なりたい私、なれない私
昇降口で上履きに履き替える私の耳に届く、夏の茹だるような熱気に混じった静かなざわめき。私は取り合うこともせず、自分の下駄箱にローファーを突っ込んで教室へと上がる。
「ね、あの子、雑誌に載ってた子」
「確かにきれい~。てかスタイル良すぎ」
「女子から見てもかっこいいよねぇ」
「高嶺の花って感じ」
「あ、先輩だ」
「ちょっと話しかけてみなよ」
「無理だよ~。緊張で死んじゃうって」
死なないよ別に、と内心思いながら聴いていた音楽の音量を上げて教室へ。さすがに教室に入ればクラスメイトたちが声を掛けてくる。音楽を止めてイヤホンを外して応じる。だけど話題はやっぱりたまたま載ったファッション誌のスナップ記事について。
「見たよ~。めっちゃおっきく載ってたね」
「普段は制服だと分かんないもんだよね。あのトップス、可愛かった~」
「他のモデルなんかより、全然きれいだったよね」
「羨ましいなぁ」
向けられる羨望。あるいは賛辞。
でもたまたま撮られたスナップなんて、誰に誇ることでもない。
「ほんとたまたまだよ。声かけられて十秒くらいで写真撮られただけだから。あんな大きく載るなんて、私も思ってなかったし」
みんながあんまりに褒めるから、私は恥ずかしくなって苦笑する。
「むしろたまたまであんなに大きく載ったのがすごいよ」
「前もあの雑誌のスナップ載ってたしね~。もう常連じゃん!」
「それもたまたまだって。ほら、私よくライブとか行くから。せっかく東京まで行くなら買い物とかもしておきたいから」
私の住む町は、半分だけ田舎という表現が妙にしっくりくる。都心は遠くないけれど、路線の関係もあって行くのにはちょっとだけ骨が折れる。駅前にはそこそこ大きなデパートもあるし、渋谷や新宿にあるようなオシャレなショップもないわけではない。だけどやっぱり〝本物〟とは少し違って、だからなのか私たちくらいの高校生は、いわゆる〝東京〟への憧れが強かったりする。
中学生に上がるときにこっちに引っ越してきた私には、そういう感じは薄かったし、何ならおばあちゃん家があるくらいだから、都心には案外よく行っていた。だからみんなが抱くそのあたりの感覚と、少しギャップがある。
「ライブって武道館とか?」
「ううん。下北沢とか高円寺の、小さいライブハウスとか」
「へぇー」
「おしゃれだね~」
「はは、ありがとう」
私は彼女らに断って席を立ち、ポーチを片手にクラスを後にする。私がいなければいないで、もう既に彼女たちは別の話題で盛り上がっていた。
高嶺の花というよく分からないポジションを押し付けられた私は、言ってしまえばいてもいなくても変わらない。いてくれたら場は華やいで盛り上がるかもしれないが、ないならないで何も不都合は生じない。そういう人間だった。
そして同じやり取りが繰り返される。遠巻きに眺めて私を高嶺へと持ち上げる人たち。去年クラスが一緒だった人とは軽く挨拶を交わしてすれ違う。そしてすれ違いざま、まるで私に言わなきゃいけない言葉として定められているみたいに「雑誌見たよ」と続く。
やがて5組の前に差し掛かり、私の視線は否応なく一人の男子に釘付けになる。廊下の窓側の壁に寄り掛かっていた彼は、友達と談笑するなか、ふと顔を上げ、私の方向に向いて手を振った。
私は雷に打たれたような速さで、慌てて視線を逸らす。
間を置かず、私のすぐ横を甘い匂いが足早に通り過ぎていく。
「おはよっ」
「おはよー。今日来んの遅かったね」
「前髪がうまく巻けなくてー」
「前髪なんて巻かなくても……可愛いのに」
「えへへーっ」
彼の少し骨張った大きな手が、へらりと笑った彼女の頭を撫でる。時間を掛けて巻いた前髪には触れないように気遣った、そっと優しいその手つきが、彼らしい。
「おいおい朝からお熱いねぇ」
「お似合いだけどほどほどにしろよ~?」
彼の友達が二人を冷やかして、二人は似たような照れ笑いを浮かべながらお互いの顔を見合わせている。
私は逃げるように駆け出して、女子トイレへと飛び込む。
腹の奥底から込み上げる強烈な自己嫌悪が、嵐となって私の心を切り裂いた。
彼が私に手を振るわけなんて、ない。
それなのに、ほんの一瞬でも、あの笑顔が自分に向けられたのだと、思ってしまった自分が醜くて憎かった。
初恋だった。
いや、初恋と呼ぶには淡すぎて、曖昧で。そして私は幼過ぎて。
名前さえも分からない、初めての恋だった。
私は自分の気持ちに気づけなかった。彼があの子と付き合い始めたことを知るまで、彼のことが特別で――つまり、その、〝好き〟なんだってことに気づけなかった。
気づいたときには遅かった。
もう彼の視界に私が入り込む余地なんてなくて。彼の隣りに立つ場所なんてなくて。
いいや、違う。きっとそれだけじゃない。
私は心のどこかで分かっていた。
私じゃダメなんだって。
短く切った髪はふわふわには巻けないし、私が通ったあとには甘い香水も香らない。好きなバンドに憧れて開けたピアスに可愛げはなかったし、花が咲いたような笑顔も、守りたくなるような笑顔だって私にはできない。
変わろうと思ったことがないわけじゃない。
でもそんな嘘の自分を見てもらっても仕方ないと思ったのも事実で。
音楽の趣味が合う彼なら、そのままの私で受け入れてくれるかもしれないなんて、都合のいい妄想を抱いたりして。
私が振り向いてほしかったのは、雑誌のカメラマンじゃなかった。
すごいねと褒めてほしかったのは、クラスメイトじゃなかった。
でもいくらそんなことを叫んでも、もう聞き届けてくれる人はどこにもいなくて。
女子トイレの鏡の前、私は自分に向かって微笑んでみる。
ぎこちなく吊り上がった頬に触れ、赤いリップを塗った唇から魂が抜けるような深い溜息が出る。
「やっぱり、似合わないな……」
なりたい私に、私はなれない。
◇◇◇
私は肩を叩かれて、ハッとする。耳を塞いでいたイヤホンを外して振り返れば、机に身を乗り出した彼がいる。プリントを私に向けて差し出しながら、まだ声変わりしていない少年の、少し高い声で言う。
「次の数学のプリント、もう集めるってさ」
私は机のなかを探し、鞄のなかを漁り、やがてクリアファイルに収められた真新しい白紙のプリントを手に取った。
「……やば。やってくるの忘れた」
絶望を吐き出すように言った私を見て、彼は笑う。
「あちゃー、それはやらかしたね。まぁ俺も忘れたんだけどさ」
「数学の吉田、厳しいから最悪だよ……」
「今日は怒られ仲間だな~、俺ら」
「何それ、変なの」
彼の言い方がおかしくて、私は心の中で少しだけ笑う。彼からプリントを受け取って、そのまま前の席の女子へと回す。そのままイヤホンを耳に戻そうとした私の肩が、もう一度彼に叩かれた。
「ねえ、何聞いてんの?」
「えっと、これ」
私はポケットに入れていたウォークマンを取り出して画面を見せる。彼はパっと明るい笑顔を咲かせた。
「わ! やっぱり! 好きなの?」
「うん。いつも聞いてる」
「俺も好きなんだよ。前にちらっと画面見えちゃってさ、もしかしたらって思ってたんだ」
「でもこのバンドけっこうマニアックって言うか、あんまり好きな人いない、よね……とは言いつつ、私も最近聞き始めたばっかりで」
「そうなんだ。でも、言う通りあんまり周りで聞いてる人いないから嬉しいわ。ロックバンドなのにバイオリンとかヴィオラとかのクラシックなストリングス使ってたり、なんか新しいっていうか、かっこいいんだよな」
「うん、分かる。曲によってはけっこうジャズ寄りのメロディーのもあるし」
「あ、それ『blank』でしょ?」
「そうそう、私はあれが一番好き」
「俺もあれはすごい好き。新しいアルバム聞いた?」
「うん。聞いた――――」
私はいつになく饒舌になって話す。一五分の、だいたい四曲分の、中休みはいつもよりもずっとあっという間で、チャイムが鳴る。
数学の吉田が気怠そうに教室に入って来て、学科係の生徒からプリントを受け取る。私は再び前を向かなければならないことが何だか惜しくて、ほんの少しだけ肩を落とす。
「あ、そうだ。今度さ、インディー時代のミニアルバム貸すよ。明日持ってくる」
そう言って楽しそうに笑う彼に後ろ髪を引かれながら、私は渋々と前を向く。
課題をやり忘れたことなんてもう忘れていた。
それなのにいつもだけ少し憂鬱な、授業が始まっていく。
◇◇◇
それが覚えている限り、初めての会話。
以来、私たちは好きな音楽の話をしたり、CDの貸し借りをするようになった。
朝、教室で目が合えば挨拶をしたし、帰るときにも「また明日ね」なんて言葉を交わしたりもした。
それは私にとって、ささやかだけど大切な、かけがえのない時間だった。
クラスの人気者で、眩しい世界に生きる彼と、教室の片隅で大好きな音楽に浸るだけの私の、たった一つの接点。
きっと本来ならばお互いのことを話すことなんてなく、興味を持つことなんてなく、一年という時間を同じ教室で過ごして終わっていただけの関係。
でもほんの少しだけ、私たちには重なった。音楽が、私たちを重ならせた。
それだけで、世界の全てが華やいだようにさえ思えた。
でもどれだけ鮮やかだった日々も、もう全ては過去のこと。
同じ高校に進学して、クラスが違くてなんとなく距離が出来て、彼の隣りにあの子が現れて、全部が変わった。
誰も悪くなんてない。
今はもう、いくらかそう思える。
いや、思いたいと思える。
彼女は私よりもいくらか自分の気持ちに素直で敏感で。私がのろまだっただけ。
いや比べるのすらおこがましい。
私は自分の気持ちに、気付けてさえいなかったんだから。
土俵の場所さえ分からずに、勝負に負けた気でいるなんてタチが悪いにも程がある。
だから私は前に進む。
なりたかった私を追い抜いて。
「お母さん、じゃあちょっと行ってくる」
私は高校に入って始めたアルバイトで買ったアコギを背負って、スニーカーの紐をぎゅっと縛った。
「え、行くってどこに? もう夜よ?」
「昨日も言ったじゃん。駅前。今日からだから」
お母さんはキッチンからひょこっと顔を出しながら、玄関を見やる。
「そうだったわ。気を付けてね」
「うん。ありがとう。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
私は玄関を開け放ち、金木犀の香る秋の終わりの夜を深く吸い込んだ。
自転車に走らせて風を切る。迷いを、悩みを振り切ってペダルを踏み込む。
向かった駅前の広場は、仕事や学校帰りで行き交う人で忙しない。
「……ここが、今日から私のステージだ」
私は壁際のスペースを見つけて背負っていたギターケースを下ろす。中から取り出したアコースティックギターは、まだ買ってたった一年だけれど、これまでに奏でた音が刻み込まれている。
指の皮が剥けてボロボロになるほど練習したはずの相棒はなぜだか少しだけ、いつもより重くて。
私は自分の手が震えていることに気づく。
私はあの日、自分の気持ちに気づけなかった。
自分で勝手に引いてしまった線で、一番大切だったものを掴み損ねた。
だから私はここに立っている。
なりたかった私となれなかった私。
二人の私の間でもがいた時間を糧にして。
もう震えは止まった。抱えたギターはいつもの感触だ。
大丈夫。
私はちゃんと進んでる。進もうとしている。
今度こそ、なりたい私になるために。
私はゆっくり息を吐く。
そして深く吸い込んで。
誰かに届け、――この思い。
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