Crocus
僕はその日、偶然に見かけた。
予備校の帰り道。いつもよりほんの少しだけ講義が長引いて、電車三本分だけ遅い帰り道。いつもならば帰りの電車で眠気を堪えている時間。僕は足早に駅前の広場を横切っていく。
母親のメッセージに返信をして、改札へと向かうために高架を渡る。そんな僕の耳朶を打つ、凛とした歌声。切に響く旋律。
僕は思わず足を止め、響くメロディーを探した。
見つけたのは広場の片隅で奏でられた、どこにでもあるような、ありふれた路上ライブ。足を止める人はなく、皆忙しなく前を通り過ぎていく。時折、僕みたいに振り返る誰かがいて、でもやっぱり間を置かずに過ぎ去っていく。
それでも。
誰の目にも留まらなくても。
彼女は歌っていた。
華奢な身体に抱えられたアコースティックギター。弦を抑える指も、弾く指もまだどこかぎこちなくて。
それでも目だけは前だけを、不確かな未来だけを真っ直ぐに見据えて。
偶然、だった。
同じクラスの女の子。
高嶺の花なんて呼ばれている、少し近寄りがたい女の子。
話したことはなかった。話しかけたことも、話しかけられたこともなかった。
地味で冴えない僕なんかとは、住む世界が、見ている景色が違うのだと、今の今まで思ってた。
だけど彼女は確かにそこに立っていて、同じ晩秋の夜のなかで歌っている。
彼女は歌う。
理想と現実の狭間で苦しむ、等身大の心を。
変われるなんて無責任で、頑張れなんて残酷で。
変わらなくてもいい。頑張れなくてもいい。
そんな風に思える、ほんの少しわがままな自分を、愛したかったと。
僕に音楽は分からない。
楽譜なんて読めないし、楽器なんて触ったこともない。
でもそんな僕でもこれだけは分かる。
彼女の歌は、音楽は、すごかった。
何がすごいのかと聞かれれば、僕にはきっと答えることができない。
でもじんじんと震える僕の掌が、胸の奥が何よりの証拠だと思った。
やがて曲が終わり、彼女は腰を90度に折って礼をする。
拍手はない。喝采もない。
だけどそこは、紛れもない彼女のステージで。彼女の時間だった。
彼女が帰り支度を始める。アコースティックギターを収めたケースを大切そうに背負い、ステージから去っていく。
僕はただ、僕を震わせた彼女の歌の余韻にしがみつくように、その場に立ち尽くした。
◇◇◇
「昨日の放送チェックしたっすか? いやー、痺れる展開だったっすよ。まさかあそこで――」
「ネタバレ禁止! 禁止ったら禁止! 今日帰ったらチェックするんだからネタバレ禁止!」
「ぐぬぬ……誰かと語らいたいっす。田中君は観たっすか? って田中君?」
僕は目の前で手を振られ、ハッとする。
昨日はよく寝られなかったせいか、今日は朝からボーっとしてしまう。もちろん数少ない友人である、彼らの会話も全然頭に入ってきていない。
「……ごめん。ぼんやりしてた」
「大丈夫? ちょっと今日の田中君、いつもと違う感じっす」
「予備校が大変なんだろ。一年のときから通ってるもんなぁ。そんなのうちの高校じゃ田中君くらいのもんだろうに」
昨晩のアニメの話から、1年後に迫ってきている受験の話へ。だけど僕の意識は、登校してきた一人のクラスメイトに奪われる。
颯爽と歩く彼女。何事にも囚われず、ただ我が道を進むような、凛とした足取りの彼女。昨日の夜、駅前でアコースティックギターを抱えていた彼女――。
「また田中君がボーっとしてるっす」
「だいぶお疲れ…………って、どうした、〝高嶺〟さんなんか眺めて」
「ふぇっ? み、み、みみみ見てないよっ。全然見てない。うわー、今気づいた~。〝高嶺〟さん登校してきたんだ、へぇ~」
慌てふためいて、何故か背筋を伸ばして一人で笑う僕に、彼らは怪訝な眼差しを向ける。
「慌てすぎて怪しいっすな」
「もしかして恋か?」
「な、そ、そそそそ、そんなわけっ」
僕は壊れた人形みたいに首をぶんぶん横に振る。幸い、窓側の前の方にいる僕らと廊下側の彼女には距離がある。そして間では賑やかなクラスメイトたちが楽しそうに談笑しているのもあって、僕らの会話が彼女の耳に届くことはない。
「やめとけ、やめとけ。なんたって〝高嶺〟さんだ」
「それなぁ。僕らみたいなオタクとは、住む世界が違うっすよ」
高嶺の花の〝高嶺〟さん。もちろん本名ではない。その決して彼女本人に向けられることのない渾名は、僕らみたいな地味な生徒にとって彼女が別次元の遠い存在であるという自虐と皮肉が込められている。
分かっているつもりだ。
彼女と僕の、生きる世界が違うことくらい。
僕は地味で、内気で、取り柄と言えば人よりほんの少しだけ、勉強ができるくらい。きれいで、華やかで、学校中の憧れである彼女とは月とスッポンほどの差がある。
でもそう思うことは、高嶺の花だと決めつけることは、彼女に孤独を押し付けることになってはいないだろうか。他人を上に見すぎることもまた、見下すのと同様に人を貶め拒絶することにはならないのだろうか。
昨日の夜。人もまばらな駅前で。誰が聞いてくれるでもない歌を、音楽を、必死に奏でていた彼女は、きっと――。
「同じ、だよ」
「あ? なんか言ったっすか、田中君」
耳にこびりついた歌声が。
脳裡に刻まれた音楽が。
瞼に焼き付いた、彼女の姿が。
紛れもなく等身大の、ひたむきに生きる彼女が。
僕の目の前から、消えてくれやしないんだ。
でも僕は、気心知れた友達にさえ、そうではないと言えなくて。
「……ううん、なんでもないよ」
僕は曖昧に笑みを浮かべて、顔を背ける。
◇◇◇
「んじゃ、あとは片付けよろしくな~」
ぞろぞろと引き上げていくクラスメイトたちの背中を見送り、僕は開いたまま固まった自分の掌に視線を落とす。それから小さく溜息を吐き、体育館に転がるバスケットボールを順繰りに見やった。
僕は昔から勝負事に弱い。覚えている限り、勝負と名のつくもので勝った試しがなかった。それは体育の授業の片づけを巡るじゃんけんでも同じだ。
付け加えれば、ボールの後片付けは敗戦したチームの仕事なので、僕はバスケットボールとじゃんけんの二重の敗北をしたことになる。
もちろん片付けを押し付けられたとかではない。じゃんけんで片付ける誰かを決めたことは、むしろ合理的な判断として受け入れている。見る限りコートに三つしか転がっていないボールを、敗戦チーム五人で片付けるのは考えるまでもなく無意味だ。
だから僕がボールを片付ける羽目になったのは、偏にじゃんけんに弱かったからに他ならない。
学校生活における僕の人間関係は、間違いなく地味で冴えないものだとしても、いたって良好だ。
コートに転がるボールを拾いに向かう。僕は手に取ったボールを突いてみたりする。気まぐれでボール籠に向けてシュートしてみれば、ボールはかすりもせずに体育館の床を叩く。
なに、不思議がることはない。
僕はバスケットボールが、というよりスポーツ全般が、不得意なんだ。
とは言え、身体を動かすことが嫌いなわけでもない。
僕はちらと時計を確認する。次の授業まではまだ時間があるので、もう少しこのくだらない一人遊びに興じていても問題ない。
別のボールを拾い、少し近づいてからまたボールを放る。今度は籠の縁に当たったボールが大きく跳ね、籠の中へ。しかし中のボールで大きくバウンドしたボールは籠の外へと弾かれていく。
「ぬあーっ!」
誰もいないのをいいことに僕は声を上げて天井を仰ぐ。
「わかったぞ。角度だな、角度。諦めたらそこで試合終了だ!」
僕が弾かれて転がったボールを目で追えば、ちょうど入り口の手前でそのボールが華奢な腕に拾い上げられる。その彼女に、僕は間抜けな声を出して目を見開く。
「え」
時が止まったように固まる僕をよそに、あの夜に見たギターの彼女がボールを差し出す。
「はい、これ……」
「あ……」
「ボール、片付けてたよね?」
「え、あ、う、えと……」
全く予測していなかった鉢合わせと、遊んでいたのを見られたかもしれない恥ずかしさと、そしてそれがあの〝高嶺〟さんだという事実に、僕の頭は真っ白になった。
彼女はボールを持ったまま籠の元へと歩き、そっとボールを仕舞う。
「なんで……」
「なんで?」
僕の意図に反して口を突いた言葉に、彼女は首を傾げる。
「ああ。忘れ物したから。ボールの片付けは、なんだろう、この感じで手伝わないのも、なんか変かなと思って」
「あ、ありがとう……」
僕はなんとかお礼を言えたことに安堵しつつ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。広い体育館に彼女と二人きりという、奇妙な状況に僕の心臓は早鐘を打っては胸骨を軋ませた。
「早く片付けちゃおうよ」
「あ、う、はい」
僕はふらふらと駆け出してボールを抱える。ボールはあっという間に籠に集まり、僕と彼女は倉庫に向かって並びながら籠を押していく。彼女は僕よりも少しだけ背が高い。彼女が女子にしては背が高く、僕が男子にしては背が小さいのだ。おまけに横にいる彼女からは、柔軟剤のいい匂いがした。
――なんて考えていることがバレたらとんでもないので、僕はちらと彼女を見やる。彼女は僕なんて歯牙にもかけずに前を向いている。
視線を感じたのか、不意に僕を見た彼女と目が合う。距離が近いぶん、黙っているのも余計に気まずくて、僕は必死に話題を探す。
「あ、あの、さっき、その……どのへん、から、見てました?」
思わず敬語になってしまった。いや、クラスメイトだからと言って気安く話していいわけではない。まして〝高嶺〟さんとなれば。
そんな僕の葛藤に気づく素振りもなく、彼女は僕の振った話題に応えてくれる。
「ぬあーっ、から?」
「あぁ……ほぼ最初からですね」
恥ずかしさで死ねる。僕は魂ごと吐き出すような深い溜息を吐いた。
「君さ、いじめられてるの?」
「え、そ、そんなことないですけど、なんで?」
「一人で片付け、してたから」
「ああ。これは別にいじめとかじゃないです」
「じゃあ、一人で特訓?」
「それ羞恥心で死にたくなるんで止めてください……」
「ごめんごめん」
言って彼女はくすりと笑う。知る限り、僕はその瞬間、笑う彼女を初めて見た。
ほらやっぱり。彼女も同じだ。
僕とは見る景色が違っても、彼女も僕と同じ17歳の高校生だ。
だから、たぶん、きっと。僕は彼女に伝えなきゃいけないことがある。
僕らは倉庫にボールの籠を仕舞って片付けを終える。彼女は体育館の隅に落ちていたタオルを拾い上げて首に掛ける。どうやら忘れ物はタオルだったらしい。
彼女は出入り口に向かって歩いていく。僕はその背中を、無我夢中で呼び止めた。
「……どうしたの」
急に大きな声を出したせいか、彼女は少し驚いた様子で僕を振り返る。僕自身、あんなに大きな声が出るとは思っていなくて、焦りに全身から汗が噴き出した。
「あ、あの」
声が震えた。だけどもう、引き返すべきじゃない。
「……この前、駅の広場で、見ました」
「え……」
彼女がさらに驚く。もしかしたら盗み見られるように思って、不快かもしれない。でも僕は、僕自身のために、何よりあの日の彼女がそれを望むと思うから、伝えなきゃならない。
「歌……。僕、音楽はよく分かんないんですけど、すごく、感動しました」
今度は彼女のほうが固まっていた。やがて耳がほのかに赤らんで、彼女は顔を隠すようにその場に蹲った。
「あ、ご、ごめんなさい。やっぱり僕なんかに聞かれてもって感じですよね。あぁ、それに、感動したなんて、そんな安っぽい感想じゃあれですよね。もっとビートとか、メロディーとか……」
「届いて、たんだ」
慌てふためく僕の声を、ぼそと呟かれた彼女の言葉が一瞬で掻き消した。
「……え。いま、何て」
「……誰にも、届いてないと思ってた。私程度の素人じゃ、だめだったなって」
ほんの少し上げられた彼女の顔、曇りのない綺麗な瞳に薄っすらと光るものがある。慰めは無粋だった。同情も無粋だった。僕は小さく丸まった彼女に、言い知れぬ尊さを感じて余計な、あらゆる言葉を呑む。
「よかったぁ。私の歌、ちゃんと届いてた」
彼女はきっと不安だったのだ。どうしようもない現実と焦がれる理想の間で苦しんでいた。幾度となく自分を嫌い、世界を呪って、それでもどこかへ――前へ進みたくて。
彼女のどんな経験が、あの切に響くメロディーを、心の底に積もっていくような歌詞を、生み出したのかなんて僕には知る由もない。
確かなのは、彼女は高嶺の花なんかじゃなくて、僕らと何も変わらない、10代という短くて儚くて、だからこそかけがえのない今を生きる女の子だってこと。
だから僕は声の震えを押し殺し、彼女に一歩近づく。なるべく大股で。
そして蹲る彼女に、こう言った。
「ちゃんと届いてた。君の歌は、届いてた」
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