部屋にて
「おっかえりーっ!」
ドアを開けるや俺の胸に飛び込んでくる
「ただいま」
俺が言うと、彼女はふと離れ、華奢な身体をわざとらしくくねらせる。
「えーっと、ご飯にする? お風呂にする? それとも……ア・タ・」
「ご飯」
即答すると同時、鋭い蹴りが膝に飛んできた。
「痛っ! ちょっと何すんの」
「そこはどう考えたってお前にするよってイケボで言うとこだろうが!」
「えぇ、どんなテンションだよ……」
「ったく、ノリ悪男め」
凪咲は頬を膨らめて、くるりと踵を返してリビングへ戻っていく。僕は靴を脱いで凪咲の後を追いかける。
リビングに入れば、5カ月前、2人でああでもない、こうでもないと悩みに悩んで選んだテーブルには鼻孔をくすぐって空腹を刺激するカレーライスと、柔らかな湯気を立たせるコーンスープが並んでいるのが目に入る。
「お、すげー美味そう」
「手洗っておいで。早く食べよ」
凪咲に促され、俺は洗面所へ。手を洗いながら、ささやかで、だけど大きくて尊いこの幸せを噛み締める。
俺と凪咲は学生のときからの付き合い。不況下での就職難に喘ぐなか、なんとか働き口を見つけて、立派かどうかはさておき、今では一介のサラリーマンとOLだ。仕事にもようやく慣れ始めたころ、俺たちは一緒に暮らし始めた。
とは言え、俺と彼女の安月給で広い部屋を借りられるわけもなく、2人で暮らすこの部屋はどこか手狭だ。だけどその窮屈さが、距離感が、心地よい。
たくさんの愛情と思い出を抱えていけるように、色々なものを置いてきた。だから今の俺にはこれくらいがちょうどいい。
追い駆けた夢がなかったわけではない。それでも、今、こうして2人で暮らすこの時間がかつて抱いた夢に背を向けることを求めたとしても、かけがえのないものだと感じられる。
きっとこれが、大人になるということなのだ。
◇◇◇
夕食を終えたリビングには、賑やかなテレビの音と楽しげな彼女の笑い声がこぼれる。俺は食器を洗いながら、平凡で穏やかな日常を愛でている。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ、なにそれ、ひー」
俺には彼女が観ているバラエティー番組の、何がそんなに面白いのかは分からない。でも笑っている彼女を見ているのは、俺が最も幸せを感じられる瞬間だ。
俺は満足がいくまで皿をぴかぴかにし、最後にシンクまで磨く。別に綺麗好きという性分ではないが、2人で暮らし始めてからなんとなく続いている日課だ。
「それ、そんなに面白い?」
「めちゃ面白いやんけ~。ほら、こっち来て観てみ?」
ゲストの関西弁を真似て凪咲が言う。彼女の笑顔を観ていると、確かに面白い気がしてくるから不思議だ。
「んー」
俺は返事をしつつも換気扇を回す。ポケットから取り出した煙草にライターで火を点ける。
憧れだったロックバンドのギタリストに感化されて吸い出した煙草。銘柄まで無理に真似て、咽ながら吸い始めたそれももうすっかり2本の指の間で馴染んでいる。
吐き出した紫煙は穏やかに流れる時間に合わせてゆらゆらと立ち昇り、やがてこれまたこの前の休みに掃除したばかりの換気扇に吸い込まれていった。
「あー、そうそう。言おうと思ってたんだ」
「何を?」
「それ」
ソファの上でクッションを抱えながら、凪咲が俺を指差す。
「どれ?」
「そーれ! たばこ!」
俺はみるみる短くなっていく煙草と凪咲を交互に見やる。
「いやぁさ、してみたらどうかなって。禁煙」
「どうしたの、いきなり」
「別に臭いとかはいいんだけどね。これから2人のために貯金とかもしたいし、たとえば、そのさ、まだ全然先だけど、子供とか考えたらさ、うん……」
柄にもなく、耳を赤くしながら言った彼女が愛おしくて。
そんな照れ臭さに、俺は思わず噴き出してしまう。
「あ、なんで笑う!」
抱いていたクッションに顔を埋めながら、彼女が不服を唱える。
「だってさ、凪咲ってあんまり未来の話しないから。なんか嬉しくってさ」
「むむぅー」
眉間にしわを寄せる凪咲を横目に、俺は蛇口をひねる。控えめに流れ出した水に、煙草を突っ込んで火を消した。
「そうしよう。今の一本で終わり」
「え、ほんと?」
「ほんとだよ」
続いてポケットから今朝買ったばかりの煙草とライターを取り出し、ぽいとゴミ袋に突っ込んだ。
もう憧れは必要なかった。
当たり前に語れる幸せが。凪咲と手を繋いで歩く未来が。
これからの俺にはかけがえのないものだった。
◇◇◇
「ただいま」
俺はそう言ってすぐに後悔する。1年という時間で身体に染みついた癖は、そう簡単には抜けてはくれない。
誰もいない暗い部屋に俺の掠れた声がたゆたって、響くことなく虚しく消えた。
疲れた身体を引き摺るようにリビングへ。洋服も日用品も、全てが半分以下になったこの部屋はぽっかりと穴が空いたように広く感じられる。
――これから先、一緒にいる想像ができないよ。
そう言って、凪咲は俺の元から去っていった。
原因はすれ違い。
俺も凪咲も仕事で忙しく、生活がすれ違うほどに気持ちもまたすれ違っていった。ほんの些細な綻びは、僅かに狂った歯車は、決して元に戻せることはなく、学生時代から続いていた俺と凪咲の3年半に及ぶ恋は終わった。
何が決定打だったのかは分からない。
喧嘩をしたまま出張に出た俺が3日ぶりに家に帰ると、そこにもう凪咲の姿はなかった。今日日見ることのない置手紙なんかを残して、凪咲は俺に一方的な別れを告げて出て行ったのだ。
もちろんそんなことで引き下がることはできなかった。追い駆けた。だがもう何もかもが手遅れだった。凪咲の気持ちが戻ることはなかった。
平凡でありふれた幸せは、どこまでも平凡でありふれた終わりを迎えた。
残ったのは虚無だけ。
ぽかりと空いた大きな穴が、今の俺の全てだった。
俺はネクタイを緩め、脱いだジャケットを床に放り、ソファに身体を沈める。視線の先のテーブルでは、昨晩飲んでそのままのビールの空き缶と、食べかけのまま放置されている菓子パンが転がっている。
俺はしばらく休んでから重たい腰を上げる。息の詰まるような静寂に耐えられず、埃のかぶったリモコンを手に取ってテレビを点ける。流れるのはいつか観たようなバラエティー番組で、一体いつ観たのか考えようとして止めた。
元々きれい好きというわけではない俺の生活は、ほんの少し油断をすればこうなる。キッチンのシンクに至ってはテーブルの状況など比にならない。
何日分か数えることすらできなくなった汚れた食器を洗い、カップ麺の空容器を積み重ねる。
水の流れる音と賑やかなテレビから聞こえる声。決定的に何かが足りないその部屋で、俺は虚無を埋めるように流行りのポップソングを口ずさむ。
全てを洗い終えるころにはバラエティー番組は終わり、暗い世相を垂れ流すニュースになっていた。
俺は空容器やらをゴミ袋へと押し込む。ぱんぱんに膨れたビニール袋を器用に縛り、ふと冷蔵庫と壁の隙間に落ちるものを見止める。器用に手を突っ込んで取り出せば、それはいつだったか捨てたはずの煙草――。
俺は埃に塗れたそれを取り出す。ほとんどは折れていたけれど、一本だけまともなのが残っていた。ライターはないのでコンロで火を点ける。紫煙の燻る煙草を咥え、深く息を吸いこんで。
「……ごほっ、ごほっ」
久しぶりの煙草に、俺は咽返る。よく知った銘柄のはずが、葉が乾き切っているせいか記憶よりもずっと、辛くて苦い。
それはもう、思わず涙が出るほどに。
遠くて青い昔に置いてきてしまった憧れは、この深くて暗い虚無を埋めてはくれなかった。
俺は換気扇を回し、そのまま崩れ落ちるようにしてキッチンに座り込む。
燻る紫煙が埃のように、俺の頭上をたゆたっている。
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