第9話


 「大人二枚、場所はレフトスタンドでお願いします」

 お金を支払い僕らはドーム内に入ってゲートを潜った。

 さっそくスタンドに行こうとしたが、彼女がどうしてもチェリオを食べたいというので買ったが、想像していた味と違うと言い、僕の頭をそのチェリオで叩いた。

 もったいないので僕はそのチェリオを食べた。

 チェリオももったいないが、彼女に腹を立てる時間ももったいない。

 こんなことをしている間に天ちゃんは別の場所に移動するかもしれない。

 レフトスタンドに着いた。

 天ちゃんがいたであろう席を探す。

 念のため彼女からも目を離さないように気をつけた。

 連れ去られるかもしれないし、勝手にどこかに行くかもしれない。

 前者の場合は、松中がチャンスの場面で打つ確率以下だが、後者の場合は、川崎が女性ファンをデートに誘って快く承諾される確率以上だろう。

 一通り、天ちゃんがいたと思われる場所を見たが、いなかった。

 麦わら帽子にも注意した。

 誰かが抱きかかえていないかどうかも確認した。

 スタンドに入ってから15分が経過していた。

 これだけ探してもいないとなると、天ちゃんはあまりのホークスの弱さにがっかりしてもう球場を出たのじゃないかと思いたくなる。

 そんなことを考えた数十秒の隙に彼女が視界から消えていた。

 慌てて走り回ると売り子さんにぶつかりそうになった。

 彼女は麦わら帽子をかぶってホークスのタオルを首にまいた白のタンクトップのおじさんと話していた。

 人の良さそうなおじさんだ。

 いや、おじいちゃんか。

 とにかく見つかったことに胸を撫で下ろし、すぐに向かう。

「やぁ、こんにちは」僕が近くまで寄ると僕よりも先におじさんが挨拶をした。

「こんにちは」反射的に深々と頭を下げてしまった。

「私のことはケンと呼んでくれ。君が聞きたいことは全てこの子に話したよ」と言って彼女を見た。

「あ、ありがとうございます」何と言っていいかわからず、そう答えた。

「君達は珍しいね」

「何がでしょうか」と尋ねる。

「私が小さい頃から最近になっても君達みたいな心を持っている人間は少ないよ。想像もしないような困難に立ち向かい続けている君達は素晴らしいと思う」笑うおじさんの皺が、笑う表情を際立たせた。

「あまり見かけないということですか?」とりあえず質問をする。

「そういうことではない。私は自然とそういう人と出会う。けれど、昔から今もそういう人間は少ない。生きている実感を持っている人はね」

「僕は必死に目の前のことに集中して行動しているだけです。そんな実感はありません」

「それこそが自分に正直に生きているということだよ。君は好きな音楽を聴いている時、聞いていると考えるかい? 音楽と一緒になっているんじゃないかな?」

「確かにそうです」

「つまり好きなことを一生懸命し続ける状態、必死に目の前のことと一体になり続けることが生きているということだよ。たまに振り返って生きている実感を味わえば良い。時には思考する。けれど普段は遮断する。これが自分らしい人生を生きるコツだ。君はまだ考えすぎるところがあるようだ」

「はい」僕には相槌を打つことしかできない。

「こんなことを言わなくても君は充分そういう生き方を選択してきているのだけどね。そこのお嬢さんとの出会いが君を変えたね。人、ひとりの覚悟、生き方が他人の人生を大きく変えるんだよ。君にもその力がある。そこのお嬢さんに感謝しなさい」そう言うとおじさんは皺くちゃになって微笑んだ。

「困難にぶつかったり諦めそうになったら、人のために何が出来るかを考えて何度でも立ち上がりなさい」おじさんは右手を差し出してきた。

 恐れ多く、握手なんかしてもいいのかなと迷いながらも僕も右手を差し出した。

「グッドラック。陰ながら応援させてもらうよ」と力強く僕の右手が握り締められた。

 その力強さに僕の心も熱くなった。

「さて、行きましょう。どうも、ありがとうございました」珍しく隣で黙って話を聞いていた彼女が口を開いた。

「あ、ありがとうございました」僕も慌ててお礼を言うと、歩き出す彼女の後ろについて行った。

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