ビターキス

キノ猫

 

 寒い。テーブルの上の空っぽのグラスが並んでいる。ゆっくり身体を立て、じわじわと水色に帯びる空を窓越しで仰いだ。冷えた空気に身震いする。まだ冬だ。

 視線を下ろせば、隣ですやすやと眠る私の恋人。無防備なその頭に手を置いて、くしゃくしゃにした。


 昨日は苦手なお酒を飲んだ。君と居れる日が最後だったから。

「明日、この街を出ようと思うんだ」

 グラスに黄色の液体を注ぎながら呟いた君。

 そんなこと、一つも話していなかった。

「えっ、なんで?」

「就職先が遠いとこなんだよな」

「そっ、か」

 急に膨らんだ動揺を隠すようにピーナッツを口に放り込む。手が震えて、味さえも分からなかった。

 どうして今まで教えてくれなかったのだろうか。私は教えるに値しないと突きつけられた気分だった。仮にも、恋人なのに。

 グラス一杯になったビールでゴクゴクと喉を潤す君から目を逸らした。天井を仰ぐ。そうでもしないと、悔し涙がこぼれて、止まらなくなるとおもったから。

「なあ、今までありがと」

 やめてよ、本当の別れみたいじゃない。

 優しい声が紡いだ言葉に鼻の奥がツンとないた。痛いや。

 おつまみ、取ってくるね、なんて震えた声を残して背を向けた。そのときに視界を遮っていた涙を拭った。


 あまりもののほうれん草のお浸しをつまみながら、トポトポと注がれるビールを眺めていた。

 そして、君の喉を鳴らしながら消えていく。

 私たちの距離は近すぎず、遠すぎずだった。でも、今回みたいに大切な話をするには少し遠すぎたみたいで。

 人間関係は淘汰されゆくものとはよく言ったものだと妙に納得してしまう。

 このままのしみったれた空気は嫌なので、君の手の中のグラスを指差す。

「ねぇ、それ私も飲みたい」

「あれ、ビール嫌いじゃなかったっけ?」

「リベンジってやつだよ」

 君が美味しそうにビールを飲むものだから、飲めるかもしれない、楽しく一緒に飲みたいと口に含んだ。

 初めて飲んだ時も君から貰った。苦い、なんて顔をしかめたら、まだまだお子ちゃまだなと笑われたっけ。

 今回は君を真似るように残りを一気に飲み干してやった。

 相変わらず、苦かった。

 驚いた顔の君に、私は吐き捨てる。

「にっがい」

「ほらもう」

 少し赤くなった顔に笑顔を浮かべる君。付き合って間もない頃、よく照れてたことを思い出させる。

 こうやってなんでもないような日々を過ごせるのはないのかと思うと、胸が締め付けられた。泣けてきた。

 涙が滲んだのは、ビールの苦味のせいだ。きっとそう。


 酔った勢いだ、と、君の膝の上に乗り、向かい合った。

 膝の上に座ったことは何度かあった。レポートをするとき、テレビを見るとき、ゲームをするとき。温かく、安心感と幸福感のあるひとときだった。

 でも、それは今日が最後になるのか。

「なに、えっ、なに」

 安心する声、君だとすぐにわかる匂い。これからは私に向けられなくなるのだろうか。

 戸惑いの混じった声で私に投げかける口を乱暴に塞いで、返してやった。

「あほ」

 本当、あほだ。

 今の今までここからいなくなることを伝えなかった君。

 おめでとうさえも口に出せない私。

 こんなに好きにさせた君も。

 涙の止め方を知らない私も。

 そして、コミュニケーションの欠けた私たちも。

「ねえ、すき」

 震えた声が小さく消えた。

 とめどなく流れてくる涙。ぶきっちょに頭を撫でる手。下手くそ。

 埋められない距離を、心の穴を、ひとときの感情で満たそうと何度も何度も唇を重ねた。

 そのキスはとても苦く、しょっぱいような気がした。


 気がつけば部屋が先ほどよりも明るくなっていた。缶や衣服が散乱しているのが目立つ。

 隣に視線を移せば、引き締まった君の身体が露わになっていた。初めて一緒に寝たときから寝相の悪さは変わってない。

 私は君のことをよく知っていると思う。寝相の悪さ、足癖の悪さ、そして、意地の悪さ。

 今だって、起きているくせに、寝たふりをしている。

 数年同棲していたら、良いところも悪いところも見えてくるものだ。

 君に聞こえるような声でひとりごちる。

「昨日みたいな不味いキスはごめんだね」

 ほんっと、史上最悪だった、と続けた。

 まだ君は寝たふりを続けている。

 座り直して、見慣れた天井を仰いだ。

「……かと言って最後のキスはしないから」

 これは私の強がり。宣言しないと、流されてしてしまいそうだから。

 もう元に戻れなくなることを信じたくないと弱い私が叫ぶ。それが刃になり、抉ってくる。

 そんな弱い私が顔を出してしまった。「でもさ」

 潤んだ天井を見上げながら、息を吸って続ける。息が震えた。

「でもさ、この気持ちが思い出になるまで、想っててもいいかな」

 布団の上に染みができた。弱い私の本音が作り出したもの。

「ごめんね、まだ……」

 その先は言いたくなかった。言ったら、負けな気がした。

 おもむろに視線を君に向ける。

 そこには私の恋人がいた。

 寝たふりを続け、静かに涙を流す私の恋人。

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ビターキス キノ猫 @kinoneko

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