くたばれ、青春

やらずの

この初恋は、シガレット

「んなもんばっか吸って、身体に悪いっすよ。――先輩」


 ペンキを塗りたくったような青空に溶けていく紫煙を眺めながら、僕は言う。

 今いる屋上が、校内のどの場所よりも少しだけ太陽に近いせいか、僕の身体はほのかに熱を帯びている。

 火の灯った紙巻煙草の白いフィルターが、先輩の薄い唇にそっと咥えられる。左下にある色っぽいほくろで飾り付けられた唇が煙草から離れ、微妙に開いたその隙間から煙が吐き出される。


「君も吸うかね? 後輩くん」


 そう言って斜め下から差し出された煙草を受け取ろうと手を伸ばしかけ、僕は首を横に振る。


「いいですよ。身体に悪いし、はまだ未成年だし」

「冒険は若いうちにしておくもんだよ?」


 先輩はそう言ってにたりと笑う。その魔性に、僕はなんだか自分の顔が沸騰しているような気がしてしまう。間もなく僕のなけなしのプライドが、ふいと素っ気なく顔を背けさせた。


「そういうのは冒険って言わねえっすよ。立派な非行。法律違反」

「いつも思うけど、君はいつも真面目だよなぁ。そんな髪の毛の色してさ」

「だから、何度も言ってるじゃないっすか。これは兄貴の実験台にさせられて――」


 僕は振り返り、ベンチに座る先輩の短く巻かれた制服のスカートから覗く真っ白な太腿を見てしまう。今度こそ本当に顔が爆発しそうなほど熱くなり、弾かれるようにまたそっぽを向く。真夏の日差しがやけに冷たく感じられ、僕は手に持っていたパックのイチゴオレを乱暴に飲み干した。

 先輩はそんな僕を見て、楽しそうに笑っている。


「そんな言い訳しなさんな。わたしはけっこう好きだぞ、君のそういう半端なところ」

「――――ごふっ」


〝好き〟という言葉に過剰に反応してしまった僕の食道を、飲み込みかけたイチゴオレが暴れ回って鼻の穴へと回り込む。僕は盛大に咽返り、鼻の奥を突く痛みに顔を歪める。


「なになにどしたの? あ、先輩に好きとか言われて嬉しくなっちゃったんだ? そうなんだ? ういうい~」


 先輩は苦しんでいる僕の脇腹を人差し指で突く。僕は必死で身を捩り、いたずら好きの華奢な指から何とか逃れる。僕は手の届かないところまで距離を取り、できる精いっぱいの非難を込めて先輩を見下ろす。


「ごめん、ごめんて。なんか君のこと見てるとからかいたくなるんだよ~」


 先輩はそう言って謝るが、お腹を抱えて笑い、僕を突いていた指で目尻の涙を拭っている。その笑顔は、燦々と頭上に輝く夏の太陽なんかよりもずっと、僕にとっては眩しくて、もうカッコ悪く咽返っていたことも、鼻に入ったイチゴオレが辛かったことも、どうでもよくなってしまう。


「…………ったく、こんな人が生徒会長とか、この学校どうなってんだよ」


 先輩には聞こえないように呟いて、ちらと先輩のほうを盗み見た視線の先、短くなった煙草からぽとりと灰が落ちる。

 間もなく、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


   ◇◇◇


 僕と先輩が出会ったのは去年の冬。崩れ落ちてきそうなほどに、分厚くて薄暗い雲が空を覆った日だった。

 親の転勤の都合で、二学期の終わりという何とも微妙な時期に編入してきた僕は、持ち前の人見知りと見た目(主に髪型)も助力したおかげでろくに友達もできないまま三学期を過ごしていた。

 高校一年の後半ともなれば、もうクラスのなかにグループというのはばっちり出来上がっている。僕にはそこへ飛び込んでいく勇気はなかったし、クラスメイトたちのほうも尖った出で立ちの僕に積極的に話しかけたりはしなかった。

 もちろん独りでいたかったわけではない。けれど積極的に誰かと一緒にいたいわけでもなく、なんとなく毎日が流れていく。

 一月も終わりになり、三年生が学校に来なくなってしまうと学校全体ががらんどうになったように感じられた。僕は中身のない学校生活を、漫然と過ごしていた。

 その頃、僕はようやく学校のなかで居場所と言える場所を見つけていた。それがあの屋上。滅多に人が来ない分、独りの時間をだらだらと過ごすにはもってこいだった。

 だが独りを漫喫できた期間はそう長くはなかった。

 そう。僕は、先輩と出会った。


   ◇◇◇


 いつも通り、購買で買ったパンの入った袋をぶら下げて屋上へ向かうと、嗅ぎ慣れない匂いがした。美容学校に通う四つ上の兄が吸うので、僕はそれが何の匂いかすぐに分かった。


「あ」


 まるでまだ染める前の絹のように混じり気のない白い肌。対照的な肩に触れるくらいの滑らかな黒髪。通った鼻筋に、冬の寒さで少し赤くなった頬。プリーツスカートから覗くのは厚手のストッキングに包まれた細い脚。

 彼女は切れ長の目を驚いたように見開く。開いた口から、まだ火を点ける前のがぽとりと落ちる。


「お」


 僕は予期せぬ遭遇に固まりつつ、何故かほとんど反射的にそう声を上げていた。続く言葉を探した。


「……お邪魔しました」


 僕は踵を返す。しかし避難は失敗。後ろから手首をがっしりと掴まれる。


「ちょっと待とうか、少年」


 振り返れば、困ったように僕を見上げる彼女の顔があった。吐く息は白く、頬と耳は赤らみ、彼女の視線は真っ直ぐに僕を見ていた。


「……………………」


 僕はその場を離れる口実を思いつくことができず、彼女の眼差しに根負けして頷いた。



「いやー、びっくりしたよ。独りになりたいときとかよく来ててさ。最近はちょっとばたついてて来れてなかったんだけど、久々来てみたら君来ちゃうし。焦った焦った」


 先輩は吸いさしを携帯灰皿のなかへと捨て、風に靡く髪を耳に掛ける。

 先輩が先輩だと、つまり一つ上の学年の女子生徒だと分かったのは、制服のリボンの色が青色だったからだ。一つしか違わないはずなのに、表情や動作の一つ一つがとてつもなく大人びて見えて、僕はいちいち目のやり場を失くしてしまう。

 だから僕は髪を耳にかけるその仕草にどきりとしながら、しかし決して気取られぬように顔を背け、わざとらしく吐き捨てる。なんだか惨めな気分だったが、嫌な感じではなかった。


「先輩、不良っすね」

「わはは、初めて言われたよ」


 何が楽しいのか、先輩は鈴を転がしたような声で笑う。


「まぁ、なんていうか、見た目はその……」

「見た目は? その?」


 僕は先輩の全身をぐるりと見回す。僕の視界を覗きこんだ先輩と目が合い、僕は急激に恥ずかしくなる。


「その、……やっぱ何でもないっす」

「えー、何でもないってなによ~。清楚で美人~とか言ってくれるのかと思って期待したじゃん」


 先輩が頬を膨らめて、僕の肩を叩く。僕は少しだけ座る位置をずらして先輩から遠ざかる。


「美人はさすがに言い過ぎでは?」

「えー、そうかな? もし美人が作れるとしたら、けっこういい線いってると思うんだけどなぁ。これでもけっこう努力してるんだよ。ほら髪とかさらさら」


 先輩が僕に向けて傾けた首を突き出してくる。当然、意味が分からない僕は首を傾げる。


「ほら、とは……」

「え、触るってこと」

「な、え……触……っ」


 顔から火が出た。僕は吹き飛ぶような勢いで顔を背ける。心臓はこれまでに経験したことがないくらいに高鳴って、僕の胸を内側から叩き続けた。


「そ、そういうのは! 軽々しく言っちゃだめっていうかなんていうか……」


 僕の声は消え入りそうになる。もう何をどう言ったらいいのか分からなかった。頭のなかは一瞬にしてぐしゃぐしゃになっていた。


「ごめんね。君が嫌な気持ちになったなら謝る……」


 先輩が僕の後ろでしおらしく言う。なんだか背を向けた僕が彼女を責めているのではないかという気分になって、どういうわけかお門違いの罪悪感が込み上げる。


「嫌とか、そう言うんじゃなくって……」

「ほんと?」

「ほんとっす。でも今後は、その、そういう感じは控えてください……」

「うん。気を付けます!」

「おわっ」


 いつの間にか僕の前に回り込んだ先輩が、さっきのしおらしさが嘘のようなカラッした気持ちのいい笑顔で僕の前にしゃがみ込んでいた。当然、僕は驚いて仰け反り、バランスを崩して地面の上に転がった。

 そして頃合いを見計らっていたようにチャイムが鳴る。


「あ、次の授業、教室移動だ。わたし行くね!」


 先輩はすっと立ち上がり、置きっぱなしだった煙草とライターをポーチのなかに仕舞いこむ。


「それと、君! 今日ここで見たことはくれぐれもオフレコでお願いしゃす!」


 あっけにとられてまだ寝転んだままの僕に敬礼をして、先輩は去っていった。

 僕はそのまま動けない。真冬だというのに、身体は汗ばむほどに暑かった。

 変な病気かもしれない。

 もしそうなら、先輩にも移ってしまえばいい。


「あー、なんだこれ」


 言って深く吸い込んだ真冬の空気に、まだほんの少しだけ先輩の匂いが混ざっていた。


   ◇◇◇


 僕らはあの日に出会い、それから毎日のように、屋上で他愛のない言葉を交わした。積み重なったそれらはいつしかかけがえのないものになっていった。

 真冬の曇天のようだった僕の世界は、咲き誇る桜のように美しく彩られた。

 そして桜の花が散り始めるころ、僕らの日々も静かに終わりを告げるのだ。



 閉めきられた体育館から、微かに聞こえてくる「仰げば尊し」。今は流行りのポップソングをアレンジして合唱したりする学校もあるらしいが、やっぱりしっくりくるのは昔ながらのこういう曲のような気がする。

 僕は風に花を散らす桜の木を見下ろしながら、項垂れるように柵に寄り掛かる。

 本当は在校生も卒業式に出席しなければならなかったが、僕は上手く抜け出して今屋上ここにいる。

 生徒会長である先輩は生徒代表として卒業証書を授与される。そんな人生一度の晴れ姿を見たくないわけではなかったが――現に見に来いと言われていた――、僕はどうしても行く気になれず、屋上でぼんやりと桜を眺めている。

 見たく、ないわけではない。

 本当は先輩をずっと見ていたい。

 この屋上で過ごす他愛のない時間を、失いたくはない。

 もし卒業証書を抱く先輩を見てしまえば、本当にこの時間が終わってしまうような気がしていた。

 行かないでくれ、などと引き留めることはできない。

 先輩は今日、制服を脱ぎ捨て、新しい世界に飛び立っていく。

 もう、会えないかもしれない。

 受かったのは東京の大学。ほんの一週間くらい前、まともに勉強したことのない僕ですら知っている有名大学の合格証明書を見せに来た先輩は、涙を浮かべながら笑っていた。

 本当に嬉しそうだった。

 もしかしたら僕の胸の中のこの思いは、未来に進もうとしている先輩の気持ちに水を差してしまうのかもしれない。

 たとえもしそうでも、今日伝えなければこの先一生、この気持ちは僕のなかで燻ぶったままになる。

 散々振り回されたし、散々からかわれたんだ。

 最後くらい、僕のわがままを一つだけ、聞いてくれるくらいバチは当たらない。

 それに先輩と望む未来はない。先輩は東京で、僕はこの屋上。そこには想像もつかないほどの隔たりがある。

 ただ伝えるだけ。一年と少し、先輩に出会えたことへの感謝も込めて。伝えるだけ。

 間もなく卒業式が終わった。

 扉が開き、吹奏楽部の演奏に送られながら卒業生がわらわらと退場してくる。卒業生たちは外の広場で泣きながら抱き合ったり、写真を撮ったりしながら、最後の時を、駆け抜けた青春を締めくくろうとしていた。

 僕は柵から身を乗り出して先輩の姿を探す。

 もしかしたら壇上から僕がサボったことに気づいた先輩が屋上に文句を言いにくるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、僕は先輩の姿を探す。

 劇的な出来事は何もなく、先輩は案外あっさりと見つかった。先輩の周りには人だかりが出来ていたのだから当然だった。

 同じ卒業生やら後輩やらに囲まれる先輩は、晴れやかに笑っていた。

 どんな桜の花よりも綺麗に。

 先輩は挨拶もほどほどに人混みから抜ける。校舎のほうへ来てくれることを期待してはみたものの、先輩は校門へと向かって歩いていく。

 行かなくちゃ。

 僕は締め付けられる胸を押さえて駆け出した。階段を二段飛ばしで駆け下り、上履きのまま校舎を飛び出して先輩の元へ。

 色めき立つ卒業生たちを掻き分けて先へ。先輩のいる場所へ――。

 息を切らして走り抜けた僕は立ち止まった。

 全身から力が抜けるように。あるいは必死に走ってここまで来た全てをなかったことにするように。

 先輩は、笑っていた。

 それは僕が見たことのない笑顔で。

 それが向けられるのは僕ではなくて。

 校門の前に停められた車に寄り掛かる、一人の青年。彼は煙草を吹かしながら、近づいてくる先輩に気づいてふと顔を上げる。

 開けた後部座席から取り出したのは抱えるほどの大きな花束。卒業おめでとう、と爽やかな笑顔で先輩を出迎える。


「はは……なんだよ……それ」


 思わず膝をついた僕など見えないと言わんばかり、他の卒業生たちが僕を追い抜いて校門で寄り添う二人に向かって歩いていく。

 先輩の姿はあっという間に人垣に掻き消され、僕だけが一人、世界から取り残されていく。


「なんだよ、それ……」


 こうして僕の恋は散った。

 誰に見届けられることもなく、伝えられることもなく、静かに。

 地面に散り積もる桜の花びらは、僕の傷を覆い隠してはくれそうになかった。


   ◇◇◇


 先輩は卒業し、僕は三年になった。

 変わったのはそれだけ。でも世界の全てが変わってしまったようだった。

 後から知った話では、先輩に花束を差し出していた青年は先輩の一つ上の代の生徒会長だったらしい。当然、僕も一度目にしたことがあるわけだが、そんなことはどうでもよかった。

 青年が去年の春休みで帰省した際に再会し、夏の花火大会で――というところまではクラスメイトたちから聞かされた話だったが、それより後は覚えていない。どんな顔をして聞いていたのか、今でも少し不安になる。

 先輩が嬉しそうにしていた東京の大学は、彼と同じ大学だそうだ。

 とやかく言うつもりはない。

 そもそも僕に、何かを望む資格なんてありはしなかったんだから。

 先輩がいなくなり、僕の世界は何もかも変わってしまった。

 だがそれでも、チャイムが鳴れば僕は屋上に向かう。

 粉々に砕けて散った思い出を集め直すように、ただ一人、屋上へ。

 僕はコンビニで買ったパンを味わうこともなく食べ、イチゴオレを一気に飲み干す。そして制服のポケットから取り出した煙草にライターで火を点ける。

 慎重に息を吸い、それでもやっぱり激しく咽た。


「……ごふっ、ごふっ」


 まだ慣れない煙に咽返りながら、不恰好に吐き出された紫煙を僕は眺める。

 ほんの少しだけ、この屋上に、まだ先輩の匂いが残っている。

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