今日からよろしくね




「あの、今日は本当に……ありがとうございました」

「いいのいいの、若い子はこういう時に遠慮しないものよー」

 夏海なつみさんの車で送ってもらった祈莉いのりは、自宅の門の前で車中の二人に何度も手を振る。

 巧海たくみ君も、それはものすごい笑顔でぶんぶんと手を振ってくれていた。

「あとで、うちのお姫様――ミルフィーユの写真いっぱい撮って送るからさ、祈莉も写真送ってくれよ!」

「わかった。わかったってば」

 彼のあまりの勢いに苦笑いしながら返事をすると、今度は白い歯を見せて爽やかに笑い、こう言ったのだった。


「それじゃ、また学校でな」



 二人が乗った車が走り去った後も、祈莉はまだ小さく手を振って見送っていた。

「……うん、また学校でね」


 あぁ。この言葉って嬉しいものなんだ。

 言ってもらえて嬉しいし、言うことが出来て嬉しい言葉だと、祈莉は多分初めて知った。

 ……ぎしぎしと締め付けられて割れそうな心を、隠しながら言う言葉ではなかったのだ。




「ふぅ、ただいま」


 自分の部屋に帰ってきて、鍵もしっかり閉めた祈莉。自分が着替えるよりもまず先に、お姫様のための御座所――もといプリ姫シュゼットのためのお部屋を整えることにした。


「場所は……和風はともかく、洋風のお姫様が床に直接ってのはあんまりだよね。うっかり蹴り飛ばしでもしたら大変だし……」

 店でディスプレイされていたように、アンティーク風の大きなテーブルに造花や繊細なミニチュア家具と一緒に、というのは美しいがあまり現実味がないし、そもそも祈莉の部屋にはそんな立派で大きなテーブルはない。


「どこがいいかなぁ……このチェストの上か、ベッド脇のサイドテーブル……でもなんか違うなぁ。目線の高さがこれじゃない感じで」

 あまり大きくはない自分の部屋をうろうろぐるぐる巡ることしばし。

「……あ」

 祈莉の目に飛び込んできたのは、本棚。中学校の時の教科書や参考書、問題集が整然と納められた段が二つ。一段分ではシュゼットの身長に対して低すぎるが――二段分なら。

「よいしょっと」

 何一つためらうことなく、祈莉は本棚の板を一つ外し、本棚のうしろにささっと隠してしまった。

 これで、二段分の高さを持つ『お部屋』の完成だ。



 そして、大事に持ち帰った大きな紙袋から、後桜川ごさくらかわ願生ねがい社長こと伯父さんセレクトの『プリ姫と遊ぶ上ですぐに必要になりそうなあれやこれやセット一式』を取り出す。……とりあえずこのネーミングは販売時は正式なものに変更されるようなので、祈莉の心配する領分ではない。


 まずは椅子。お姫様だし、やはり玉座は必要だ。

「……と言っても、なんか……木製の折りたたみキャンプ椅子みたいだなぁ」

 たぶんこれは、コストを抑えて持ち運びもしやすいようになのだろう。しかし、できればふかふかクッションや刺繍のある背もたれがついた猫足のチェアがいい。祈莉の祖父母の家にあるような、ああいう素敵な椅子。シュゼットにはきっとそっちの方が似合う。でもきっと――それは高価だ。


 うん。せめて、クッションだけでもいつか作ってあげよう。

 真っ直ぐ切って真っ直ぐ縫って、綿を詰めればできるはずだ。布は自分のお古のお洋服がいくらでもあるし、裁縫道具なら家庭科の授業のために用意したものがあるのだから。


 そんなことをささやかに決意しつつ、祈莉は紙袋からプリ姫の箱を引っ張り出す。

「よいしょ……っと」


 なるべく静かに、優しく、丁寧に、箱の蓋を開けていく。

「…………わぁ…………」



 箱の中には、相変わらずの美しさのドール。シュゼットが横たわっている。

 そっと、万が一にも傷つけないように慎重に、小さなお姫様を抱き上げた。

「……なんていうか……私のお部屋にお姫様が来てしまった……来ちゃった」


 シュゼットの、まつげの奥の硝子の瞳。

 複雑に描かれた光彩。

 ほんの少し角度を変えるとまるで違って見えて、万華鏡のような美しさがある。

 ……彼女の瞳を見ているだけで、いつまでも時を過ごせてしまいそうなほどに魅入ってしまう。


「……うん、まぁ、来ちゃったものは仕方がないよね……」


 瞳を覗いているだけでも半日ぐらい経ちそうなので、祈莉はそっと自分の目を閉じて首をぶんぶんと振る。

 早くお姫様を玉座にご案内せねば。


「えーと、こんな時なんていうんだっけ……『あばらやですが……』とかそういう感じかな」

 そっと、本棚の空間にシュゼットを案内する。


「……シュゼット。今日からよろしくね」


 素朴な木製の折りたたみチェアに座っていても、お姫様はお姫様だった。

 シュゼットがいるだけでこの黒っぽい本棚の空洞が、なんだか素敵なお部屋の一室に見えてきてしまうのが、不思議で素敵で楽しい。


「そうだ、この本棚がお部屋なら……ピンで布を上にとめたら……カーテンみたいにならないかな」

 祈莉はこの良い考えを早速実行に移した。

 大きな布は持ち合わせていないので、春夏物の白レースのストールを本棚の棚板にピンで留めていく。

 ――これはもしかして、なかなか可愛いのではないだろうか。



 わくわくしながら、流れるストールをカーテンのように纏めてみる。

 ……白いレースの中にいるシュゼットはさっきよりもさらに素敵だった。

 黒っぽい本棚の部屋の中、彼女の銀色のふわふわセミロングはきらきらしていて、それがカーテンとして利用したストールの白レースと調和していて。


「……可愛い」




 と、その時、ポケットの中のスマホが短い着信音を鳴らした。この音は、SNSのメッセージアプリのようだ。

 可愛いの海から顔を出し、一呼吸つくためにもスマホを確認してみる。



 タクミ@春眠などなかった:祈莉も、シュゼットの写真撮ってるか?

 タクミ@春眠などなかった:うちのミルフィーユが可愛くてやばい。

 タクミ@春眠などなかった:お姫様が自分の部屋にいるという背徳感と達成感がヤバい。さっきから姉ちゃんたちに落ち着けっていわれてるんだけど、でも今こんな日に落ち着いてられるような人間がいるわけがない。そう思うだろ?


 短い着信音とともに、巧海君のプリ姫であるミルフィーユの写真が何枚も何枚も流れていく。

 デフォルトのシンプルな白ワンピース姿にはじまって、髪色に合わせたのだろうピンク色のドレス姿のもの、花束などの小道具を持たせたもの、ポーズをつけたもの……。



 ……ミルフィーユ、さっそく熱すぎる愛情で真夏のあめ玉みたいに溶けてそうだなぁ。



 『同志』から流れてくる写真を楽しく眺めながら、祈莉はそんなことを思った。


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