静まれよ、心臓
「ねえ~っ、聞いてや! あいつ、他に好きな女が出来たんやってっ!」
「おー、そうかそうか。でもな、
俺は素っ気なく言ってファストフード店のコーラを啜る。机には突っ伏す茉莉と、その彼女がやけになって大量に買ってきたハンバーガーが積んである。
「うちは心が痛い!」
勢いよく起き上がり、そう叫んだ茉莉はハンバーガーの包みを乱暴に剥いでかぶりつく。静かにしろという俺の注意はもちろん無視。獣だってもうちょっと上品に食べるぞ、という感想は謹んで飲み込んでおく。
「なんかへんやなとはおもっへたんやけどね? さいひんめっひゃつめらかったし」
「へー、そうか~って同意してやりたいところだが、何言ってるか分からん。食いながら喋るな」
「ふぬー」
茉莉はハムスターみたいに頬を膨らめてハンバーガーを頬張り、喉に詰まらせたのか苦しそうに胸を叩く。
「ほら言わんこっちゃない。水を飲め、水」
俺は溜息を吐く。不意に伸ばされた茉莉の手が俺の手の中になったコーラを引っ手繰る。
「……って、ちょ、おいそれ俺のコーラ――」
言いながら、俺はついストローを凝視してしまう。茉莉の薄い唇が触れ、吸い上げられるコーラが妙にスローに見える。なんだこれ、気持ち悪いぞ、俺。
「んぅ」
喉に詰まったハンバーガーをコーラで流し込み、一息ついた茉莉が俺にコーラを返してくる。俺は素直にそれを受け取れず、どんな対応が一番自然なのかを考えながら不自然な間を生んだ。
「どしたの?」
「……いや、別に。どうもしない、けど?」
そう、どうもしない。気にしてもいない。間接キスだなんて、思ってもいない。
俺は努めて平静に、茉莉が差し出すコーラを受け取る。もちろんもうそれは飲むことができず、俺はコーラを自分のトレイの端に置く。
「なんか怒っとる?」
「別に怒ってない」
「いや、怒っとるやん? なんで? あ、うちがコーラ飲んだから? えーともだちなんやからええやん~。ちょっとくらい分けてくれたってさぁ」
「だから怒ってねえって」
俺の返答は今度こそはっきりと棘のあるものになる。
何やってんだ。頑張れ、俺。こんなことでいちいち反応してんなよ。
「どこに怒るポイントがあるのかさっぱり。俺は至って元気に平常運転だから」
「ほんまに?」
「ほんまに。もし怒ってんなら帰るから。俺がここに座ってまだポテト齧ってるのがその証拠。んで、お前の愚痴聞くために来たわけなんだけど、どうぞ」
俺は少し早口でそう言って、心に蓋をする。鍵を閉める。出てくるな。出てくるな、この気持ち。
「そうやった! そうそう、それでね、他に好きな女できたとか言い出すんよ!」
「そこまではさっき聞いた」
俺はてきとうに相槌を打ちながら、心を覆う蓋がきちんと閉まっていることを確かめる。
頼むから静まれよ、心臓。
◇◇◇
茉莉と出会ったのは小学3年のとき。
親の仕事の都合で引っ越してきた家の、隣りの家に住んでいた子。
同い年で同じクラス。全く知らない土地で、全く新しい生活を始めなければならなかった人見知りの俺に、そう簡単に友達などできるはずもなく。
東京出身ということもあってか、教室で浮いていた俺にも容赦なく近づき、踏み込んできたのが茉莉だった。
屈託なく笑うその表情は、眩しかった。
思えば、俺はこのとき救われたのだろう。
茉莉が俺を、クラスメイトの輪のなかに連れて行ってくれた。
茉莉が光なら、さしずめ俺は影。バランスを取るように、俺たちはいつも一緒にいるようになっていった。
親同士も馬が合ったのか仲良くなり、家族ぐるみの付き合いが始まった。
俺たちが互いの家を行き来するのはもちろん。
長期連休には一緒に河川公園でバーベキューをしたり。
ちょと足を延ばして、茉莉の家族に連れられて京都観光をしたり。
高学年になってクラスが変わっても、中学に上がっても、俺たちは比較的いつも一緒だった。
友達連中には冷やかされたり、囃し立てられることも多かったが、別に気にしてはいなかった。茉莉も茉莉でからかわれればやり返したりして過ごしていた。
きっとこれからも、俺と茉莉の腐れ縁は続いていく。
当たり前のように。
違うと知ったのは、中2の冬。
部屋でたんまりと出た英語の宿題をやっていた俺の部屋に、部活帰りの茉莉が乗り込んできた。
「おー、茉莉。どうした、乙女がそんなに鼻息荒くして」
「ねえ! 私、彼氏できたんやけど!」
一瞬、世界が凍りついた。気がした。
「………………へぇー。変わった趣味の奴もいるもんだな」
言いながら、俺は想像する。茉莉の隣りを俺じゃない誰かが歩く光景を。
考えたこともなかった。
俺たちが一緒にいるのは子供だから。ただの友達だから。いつか近い未来、俺たちは別々の道を歩いていくときが来るのだという、ごく当たり前のそれを俺は今更痛感した。
そして、俺は俺のなかにあった気持ちに初めて気づいた。
「どうしよう! ねえ、どうしよう! まさか先輩がオッケーしてくれるとは思わんかったぁ! めちゃ嬉しいんやけど!」
赤らんだ頬を抑え、ガラにもなく内ももを擦り合わせて身体をくねらせる茉莉。俺がこれまでに見たことのない茉莉だった。
その表情が、仕草が、茉莉の全てが幸せそうで。
俺は選ぶ。心に蓋をすることを。気づいてしまったそれに、気づいてないふりをする。たとえ辛くても、傷つくことになっても。そうすれば茉莉の近くにいられる。隣りは無理でも、その笑顔を見られる場所に。
「知るかよ。良かったんじゃねえの。おめでと」
「へへへー。ありがと」
照れながら笑う茉莉の目に、きっと俺は映っていないのだろう。
今も、これからも、きっと。
◇◇◇
「――ねえ、聞いとるぅー?」
10個はあったハンバーガーを見事に平らげた茉莉が、俺を覗きこむ。ぼーっとしていた俺はやはりてきとうに頷く。
「ああ、聞いてた。つくづく男運ないよな、お前って」
中2の冬に付き合った先輩は卒業してすぐ、別の女に乗り換えたらしく別れ、
高1で付き合った同級生は4股が発覚し(ちなみに茉莉は3番目だったらしい)、
高1から高2にかけて付き合っていた他校の男は、なにやら万引きで捕まったせいで気まずくなって自然消滅。
もう恋なんてしないと誓って二カ月後、付き合った先輩にはたった二週間でこっぴどく振られ、
高3のたった今、最新の元カレとなった誰かにはやはり別の女が好きだと振られた。
その全ての始まりと終わりを、いの一番に報告されてきたことでほぼリアルタイムで見てきた俺は茉莉の男の見る目のなさをよく知っている。
「そうなんだよー……。なんでやっ? なんでうちはこんなに男運に恵まれんのやろ~」
「まあでもいるよな。ろくでもない男を渡り歩く奴」
「そうなん? もしかしてけっこうあるある?」
「まあ俺が知る限り茉莉だけだな」
「ぐぁっ、あるあるじゃないやんっ! なんでけっこういるよね、みたいなノリだしたん!」
「なんとなく?」
「扱いが雑や……。女の子には優しくしないとモテへんよ?」
「いいんだよ。興味ないから」
「うっわー。不健全だー。ここに不健全な男子がいてますよーっ」
「……どんだけ鈍感なんだよ」
「え? 何、聞こえんかった」
首を傾げた茉莉に、俺はとんでもない台詞を口走ってしまっていたことに気づく。
馬鹿、ふざけんな。ちゃんと仕舞っとけよ。
「何でもない。……んじゃ、俺そろそろ行くわ」
鞄を肩にかけて立ち上がる。仰け反っていた茉莉は身体を元に戻して、信じられないとでも言いたげにきょとんと俺を見上げる。
「え、どこに? どう考えてもこれから失恋カラオケのノリやん」
「そんなノリはねえよ。バイトって言ったろ。バイトまでの空き時間ならって」
「あー……そっかぁ。そんなら仕方ないか。あ、いいよ。奢ってもらったし、うち片付けとく」
「あ、そう。んじゃ頼むわ。またな」
「うん、またね」
俺はフードコートを後にしようと歩き出す。ぱたぱたと追ってくる足音に、俺は足を止める。
「ね、ちょっと待って」
「どした?」
「コーラ残ってるよ」
「もう飲まないから捨てといて」
「なら貰ってもいい?」
「…………勝手にしろよ」
「わーい、ラッキー」
ずずずっ、と音を立ててコーラを飲んだ茉莉がにこりと笑う。その笑顔が眩しくて、間を置かずの二度目だと言うのに間接キスが恥ずかしくて、俺は茉莉を真っ直ぐに見ることができない。
「めっちゃ薄まってる!」
「だろうな」
俺は言って、逃げるように踵を返し、今度こそバイトへ向かう。
◇◇◇
「……ってさ、よくこうやって話聞いてくれたよね」
ぷしゅ、と気持ちのいい音を立てて缶チューハイが開けられる。茉莉がキッチンにいる俺をちらちらと見てくるので、俺はどうぞと促す。
「いえーい、かんぱーいっ」
俺はエプロンを外し、盛り付けた皿を持って一人で先に始めた茉莉のいるリビングに向かう。
「ぷっはー、うまい!」
「懐かしいな。もう6年前? そう考えると、コーラとハンバーガーが缶チューハイとつまみに成長したってわけだ。いやぁ、時間の流れは怖いもんだね。ほい、カプレーゼ」
「おわっ! クオリティ高っ! お店や! 成長しすぎや!」
「どうもどうも」
俺は自分の分の缶チューハイを手に取って、茉莉の隣りに腰を下ろす。
「ほい、んじゃ改めて乾杯」
「かんぱーいっ」
俺が小さく掲げた缶に、茉莉の缶が軽快にぶつかる。小気味のいい、澄んだ音が鳴る。
空になった空き缶が机を転がって床に落ちた。俺はそれをすかさず拾い、ビニール袋に突っ込んで端へと避けておく。
「うぅ~……、ひどくなぁい? ねえ、どう思う、こいつぅ!」
顔を赤くした茉莉がゆらゆらと前後左右に揺れながら、俺にスマホ画面を突き付ける。画面の中央では、爽やかなイケメンが茉莉と一緒に笑っていた。
俺は残ったカプレーゼをフォークで食べる。コーラとハンバーガーが缶チューハイとカプレーゼに成長しても、俺たちの話題は、茉莉との関係は何も変わっていない。
「うん、ひどいな。お前は悪くない」
「そうだ! あたしゃ悪くにゃいのらぁっ」
茉莉がぽいとスマホを放る。既に茉莉の奇行を予測して立ち上がっていた俺は、壁に当たる手前で山なりに投げられたスマホを辛うじてキャッチする。
「うううぅぅ……なんで、あたしはぁ、にばんめなのらぁ~」
茉莉がどん、と机を叩き、鷲掴みにしたスナック菓子をぼりぼりと貪る。
どうやら今回も男の浮気が発覚したらしく、しかも茉莉が相手の家に行ったらいたしていた最中だったというから性質が悪い。さすがにショックが大きく心身ともに参っているようで、缶チューハイを二本空けた茉莉はいつの間にかへべれけになっていた。
俺は茉莉のスマホを床に置き、水を汲みに行く。茉莉はぐったりと項垂れたと思えば、突然に起きて男への文句を口走り、またぐったりするという流れを繰り返し続けている。
「けっこんしたみ~~」
「はい、水」
「うぅ、あんがと~」
茉莉が目を閉じたままぐびぐびと呷った水が両脇からぼろぼろとこぼれる。茉莉の顔と服と、おまけに床のカーペットが濡れる。
「うなぁ、ひゃっこい~やだやだ~」
「幼児退行やめい。ほら、貸して」
俺は茉莉からコップを取り上げ、ハンカチで茉莉の顔を拭く。茉莉はまるで犬とか猫みたいに上を向いたまま、口の中でもごもごと何かを呻いている。
「はい、拭いた! もう拭いたから! はい!」
俺は勢いに任せて洗面所に駆け込み、洗濯機に向かってハンカチを全力投球。ちゃんと入ったのかも確認せず、走ってリビングに戻って元の位置に腰を下ろした。茉莉とは適切な距離感を保ったまま深呼吸を繰り返し、ようやく思考がクリアさを取り戻してくる。
「明日、仕事は? 休み?」
「うぬ、休みじゃ~あたしゃ休みじゃ~」
「ああ、そう。俺、片付け始めるから、そのへんで休んでて。あ、吐くときはとりあえずそこのゴミ箱ね」
俺は空き缶やら皿やらを持って立ち上がる。
高校を卒業してから、茉莉は東京の大学へ進学し、俺は地元に残った。何かを意識していたわけではなく、お互いに進路の話を敬遠していたから、蓋を開けてみたら別々の道だったというだけだ。
それに離れていた期間、俺たちは全く会わなかったわけでもない。
茉莉は休みのたびに帰省していたし、そうなれば家族ぐるみで飯を食いに行くなんてのも珍しくはなかった。
それでも俺はなるべく会わないよう、避けていたことは否めない。
就職して上京してからもそうだった。
忙しいことを建前にして、俺は茉莉とはなるべく会わないように気を付けていた。
過去の思い出にばかり浸り、何の行動も起こせない俺には、茉莉は眩しかった。自分のやりたいことを見つけ、四年という時間を有意義に使って輝いていた茉莉に会うことが、俺には後ろめたかったのだ。
違う。それこそ建前だ。
小学生から引きずり続けてきた重すぎるこの気持ちを、もう抑えつけておく自信がなかった。だから茉莉と自分の間に、取ってつけたような差を見い出して、違う人種なんだと納得しようとしていたに過ぎない。
茉莉にとって、俺は仲のいい男友達で昔近所に住んでいた幼馴染でしかない。
だから彼氏ができたとか嬉しいことがあればいの一番に報告してくれたし、ひどい振られ方をしたときにはこうやって頼ってくれる。たぶん他の誰よりも、それこそ家族同然に気を許してくれている。
自分の一方的な想いを伝えることは、その全てを壊してしまうことになりかねないのだ。
茉莉が安心して頼れる場所を失うことになりかねない。
ならば俺が我慢すればいい。
十分じゃないか。茉莉は俺を必要としてくれる。それがともだちとしてでもいいじゃないか。
それで全部、丸く収まるんだと俺は自分に言い聞かせてきた。
洗い物を終えて振り返ると、俺のベッドに上半身を預けて茉莉が寝ていた。男の部屋にいるとは思えない無防備な姿が、茉莉のなかにおける俺の立ち位置をよく表している。
俺は濡れた手をタオルで拭いて、リビングへと戻る。
「……ったく、こっちの気も知らないで」
俺はベッドからブランケットを抜き取り茉莉の肩にかけてやる。さっきまで荒れ狂っていたのが嘘のように、健やかな寝顔だった。
「子供か、お前は。風邪引くっつうの」
まあ明日が休みなら、今日はこのまま泊まればいいだろう。タクシーにぶち込む案も考えたが、さすがにこの状態の茉莉を夜の街に放り出すのは気が引ける。
俺は一人黙々とテーブルに散らかったゴミを片付けていく。
「うぅ、…………たく」
茉莉が名前を呼ぶ。俺の名前ではない。今回別れた元カレの名前だ。
「そんなに、浮気男がいいかね……? 理解できんよ、俺は」
まあたとえどれだけ最低な奴だったとしても、好きだったのだろう。この気持ちは論理や道徳、建前でどうにかできるものではないことを、俺はよく知っているつもりだ。
静かになった室内で、不意にメッセージの受信音が鳴る。
俺は自分のスマホを探してあたりを見回す。確か、ベッドの上に――。
「あった。あった」
片付けを中断し、茉莉の腕の下敷きなったスマホの元へ向かう。スマホを取りがてら、再び視界に入った茉莉の寝顔に、俺は唇を噛む。
茉莉は眠りながら泣いていた。夢のなかの、あるいは記憶の片隅の、元カレを想って泣いていた。
「なんだよ……いい加減、俺にしとけよ」
呟いて、俺は親指でこぼれた涙を拭ってやる。
「俺なら、茉莉のこと、ちゃんと大事にするのに」
「ん……」
「は?」
俺は思わず間抜けな声を上げて飛び退く。茉莉が薄っすらと目を開けて、大きく伸びをする。俺は動揺で激しく脈打つ胸を抑えながら、茉莉をちらと見やる。
「寝てた……」
「ああ寝てたな知ってる。いつどのタイミングで起きたんだお前」
「なんで、そんな早口なん……?」
茉莉は眼を擦っている。
「いや別に早口ではないから。いきなり起きんなよ、ちょっと、び、びっくりしただけやし。というかいつから起きてたん」
「…………んー、ほっぺ触っとったらへん?」
茉莉が首を傾げる。らへん? じゃねえよ、アウトじゃねえか。
「ねえ、大ちゃん?」
「な、なにっ?」
今にも走って逃げたい状況だった。我慢するのだと決めた矢先での失態だ。動揺が酷すぎてそのまま倒れそうだったし、何なら心臓は口から飛び出してしまいそうだった。
茉莉はブランケットに包まりながら、俺を見ている。真っ直ぐな眼差しが俺から逃げる自由を奪っていた。
「……うちのこと大事にするって、どういう意味なの」
俺は深く息を吸う。
どうやらこの気持ちは、論理でも道徳でも建前でも、どうにかできるものではないらしい。
俺は深く息を吸う。吸った息を深く吐く。
頼む。頼むから――――静まれよ、心臓。
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