第10話


 「あ、ありがとう」照れくさかったが、彼女の後ろから彼女に向かって言った。いや、つぶやいた。

 彼女は立ち止まって振り返ると「どういたしまして」と笑顔で言った。

 僕は頬と胸が熱くなった。鼓動が早まる。視線を斜めにそらした。

「天ちゃんはもうここにはいないわ。ゆっくり夕食にしましょう」

「そ、そっか。わかった」次から次へと起こる出来事に思考がついていかない。

「で、何を食べさせてくれるの?」

「そこに、とてもおしゃれなレストランがあるんだ」慌てて答える。

「さっきのお礼の話を聞かなくちゃ。何のお礼なの? そのレストランで大丈夫?」

 僕は何のお礼をしたのだろうか。

 彼女の全てに対してか。

 いや、さっきのおじさんの話で思い出した彼女は出会った頃の彼女だ。

 もちろん全てに感謝しているけど、思い出したのはその頃の彼女だった。

「思い出のレストランに行こう」

「レストラン『美紀』ね。懐かしいわ」彼女はあの頃と変わらない笑顔で微笑んでくれた。

 外に出ると、人は少なかった。

 まだ試合途中だからだ。

 タクシーに乗ると、白鳥さんではなかった。

 運転手に行き先を告げ僕は一息つく。

「君は他にどんな話が聞きたい?」と彼女の顔を覗き込みながら囁く。

「これまでのことと、これからのことね」と細い目になり色っぽく微笑んだ。

 彼女はそれだけ言うとカバンからDSを取り出した。

 僕はただドキドキしていた。

  

       *


 僕は君の笑顔に恋をした。

 目が合った瞬間に暖かい気持ちになった。

 零れ落ちるような笑顔。

 白いドレスに真っ黒のウェーブのかかった長い髪から見え隠れするロングピアス。透き通るような白い肌に、輝きが眩しい黒い瞳。


 願いが叶うなら僕はこの人と一緒にいたい、そう感じていたかもしれない。


 これは、かつて僕がホテルで働いている時の事だ。


 僕はお客様を部屋に案内し、持ち場に戻るところだった。

「レストラン『芽衣』の場所はどこかしら?」微笑みながら彼女は言う。

「オープンは来週からになっておりますが、ご案内致しましょうか?」

「お願いするわ」

「こちらになります」

「あなたはここでどれくらい働いているの?」

「3年ほどになります」

「どうしてこの仕事を選んだの?」

「人が笑顔になるのを見るのが好きだからです」

「人の笑顔?」

「はい。笑顔になる瞬間が好きなんですよ」

「そう。料理はできるのかしら?」

「それなりに自信はあります。ですが、笑顔になる瞬間を見たくてウェイターに決めました。少しでも気持ちよく食べてもらう手伝いができればいいと思っています」

「あんなところにいたからボーイさんかと思ったわ」

「大きなホテルなので、そういった事務的なことも仕事の内です」

 ホテル内に関する話を続けながら、僕はこの美しい人をまだ未開店のレストランに連れて行った。

「こちらが『芽衣』です」僕は左の掌をしっかりと店に差し出した。

 ホテルのワンフロアがオープンテラスのようになっており、人工芝の床で周りは木の柵で覆われている。机や椅子も木製になっている。キッチンには屋根がついており手元が見えないように設計されている。テラスの奥には木の家があり、その中でも食事ができるようになっている。僕は中に入ったことがない。

「実際に見ても素敵ね。そうね。中で食事にしましょう」彼女はそう言った。

「お食事でしたら、お近くのレストランをご紹介いたします」まだオープン前ですと確かに伝えたはずだろと心の中で拳を握った。

「私はここの気分を味わいたいの」

「まだキッチンに調理道具も揃っておりませんしコックもいないので、すぐ下のカフェにお連れ致します」

「そうね。あなたが料理すればいいわ。そのすぐ下のカフェでコーヒーと何か軽食を作って持ってきてね」

「あ、あの……」僕が口ごもっていると彼女は僕の目をじっと見て、

「お願い」とだけ言った。

 僕は彼女を『芽衣』の中に案内し椅子を丁寧に引いていた。

「ありがとう」彼女は座りこちらを向いてお礼を言った。彼女の笑顔を直視できなかった。

「10分以内にコーヒーと軽食を持って戻ってきてね。ウェイターさん」

 気がつくと僕はカフェに向かって走り出していた。

 時間内は無理だ。

 けれど女性は待たすものではない。

 カフェに着くと、運良く客足は多くなかった。キッチンに入り、同期の調理場担当のやつにサンドウィッチを作ってくれと頭を下げ、僕はコーヒーを入れる。

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