第5話


 彼女と初めて出会った時から不思議なことが起こっている。

 自分の価値観がどんどん壊されていく。

 それまでの自分は平凡な人生だった。

 親が少しだけ他の家庭と比べるとお金を持っていた。

 後は放任主義だ。

 大学一年の頃にC国で一人旅した。

 それまでの自分の価値観というものが紙一枚のようにぺらぺらだと気が付いた。

 それまでは、A4サイズの面積くらいの厚みがあると思っていた。

 A4サイズの厚みではなく、紙一枚の薄さだったのだ。

 帰国後、しばらくするとカルチャーショック、いや、新しい世界の衝撃も次第に冷め、平凡な人生に戻った。

 そのまま自分に対する期待も薄れてきて、より平凡な人生を歩んでいたのだが、彼女と出会う。

 それからというもの僕は彼女の言いなりになっている。

 何となく社会や常識や周りの言いなりになるよりもずっと良い。

 彼女の魅力に触れながら、言うことを聞くのは良いのだが、不思議な体験、貴重な体験を繰り返している。

 時には死を覚悟することもあったし、驚きすぎて心臓が止まるような出来事にも出くわした。

 決して冗談でも言い過ぎでもない。

 例えば、取引先について来いと言われ、やたら重たいアタッシュケースを持たされた。

 彼女と相手が話している後ろで突っ立っていたが途中で彼女が指をパチンと鳴らしたのでアタッシュケースを差し出した。

 開けてみると中身は現金で一億円入っていた。

 取引後になぜ現金なのかと聞いたら、現金の方がインパクトあるでしょと一言だけ。ちなみに一億円は10キロの重さだった。

 こんなことを繰り返してばかりだ。

 だから滅多なことで僕は驚かなくなっていた。

 そのことを通して、僕は彼女との体験にわくわくする余裕も少しずつ出てきた。

 社会人がいきなり、パンダを探すから会社を休ませてくれなんて言えないし、行きたくもない。

 少なくとも平凡であった頃の僕はそう感じてくれただろう。


 彼女とパンダを探す旅行か。


 それも悪くないなと思ってしまう自分がいる。


 そんなことを考えながら食器を洗い終える。

 食器を洗い終えると、準備をして必ず19時までには戻ってくるよと彼女に伝えた。


        *



 マンションを出ると、周りを見渡す。

 いつもと変わらない景色だ。

 黒い車に全身黒尽くめの男達が入り口を遠くから見張っているということもない。

 いや、本職なら僕が見渡したくらいで感づかれる場所にはいないか、と真面目に考えた。

 家に着いた僕は、旅行用のボストンバックとリュックサック、会社用のカバン、大学生時代に使っていたショルダーバックを出した。今、家にあるカバン類はこの4つだけだ。

 さて、パンダはどういった場所にいるんだろうか。

 せめて暑い場所か寒い場所かだけでも教えてほしい。

 しかも何日、何ヶ月の旅になるのだろうか。

 彼女が言い出したのだから、見つかるまでは探し続けるだろう。

 どこにいるかだけでも知りたくなって、パソコンを立ち上げ『パンダはどこへ消えた?』と検索してみた。

 実に100万件以上ヒットした。

 世の中には僕以外にもパンダを探している人たちで溢れているのだなと感心してしまった。

 3件ほど流し読みしてみたが有力な情報を得られそうにもないのでやめた。

 「パンダ」はネパール語で「竹」を意味する「ポンヤ」に由来するらしい。

 C国語で「パンダ」は「熊猫」と言う。

 ジャイアントパンダとレッサーパンダの2種類がある。

 彼女が連れて来たパンダはジャイアントパンダの子供のようだ。

 目の周りと耳と肩と両手、両足が黒でその他は白ではなく、クリーム色らしい。白にしか見えなかった。

 パンダがどんな動物か調べれば調べるほど、肩に力が入り汗が出てきた。

 パンダは絶滅に瀕している動物であり、野生パンダの生育数は1,600頭ほどだそうだ。

 そのためワシントン条約でその売買が禁止されている希少動物だと出てきた。

 ネットの情報だから正確なところはわからないが、パンダについて無知な僕にとっては充分な情報に思えた。

 彼女はどうやって日本にパンダを連れてきたのか。

 ぬいぐるみと偽るにも限界がある。

 あれはやはり、ぬいぐるみで、僕が寝た後に彼女が隠して鍵をあけたイタズラだと考えたほうが自然だ。

 いや、そうであってほしい。

 そうであるなら、旅行の口実だから、長くても一ヶ月の旅だろう。

 今は夏だし、仮に行き先がC国でもそう気候が変わるわけでもない。

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