほど僕らの関係は浅くはない。


「母さん、今何時?」


 僕は立ち上がる。手紙は元に畳んで制服のポケットへと突っ込んだ。


「え、今? 七時四七分だけど――」


 駅まではだいたい徒歩三〇分。だけど走ればまだ間に合うかもしれない。

 間に合うかどうか――。そんなことで迷っている時間はなかった。


「母さん、僕行ってくる」

「行ってくるって、あんた部活は?」

「大丈夫、それは」


 僕は家を飛び出す。走り出してすぐ、僕の心臓は、手足は悲鳴を上げる。だけど止まらない。速度も緩めない。動け。走れ。走れ!

 ろくに運動なんてしたことはないし、体育の成績はいつだって下から数えたほうが早い。マラソン大会は最後まで走れたことなんてない。

 それでも今だけは、絶対に足を止めちゃいけない。不恰好でも構わない。

 僕には、まだ君に、言えてないことがあるんだ――。


   ◇◇◇


 僕は駅のホームに着くや、転がるように倒れ込む。荒い呼吸を抑えつけて確認した時計が指す時刻は八時一一分。

 もうそこに、彼女はおろか、見送りに来ていたはずの女子たちの姿もなかった。


「……はぁっ……はぁっ……畜生っ……畜生っ!」


 僕は人目もはばからず嗚咽して泣く。もうこのまま地面に沈み込んで消えたい気分だった。

 遠くのほうで、誰かが僕を呼んでいた。

 がらにもなく全力疾走なんかしたりしたから、幻聴が聴こえているのかもしれない。あるいは頑張りすぎたせいでもう死んでしまったんだろうか。


「――おい、――――あうぞ!」


 うるさいな。僕は間に合わなかった。彼女に何も伝えることはできなかったんだ。


「――おい、馬鹿! まだ間に合うぞ!」


 僕は思い切り胸座を掴まれて、引き起こされた。見開いた視界に、真冬なのに僕と同じく汗だくの沢田の顔が映っていた。


「まだ間に合う! 行けるな?」

「間に合うって、そんなわけ」

「俺に任せろ!」


 沢田は僕を強引に引き起こし、そのまま腕を掴んで駅の外へと連れ出す。疲れ切った僕はよろめくように、沢田にされるがまま後に続く。

 駅前には一台の自転車。籠にはトランペットのケースが突っ込んであったから、それが沢田の自転車だとすぐに分かる。


「この路線は隣りの町を迂回する。最短距離で丘を突っ切れば、まだ間に合う!」


 何を言ってるんだ、この男は。一〇分も前に出た電車に、どうやったら追いつけるって言うんだ。


「俺に任せろ! まだ言えてねえんだろ! 乗れ!」


 沢田が自転車に跨って叫ぶ。僕はその気迫に気圧されて、沢田の背中にしがみつく。


「ちゃんと掴まってろよ。俺が絶対に間に合わせてやる!」

「おわっ」


 サドルから腰を浮かせた沢田が力強くペダルを踏む。ほんの少しだけふらついた自転車はみるみるうちに加速し、あっという間に町を抜ける。

 途中、路地から飛び出してきた車にクラクションを鳴らされた。しかし沢田はペダルを踏む足を決して緩めない。他でもない僕のために、ひたすらに前だけを見据えていた。

 町を抜ければすぐに舗装された林道に入る。急勾配が立ちはだかろうとも、沢田はひたすらにペダルを踏み続ける。しかし二つ目の坂道を登り切る手前、緩やかに沢田の足が力を失い、やがて完全に止まった。


「駄目だ。このままじゃ……間に合わねえっ!」


 滴る汗が地面を濡らし、腰を折った沢田の額がどすんとハンドルの間にぶつかる。

 間に合うはずがない。先に発車した電車に自転車で追いつくなんてこと、どだい無理な話だったのだ。それでも沢田は僕のために懸命に自転車を漕いでくれた。それだけで十分だ。


「仕方ないよ。僕がいけなかったんだ。沢田はよくやってくれたよ。本当にありが――」

「まだだ!」


 沢田の荒げた声が僕の言葉を遮った。やはり沢田は前だけを見ていた。彼だけがまだ、僕と彼女のことを諦めていなかった。

 沢田はコートを脱ぎ、マフラーを外し、制服のジャケットまでくしゃくしゃにして自転車の籠に突っ込む。代わりにトランペットのケースを僕に渡す。


「ちゃんと持っててくれよ。多少無茶するから」

「え、どういう――――」


 僕の言葉を待たず、沢田が再びペダルを踏む。僅かに前進し、すぐにハンドルを切られた自転車は悪路極まりない林のなかへと飛び込んだ。


「え、わっ、さ、沢田っ!」

「駅には出れねえけど、なんとか間に合うはずだ! いや……間に合わせるっ!」

「ど、どうして、あわっ、そ、そこまでしてくれる、んだ……っ」

「決まってんだろ……青春は、たった一瞬、今だけなんだよっ!」


 恥ずかしさに歯の根が浮くようなセリフを、沢田は張り上げた声で響かせる。普段なら辟易とするような青臭さも、今この瞬間だけは頼もしく思えた。


「きたきたきたぁっ! 見えたっ!」


 やがて聞こえた沢田の雄叫びとともに、自転車が坂を下る。二人はみるみるうちに加速し、もはや生身で制御できる速度を越える。


「おわああああああああああああああっ!」

「あわわわああああああああああああっ!」


 ほとんど悲鳴を上げる二人。次の瞬間、無情にも、地面から盛り上がった木の根が猛スピードで下ってくる自転車の前輪を勢いよく弾いた。


「え、死ぬ――」


 僕と沢田、そして自転車は見事に空中分解。視界が上下左右を目まぐるしく駆け巡った。そして僕らは乗り切った速度のまま林を飛び出し、草むらへと叩きつけられる。


「…………いてて……」


 僕は奇跡的にずれただけの眼鏡を直す。見上げた冬の空はペンキで塗ったみたいに青かった。


「生きてるか……」


 沢田の声が聞こえた。僕は草の上に寝転んだまま応じる。


「うん。なんとか」

「……立てよ。もうすぐ来んぞ」


 腕を掴まれて強引に身体を起こされた僕は沢田の視線の先を追う。トンネルからガタゴトと音を蹴立てながら、三両ばかりの電車が現れた。

 だが続くのは線路ばかり。駅のホームがない以上、電車は僕らの目の前をただ通り過ぎていくだけにすぎない。仮に奇跡が起きて車窓を覗いていた彼女が僕らを見つけたとして、僕が彼女に言葉を掛けられる余地はない。


「諦めんな。お前だから、届けられるがあるだろ」


 沢田は草むらに放り出されたケースを拾い上げ、中から取り出したトランペットを僕へと突き出した。


「……行ってこい。ちゃんと、送り出してこい」


 溢れ出す感情の奔流が、僕の身体を突き動かした。

 僕はトランペットを抱え、線路に向かって走る。もうどこにも力なんて残っていなかったけれど、僕は無我夢中で深く息を吸いこんだ。

 冬の空に、別れの音が響き渡る。

 届くかな。届くといいな。

 本当は、もっとたくさん君に伝えたいことがあったんだ。

 不恰好でごめん。言葉足らずでごめん。あんな酷いこと、言ってごめん。

 電車が僕の前を通り過ぎていく。刹那、車窓から身を乗り出した、彼女と視線が交錯する。

 泣いていた。

 そこに、あの日からずっと懸命に装っていた笑顔はもうない。

 彼女はひたすらに、涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

 ほんの一瞬。だけどその一瞬は、僕の瞼に永遠に焼き付いていて。

 僕は電車が見えなくなっても、ずっとトランペットを吹き続けた。

 青い空の下、響き渡るこの音が遠く離れた僕らの心を、またきっと繋いでくれることを期待して。

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