第14話
トワはクスクスと笑いながら右目で私を見据える。
「奥さんのご容態はいかが? 大変でしょうねぇ。初産なのに」
汗が噴き出る。
トワはナナセに何があったかを知っているのだ。
「どうして……」
間の抜けた声で間の抜けた質問をした。
いったい何に対しての「どうして」なのか、自分でも要領が掴めなかった。
トワの答えは明瞭であった。
「貴方が好きだから」
何度も聞いた言葉である。だが、私はその言葉の持つ重さをようやく知ったのだ。彼女の執着と愛憎の深さを、愚かにも初めて理解した。
「ハトムギはね。問題ないの。駄目なのはカビ。管理が杜撰だとカビが出ちゃって、それを飲むと子宮が縮んじゃうんだって。それでお腹の中にいる赤ちゃんが、ね」
無邪気な笑顔をトワは浮かべていた。悪戯が見つかった子供のように朗らかな、爛漫とした笑顔である。
「どうして……」
繰り返す同じ問い。しかし今度は何が聞きたいのか明確であった。何故彼女はナナセがいただいたという茶の事を知っているのか。いや、答えは分かりきっていた。私は恐怖から信じたくない事実を、あえて彼女の口から明るみにしようとしていたのだ。それは、彼女が……
「……中本さん?」
そう言ったのはナナセであった。
いつの間にか寝室から出てきて、私の後ろに立っていた。
「お久しぶりナナセちゃん。ご機嫌いかが?」
トワの口角は裂けんばかりに上がり、真っ赤な舌を覗かせていた。その表情は私に見せた事のない、明確な殺意が含まれていた。
「ねぇ。赤ちゃん。死んじゃったんだよね? かわいそうだねぇ。かわいそうだねぇ」
呆然として立ち尽くすナナセは今にも死んでしまいそうな、絶望的な顔をしていて、トワはそれを楽しんでいるかのように喋り続けた。
「全部ね。全部。全部駄目になっちゃったね。貴女言ってたね。怖いけど。旦那様と生きていきたいって。一生懸命赤ちゃん育てたいって。残念。残念だね」
空気が歪んでいるような気がした。
呼吸が困難となり、汗が噴き出す。
しかし、これは……
「あ……」
ナナセはとうとう膝から崩れ落ちてしまい、胃の中身を吐き出した。白く濁った僅かに食べた粥と胃液が床に落ち、異様な臭いが鼻についた。
「かわいそう。かわいそう。でもね」
相変わらずトワは笑っていた。笑いながら玄関を上がり、ナナセの方へ向かい歩いて行った。
手には何処かに隠していたナイフが持たれていた。
私はそれを見ていた。
止めもせず、ずっと眺めていた。
恐怖で竦んでいたからではない。
混乱し身体が動かなかったからでもない。
トワがナナセに何をするかは明白だった。
だからこそ、その結末をこの目で見届けたかった。
自らが果たせなかった、待ち望んでいた暴虐を!
「貴方邪魔だから。ごめんね」
ナイフがナナセの顔に刺さった。鮮やかな鮮血が流れ、彩る。
トワは何度もナナセを刻み、身体に穴を開けていった。新しい傷ができる度に新しい血が溢れ出し、とても綺麗で、官能的だった。そのうちにナナセは動かなくなってしまった。
ナナセの白い肌がより薄く、透明になったようで美しかった。私はずっと彼女がそうなる様を見たかった。ずっとずっと我慢していた。不可能だと思っていた事が現実となった。待ち望んでいた彼女の破壊が実現されたのだ!
「死んだ。死んじゃった。死んだ。死んだ」
トワは相変わらず笑っていた。いや、そう感じただけかもしれない。というのも、私は既に醜いトワなど視界に入っていなかった。両眼に捉えていたのは、血に塗れたナナセであった。
「ねぇ。貴方。これでずっと二人きりになれるね」
彼女の盛ったような荒い吐息は下品であったが、それが返ってナナセの芸術性を高めているようで唆った。醜悪なトワの価値を欲求の処理以外で初めて認める事ができた。
「ねぇ。一緒に暮らしましょう。しばらくはこの家でもいいから。貴方と私と二人きりで暮らせばきっと幸せだから。ね。そうしましょう。ね。ね」
それもいいかもしれない。トワと、ナナセの死体と一緒にいれば、それだけで幸福のような気がする。
「ねぇ。貴方……」
だがそれはあまりに都合が良い話であった。そんな幸福が、私に用意されているわけはなかった。
「……」
沈黙。彼女の視線が、私を刺す。
「……どうして」
トワが、私が彼女を見ていない事に気がついた。私がナナセの死体ばかりを見ている事に、気がついた。私が魅力されてしまっている事に、気がついた。
「……なんで」
トワから明確に笑いが消え、湿った音が混じった。私は彼女のそんな声を、恐らく初めて聞いた。
「駄目。駄目だね。駄目。駄目。駄目」
トワは泣いていた。泣きながら、ナイフで自分の胸を何度も刺し、果てた。
ゴボゴボと噴き出る体液が薄汚く思えた。あれだけ美麗に映ったナナセの死体と何がどう違うのかは未だに分からない。確かな事は、二つの死体を見て、私は射精に至ったという事だった。
程なくしてけたたましくサイレンを響かせて警察が何人もやって来た。どうやら出前を頼んだ蕎麦屋がいつの間にか来ていて通報したらいが、詳しくは覚えていない。私はとにかく、二つの死体に、トワとナナセの最後に魅入られてしまって、しばらくは動く事も考える事もまともにできなくなってしまった。まるで、魂を吸い取られたように。
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