第9話 ギルド難民なおれだが、決める時は決める

 突然、足元が激しく揺れ、おれは体制を崩した。地面がおびただしく隆起し、無数の亀裂が地表を縦横に駆け巡る。体を突き上げるような衝撃が不規則なリズムを刻み、おれを激しく追い立てると同時に、甲殻類の焼ける香ばしい香りが背後から漂ってくる。

 地震? じゃない。願いが届いたのだ。

 おれは剣で活路を切り開きながら、仲間の元へ走った。

ほぼ同時に、妖獣モンスター達の動きに変化が生じた。奴らはおれから目線をそらすと、香りのもとに向かって一斉に駆け出した。モーリと対峙していた巨人兵タイタン達も、戦闘をほっぽり出してこちら目指して走ってくる。

 巨人兵タイタンが立ち去った後に、ぽかんと口を開けたまま呆然と突っ立っている仲間達の姿があった。

「みんな、無事か?」

「おい、ギル。いったい何が起きた?」

 剣士が目玉をひん剥いておれを凝視した。

「ご馳走してやったんだ。大地の精霊と保管契約を交わしてた獲物をね」

「ひょっとして、あれか?」

 モーリが興奮気味に叫んだ。

「ああ」

 おれは頷きながら後方を見た。

 岩がごろごろ転がる荒野に、突如現れた小高い丘――おれが倒した長脚虫ロングレッグ変異体バグタイプだった。大地の精霊スピリットとの契約により、あの時の状態のまま保管されていたものを、ここに呼び出したのだ。保管状況は想像以上に良好のようだ。おそらく、あの時と同じ、熱々の焼きあがった状態のままなのだろう。香ばしい匂いは、まさしくあの時そのままだ。

「時間稼ぎは出来るけど、食べ尽くしたら終わりだろ? それに、かえってパワーアップするかもしれないぞ」

 剣士は物憂げに呟くと、重苦しい吐息をついた。

「大丈夫、あれは猛毒だ。一口でも食べればひとたまりもない」

 おれは自信に満ち溢れた声で剣士に返した。が、あくまでもあの変異体バグタイプの開発者であるクロウナが語った情報が正しければ、の話だ。

「ギル、効き目が出てきたみたいだな」

 頭上からモーリの弾んだ声が響く。

 おれは跳躍を繰り返しながらモーリの肩に上り詰めると、長脚虫ロングレッグ変異体バグタイプに群がる妖獣モンスター達を凝視した。硬い甲羅そのものは流石に食い破れないようだが、口や、脚の関節、奴が自分でぶち破った穴には、無数の火炎竜サラマンダー悪鬼ゴブリンが喰らいついている。そのすぐそばには、ひっくり返って腹を上に向けた連中が累々と重なっていた。仲間が絶命しても飢餓状態からの食欲が理性を根こそぎ奪い去るのか、長脚虫ロングレッグから離れる者はいなかった。

 巨人兵タイタン達は長脚虫ロングレッグの甲羅の淵に手をかけると、力任せにめきめきと引きはがした。途端に、びっしりと詰まった白い肉が顔を出す。それを見た奴らは、纏わりつく火炎竜サラマンダーを押しのけて、我先にと甲羅の中に顔を埋めた。が、しばらくすると、一人、また一人と崩れるように大地に倒れ込んでいく。毒は体のサイズに関係無く即効性があるようだ。

「モーリ、みんなを乗っけてあの遺跡まで飛べるか?」

「ああ、飛べると思う」

「この隙に片を付ける」

「だな」

 モーリは頷くと、かがんで両手の掌をお椀のようにくっつけ、地面に下した。

 おれはモーリの肩から飛び降りると、皆の元に駆け寄った。

「みんな、モーリの掌に乗ってくれ。これから一気にあの繭に向かう」

「分かったあ!」

 リイナがラグナログを突き上げておれに答えた。皆がモーリの掌に乗ったのを確認すると、おれは彼に手を挙げて合図を送った。

 モーリはゆっくり立ち上がると、膝を軽く曲げて跳躍した。巨体がふわりと浮き上がり、一気に空へと舞い上がる。

「凄い数……」

 リイナが眼下に見える妖獣の群れを凝視しながら、途方に暮れたような溜息をついた。

 余りにも異常な光景だった。大地を覆い尽くす程のありとあらゆる妖獣モンスター達が、長脚虫ロングレッグ変異体バグタイプにびっしりと群がっているのだ。

 おれ達を仕留める為だけに、これだけの妖獣モンスター達を飢餓状態に追い込んだステージを創造できるとは。

 闇蠢者ダークウォーカー――いったい何者なのだろうか。只のネトゲ廃人でもなさそうだ。

 モーリはゆっくり高度を下げると、眉のすぐそばに降り立った。静かな衝撃が体を軽く突き上げる。

 モーリが両掌をそっと地面に下した。不思議なことに、繭の周囲には、おれ達を狙う妖獣モンスター達の姿は何一つなく、さっきまでの殺気と喧騒に満ちた状況とはうって変わって静寂の時に支配されていた。

「この中にいるの?」

「ああ、たぶんな」

 リイナの問いに答えながら、おれは繭に触れた。途端に、痺れるような冷気が、指先から腕、体の芯へと突き上げる。ただの冷覚だけではない。明らかに感情と思念が入り混じっていた。拒絶でも、憎悪でも寂寥でもない。底知れぬ焦燥に覆われた苦悶とでも言おうか。切なさとやりきれなさが混とんとした不穏な思考の存在に、おれは戸惑いながら立ち竦んでいた。

 間違いない。あの時も、あいつはこれと同じ不可解な気を身に纏い、おれ達が徒党を組んで進撃するのを冷めた目で眺めていた。

 繭に、剣を突き立ててみる。

 無理だ。剣先のほんの一ミリですら突き刺さらない。

「ぶち抜くぞ」

 モーリが渾身の力を込めて大鉈を振り下ろした。大地を揺れ動かす凄まじい振動が、頭から大地へと突き抜ける。

 だが、繭の表面には傷一つ付いていない。

「たかが繭ごときにっ!」

 剣士は左右の剣を重ねた。青白い炎が刀身を包み、一瞬にしてそれは一本の長剣へと変貌していた。

 剣士は自分の背丈と変わらない長さの長剣で繭に切りかかった。刃が繭に喰い込んだ瞬間、長剣は大きく弾き返されると、剣士の手を離れ、後方に吹っ飛んだ。

「畜生! 何なんだよ、これ」

 剣士が顔をしかめながら手を抑えた。

「私がやってみる」

 リイナはラグナログを正眼に構える。

「やめとけ、無理無理。刃が跳ね返って下手すりゃ自分の額を勝ち割るぞ」

 剣士が八の字眉毛の困惑顔でリイナを制止する。

 が、リイナはやめなかった。すうっと静かに息を吸い込むと、猛禽類のような雄叫びを上げ、繭に斬りかかった。

 剣先が繭にめり込み、そのまま刀身が深く突き刺さる。真っ直ぐに振り下ろした刃は、

 複雑に絡み合った細い繭糸を断ち切り、表面に一筋の軌跡を刻んでいく。その軌跡が凄まじい速度で分岐し、繭全体に、無数の亀裂が走る。

 眉が崩落した。音一つ立てることなく、その繊維の一つ一つがエンゼルヘアーのようにふわふわと中空を舞い、地に触れると吸い込まれるように消失した。

「ひゃっほうっ! ラグナロク、凄過ぎいいいっ!」

 スウィルが頬を上気させながら歓喜の叫びを上げた。

 舞い上がる繊維の層が次第に粗密になり、その陰に隠されていた新たな輪郭が浮かび上がる。

 石組みの古代遺跡。コロッセウムのような、円形状の闘技場を彷彿させる遺跡は、風化したようなごつごつした表面の粗い岩が敷き詰められていた。

 見覚えのある光景だった。決して忘れることはない。この世界を訪れて初めて味わった敗北と絶望――命は助かったものの、おれの意識から自信と闘気を根こそぎ奪い去り、底知れぬ戦慄を縫い付けた悪夢の舞台だ。

 そして、その中央に、奴はいた。

 あの時と同じだ。

 おれの腰ほどにも満たない小柄な体躯。漆黒の法衣を纏い、フードを深々と被っている。ただ違うのは、おれが見る限り今の彼女は武器を携えていない。だが、それ故に得体の知れない不気味さが、静かに息をひそめていた。

 何かを企んでいる。それは明らかだ。

「何もしかけてこないのか」

「待てっ!」

 おれの制止を振り切り、剣士は遺跡に足を踏み入れた。刹那。彼女が履いていたブーツが無数の微細な粒子となって弾け、白い肌の素足があらわになる。

「え、何?」

 剣士は慌てて足を引っ込める。と、彼女の足には再びブーツが復帰していた。。

「みんな、いいか。むやみに遺跡には足を踏み入れるな。奴は自分の身の回りに妙な術を仕込んでやがる」

「前にお前が言ってたあれか?」

 モーリが顔を強張らせた。

「ああ、この世界での存在を無効化する特殊な術だ。あの時もほとんどの冒険者がこれでやられた。遺跡に足を踏み入れたら最後、武器や防具は分子化されてしまう。弓矢でここから打っても一緒だ」

「じゃあ、何? 手出し出来ないって事?」

 剣士は不満げに口を尖らせた。

「まあな。でも策はある。あくまでも仮説に基づいた推論だが――」

 おれは身を翻すと遺跡に足を踏み入れた。背後で剣士の呼び止める声が聞こえたが、答える時間はない。おれは素早く自分の装備を確認した。

 やっぱりな。

 納得いく結果に満足しながら、彼女との間合いを一気に詰める。

 彼女の瞳孔が限界まで開く。僅かに開いた唇が、明らかに動揺を物語っている。

 おれは剣を薙いだ。容姿は少女でも、その残忍さを目の当たりにしているだけに容赦の余地は無い。

 彼女は大きく弧を描きながら後方へ跳躍した。剣に宿るおれの気が及ぶ間を掌握しているような逃避行動だった。

「驚いたか。おれの装備が消えない理由、お前なら分るよな?」

 彼女は答えなかった。無言のまま、先程の動揺が錯覚であったかのように、表情一つ変えることなくおれを見据えていた。

「おれの装備は、元々この世界には存在しない。皆、おれ自身が作ったものだからな。お前と同じだよ」.

「いつ気づいた? 私が仕込んだ術式に」

 彼女は忌々し気におれをじっと見据えた。

「遺跡に飛び込んだ冒険者達は皆全裸になったのに、お前には何も起きていない。そこに目を付けたんだ。大勢の敵を相手に使う術式は個ではなく時空座標に仕掛ける。だから自分以外に及ぶようにするには、何かしらのキーワードが必要だ。それが『既製品』さ」

 おれの仮説は満更でもないらしく、彼女は目を伏せると重く冷たい吐息を長々と綴った。

「おまえの目的はなんだ? 冒険者崩れのろくでもない奴らに手を貸したり、変異体をあちらこちらに解き放ったり」

「罰を与えるためだ」

 透明感のある抑揚のない声が、静かに耳に響く。

「罰を与えるって? おかしくないかそれ。バグ・スレイヤーのように違法な来訪者ヴィジターを狩るのならわかるけど、おまえは反対に力を貸しているんだぜ」

「それが私のやり方だ。力を与え、自分が最強であるかのように己惚れたところを叩くのだ。思いっきり調子に乗ったところをな。それも、第三者によって」

 彼女は冷ややかな笑みを浮かべると嬉々として語った。

「自分の手は汚さずに、てことか?」

「手を汚す価値のない輩どもだからな。奴らはリアルでも人を傷付け、大罪を犯している。リアルでのうのうと暮らしている輩に、せめてこの世界では最高の罰を与えるべき。そう考えたのだ」

「お前のそのややこしい正義感のお陰で、変異体があっちこっちに現れては、大勢の来訪者ヴィジターやこの世界で暮らす異世界民ネイティヴが命を落としているんだ。そんな回りくどいことをせずに、自分の手で裁けばいいだろ」

「面白くないからだ」

「答えになっていない」

「面白くないほどに、直接手を下す価値がないのだ」

「結局、何がしたいんだ」

「この世界を凌駕する。そして、いずれリアルをもな」

 少女は動いた。真っ直ぐこちらに向かって、石畳の路面を滑るように走る。

 右手に白銀色の粒子が収束し、細長い形状を成していく。

 剣だ。それもラグナロク!

 一本だけじゃなかったのか。

 一瞬の動揺が、奴に隙を与えた。

 剣先がおれの喉元を狙う。

 おれはそれを払うと――新たな剣先がおれの胸を狙っていた。

 ラグナロクがもう一本?

 彼女の左手には、同じものがもう一振り握られている。

 剣先が描く軌跡を読みながら、身体を反転して後方に大きく跳躍し、間合いを取った。

「やるではないか。褒めてあげる。だが私の法衣や武器は、お前のように無駄な時間を費やして作ったものではない。私の思念を形状化させただけなのだよ。私がイメージすれば、ラグナロクは何本でも生み出せる。その能力も同等のものをね。勿論、それだけではない。今、我々がいるこの遺跡もそうだ。この意味が分かるか?」

 少女は蔑みともとれる笑みを口元に浮かべると、冷ややかな目線をおれに注いだ。

 彼女の野望は明確だった。

 神になろうとしているのだ。この世界において。

 そして、リアルでも。

 この世界のネットワークにシンクロして、精神世界に侵入し、リアルでもその威力を浸透させようとしているのだ。

 そんな事が出来るのか――こんな突拍子もないことを聞いて、真に受ける者はほとんどいない。

 荒唐無稽な話かもしれない。

 だが、ありうるのだ。

 事実、おれは幾つかの事例を見聞きしている。まあ、実際にはそうなる前に未然に阻止出来ているのだが。大抵の理由は、現実世界で希望を失った者が、こういった仮想世界を凌駕した挙句、それでも満足出来ずに現実世界とのシンクロを図ろうとするのだ。

 彼らの目的は、仮想世界で得た力で精神世界へ侵入し、現実世界を変えようとする事。それも、自分の欲望を満たすために。

 じゃあ、彼女は何のために?

 自分の欲望を満たすためか? 金? 名誉?

「仲間達は高見の見物か? 」

 少女は蔑みに似た冷ややかな表情でおれを見つめた。

「おれが望んだ。手を出すなってな」

「ならば」

 不意に、足元がふわっと軽くなる。

 地面が、石畳が急上昇している。

 こいつ、何を企んでいる?

 止まった。

 先程まで無かった風が、急におれの体を包み込むように吹き抜けていく。

 空が近い――決して気のせいなんかじゃない。

「これで、誰も邪魔は出来ない。雲すら手に届くほどの高さだからな。まあ、邪魔だて出来る程の者はいないようだが」

 少女が跳んだ。

 速い。

 残像すら追えない桁外れの速さだ。

 二振りの長剣は絶妙な時間差でおれを襲う。

 息一つ乱さず繰り出される剣技に、おれはやむなく防戦に徹すしかなかった。

 隙が無い。

 ほんの一瞬でいい。少女の懐に一太刀滑り込ませられるだけの隙さえあれば。

 おれの焦燥を感じ取っているのか、仄かな笑みすら浮かべながら猛襲する彼女の剣撃には、容赦など微塵も感じられない。

 額が、汗がしたたり落ちる。

 やばい、汗が目に入った。

 顔をしかめた刹那、おれの手から剣が弾き飛ばされる。

 勝機を手中に得た少女の満足げな顔が、間近に迫る。

 おれの喉元を狙う二つの刃。

 時が満ちた。

 おれは一瞬きをも凌ぐ速さで頭に巻いた革布を取りほどくと、目と鼻の先にまで迫った二本の刃に巻き付けた。

 少女の顔に、初めて戸惑いの色が浮かぶ。

 もらったっ!

 おれは革布で巻き取った刀身を抑え込みながら体を捻り、彼女の手から力任せに剣を奪い獲った。

 革布ごと剣を投げ捨てる。

 至近距離に迫る少女の顔。

 笑ってやがる。

 人を嘲り見下す様な、冷たい眼差しがおれを捉えている。

 両肩に、妙な違和感。

 少女の手には、奪取したはずのラグナロクが握られていた。

 二振りの刃は、それぞれおれの肩を深々と貫いている。

 奪い返された?

 否、違う。視線の端に、革布に包まれたまま、石畳に転がっている剣が捉えられている。

 肩の傷口から噴き出した鮮血が、石畳を深紅に染めていく。このゲーム世界の性質上、大怪我を負っても痛みはない。だが、脈打つごとに血が噴き出すにつれ、体力は確実に減退するのを感じていた。

「愚かな。忘れたか? 私はこの剣をいくつでも生み出せる事を。もっと楽しませてくれると思ったのに、残念だ」

 少女は不敵な笑みを浮かべた。

 不意に、彼女の笑みが凍り付く。かっと見開いた両眼が、驚愕に小刻みに震えていた。

 少女の胸を、刃が貫いていた。

 彼女がおれの手から弾き飛ばした剣の刃だった。

「ごふっ」

 少女は苦し気にむせると、歪んだ口から激しく吐血した。

「黄、貴様……?」

 少女は忌々し気に己の胸を貫いた凶器を睨みつけた。

「全て、計算通りさ……剣を生む瞬間、お前の意識が一瞬、其方に注がれる……それが狙いだ。それに……お前にとっての死角は、ここしか無かったからな」

 おれは、精いっぱいの笑みを浮かべた。

 少女を貫いた刃は、おれの腹から生えていた。

 彼女に剣を弾き飛ばされるのも、またそれがどこに飛ばされるのかも、全て計算の上だった。

 少女の撃剣をかわしながらおれが探求していたのは、彼女にとっての死角の存在だった。

 結論は、すぐに出た。

 おれの背後――それも、完璧に姿と気配を殺した状態でないと困難を極めるのは予想がついた。

 そうなれば、方法はただ一つ。彼女との間合いを詰めるタイミングで、刃を呼び戻しておれの体を貫き、その勢いで彼女を突くしかない。

「見事だ……な。私の期待を裏切らない、見事な反撃だ……」

 少女は引きつった笑みを口元に浮かべながら、ゆっくりと退いた。双方を貫いた刃が、体からゆっくりと抜けていく。

 おれを背後から貫いていた剣の刀身が、急速に収縮していく。それは自力でそろりと抜け、おれの右手に舞い戻って来た。

 剣は元のナイフサイズに戻っていた。急速に委縮していくおれの気力に連動したのだ。

 失われつつある筋力を奮い立たせ、ナイフの柄を辛うじて握りしめる。だが、今のおれには、先程まで繰り広げられた撃剣の応酬は到底不可能だった。

 少女は、おれの血潮で汚れた剣を軽く振った。刀身に付着していた血潮が、水滴となって路面に散る。

「これで、お前も終わりだ……お前が結界を解かない限り……治癒の秘文は使えない」

 おれは少女を見据えた。彼女の胸を貫いた刃は心臓からは外れたものの、肺を傷付けているらしく、むせ返るたびに口から泡の混じった鮮血が吐出していた。

「その手にはのらない……そう言って術を解除させるつもりだろうが……ぐほっ……そうは、いかない」

「残念だな……お前の方が、遥かに重症だ。おれは三か所傷を負ったが、内臓には傷一つ付いていない。お前はは少なくとも肺に傷を負っている……そうだろ?」

「何!」

 少女の目に、ぞっとするような憎悪を孕んだ冷たい輝きが宿る。

 だが、その輝きは、殺戮を厭わない残忍性を秘めたものじゃない。むしろ深い悲しみの色を帯びていた。それも、失望に近い悲しみに。

 彼女の周囲の空間に無数の銀光が収束した。

 ラグナロクだ。それも、まるで海洋に群れる魚のように、中空に整列して漂っている。

 おれは息を呑んだ。

 物を中空に浮かせる術式は珍しいものじゃない。おれの目が釘付けになったのは、その数だ。半端な数じゃない。全部で百本は下らないだろう。

 これが、彼女の力。無から有を生み出す、本来ならば創造神にのみ許された至高の権限の真骨頂。

「私を楽しませてくれた礼だ。せめて、一瞬で楽にしてやる」

 彼女の顔に憂いに満ちた陰りが浮かぶ。

 彼女の剣が動く。

 まるで餌を求めて群がる魚群のように、剣は殺意を孕んだ剣先をおれに向けると、一斉に白銀色の軌跡を空に刻んだ。

 くそう、これまでか。

 奥歯をぐっと噛み締める。

 刹那、突然、背後から、おれの前に人影が踊り出る。

 ショートヘヤーの全裸の若い女性。後ろ姿しか見えない。

 誰だ?

 闇蠢者ダークウォーカーの結界内は、この世界での既存設定は全て無効になる。だから、例え仲間の誰かであっても彼女が誰なのかは分からない。

 両手でラグナロクを握りしめている。

 まさか。

 リイナ……か?

 一斉に襲い掛かる無数の剣。

 彼女の剣が一閃する。

 ラグナロクの流星群を一気に粉砕すると、間髪を入れずに、一気に少女との間合いを詰めた。

 二人の体が重なる。

 少女の両手が小刻みに震え、剣を握りしめていた指が弛緩した。彼女の手から剣が零れ落ち、石畳の路面と衝突すると、苦悶に歪む無機質な不協和音を奏でる。

 少女の背中から、鮮血に濡れた刃が突き出ていた。

「もうやめようよ。こんなことしても解決しないよ」

 リイナはゆっくりと剣を抜いた。少女は激しく咳き込むと口からどす黒い血反吐を吐き出した。

 倒れこむ少女を、リイナがやさしく抱き留めた。

「戻っておいで」

 彼女は少女の耳元でやさしくささやきかけた。少女は打ち震えながら、目を大きく見開いた。遠くを見つめる少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

 少女の体が、さらさらと乾いた音を立てながら崩れていく。微細な砂状にまで分子化すると、静かに風に舞いあげられ、消えた。同時に、石畳の路面に散らばったラグナロクも、そして石畳の路面も、無数の石柱も――巨石が連なる遺跡そのものが、急速にぐすぐすと崩れ、分子化していく。

 まずい、忘れていた。この遺跡自体も闇(ダー)ニ(ク)蠢(ウォー)ク者(カー)の創造物だった。

 足元が激しく揺れ、石畳の表面に無数の亀裂が走った。

 膝ががくがくと崩れる。

 まともに立っていられなかった。

 直面していた危機を回避出来たという安堵感が、無理やり奮い立たせていた気力を根こそぎ奪い去り、緊張の糸をずたずたに切断していた。

「ギル、大丈夫?」

 リイナが心配そうにおれに駆け寄ると、治癒の秘文を紡いだ。流血が止まり見る見るうちに傷口が塞がっていく。闇蠢者ダークウォーカーが倒れた今、奴の空間制御も解除されたのだ。残念ながらおれの目の前にいるリイナも、革の鎧とミニスカートに長髪といった元の容姿に戻っていた。

「リイナ、どうやってここに?」

 おれは訝し気に彼女に尋ねた。闇蠢者ダークウォーカーは、俺と対峙したときに、追手がこれ以上来ないよう遺跡を巨塔のように嵩上げしたのだ。最初の状態ならまだしも、雲が間近に見える程にまで伸長しきった状態では、羽があるか飛行の術式を使わない限り、ここまで来るのは至難の業だ。

「モーリに頼んで運んでもらったの」

 興奮状態でアドレナリンが出まくっているのか、リイナは顔を真っ赤にしながら弾む声で答えた。なるほど、その手があったか。

「ならすぐに逃げろ。この遺跡は闇蠢者ダークウォーカーの思念で作られた創造物だ。あっという間に分子化して消え失せる、そうなりゃ地上に真っ逆さまだ」

「遺跡なら消えたわ。もう完全にね」

 リイナは微笑みながら落ち着いた声でおれに返す。

「えっ? でも――」

「私達がいるの、モーリの掌の上よ」

 慌てて下を見ると、びっしりと視界を埋め尽くす硬い鱗が見える。

 さりげなく周囲を見回すと、鋭い爪を生やした長い指が至近距離に映った。右手の様だ。

 反対側の左手を見ると、スウィルやポーター、それに剣士とそのパーティーの面々がこちらに向かって手を振っていた。

「いつの間に……」

「さっき足元が揺れた時があったでしょ。あの瞬間、モーリが救い上げてくれたの」

 驚いた。さっきのあの瞬間にか。

「リイナは知ってたんだな、闇蠢者ダークウォーカーが誰なのか」

 リイナは悲しそうに涙ぐみながら黙って頷いた。

「ごめんなさい、今まで黙ってて。あれは、私のもう一つの姿。憎しみと怒りと絶望が人格化し、この世界に同化しようとした、もう一人の私」

 リイナは目を伏せると、おれに淡々と語った。

「リアル世界で何があった? 」

 おれはリイナをやさしく見つめた。だが、彼女はそれ以上語ろうとはしなかった。小刻みに震える唇が、それ以上語る事自体、彼女にとって耐え難い苦悶である事を物語っていた。

 リイナは意を決したのか、重い口を開いた。

「情けなかった。何も出来ない自分が。だから、この世界にきて気を紛らそうとした。でも、この世界も、結局リアルと同じだった。何もできない、不甲斐ない自分に苦しんでいるうちに、私は、私の中に息づくもう一人の自分に気付いたの。怒りと憎しみに暴走しかねない、残虐な自分に」

 リイナの唇から重い吐息が零れる。

「さらけ出すわけにはいかなかった。危険な存在であるのが分かっていたから。でも、最後には抑えきれずに、私から出て行った」

「それが、闇蠢者ダークウォーカーか」

 リイナは黙って頷いた。

 闇蠢者ダークウォーカーがリイナのもう一つの姿だったとしても、おれは彼女を責める気にはならなかった。それよりも、ただ哀れみの情だけが、おれの心をじわじわと満たしていく。

 複数のアカウントを使って仮想世界を徘徊するのは珍しいことじゃない。

 でも、彼女の場合は違った。自らの存在から、もう一つの自分が彼女の意に反して離脱したようだ。

 現実世界に戻りたくない――ただそれだけの逃避行動じゃない。自分の意思に反する自我の離脱――否、強制剥離とでもいうべきか。

 彼女は被害者なのだ。ある意味では闇蠢者ダークウォーカーも。

 真の悪は、そこまで彼女を追い詰めたリアル世界にある。

「創造神からのメッセージで、もう一人の自分がこの世界を支配し、精神面からリアルを操ろうとしているのを知ったわ。止められるのは私しかいない。私一人で何とかしないと――でも、それは間違いだった」

 彼女は、嬉しそうにを見回した。

「そういうことさ、仲間だからな。いつだって手助けするぜ」

 おれは、リイナの頭を手でぐりぐりとかき回した。

「さて、帰るか。まだやらなけりゃならないことがあるからな」

 リイナは澄んだ瞳でおれを見つめると、意を決したかのように力強く頷いた。

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