第13話
以来ナナセは床に伏せたままだった。
私は何度も声をかけたり食事を持って行ったりしたのだがまったく反応がなく、何かにつけて「ごめんなさい」と言われたのだった。その度に私は悩み、考えた。どうすれば彼女の薄い意識がはっきりとするか。磨耗した精神が回復するかを。
初子が生まれる事に「怖い」と消極的だったナナセがこうも憔悴するとは思わず、また不思議で、「子が流れるとはそうも意気を削ぐものかい」と、迂闊な尋問をしてしまいそうであった。
部屋にいては黙っているばかりで私まで塞いでしまいそうだったので暇を見つけて藤先生のところへ行き原因を聞いてみたが、「分からない」の一点張りであった。ややもすると藤先生が藪であり要らぬ処方をしたのではないかと疑ったが、懐妊初期に医者が患者を突くような真似はしないだろうし、ナナセから薬をもらったとも聞いていないのだからその線は消えた。では何が悪かったのかと苛立っている自分に気付くとおかしかった。ナナセと同じように、こうも人が変わるものかと思った。
「何か、子供によくないものを飲んでしまったとかはありますか」
何度目かの訪問の際、今後の処置のついでに私は先生にそう聞いた。もう何度もうかがっていたから先生は少しうんざりしていたように見えたが、答えをくれた。
「そりゃああるでしょう」
「例えばお茶なんかどうですかね。これ、嫁がもらってきたものなんですが」
私は中本さんからいただいたという茶の元を先生見せた。すると、茶の元を手に取り匂いを嗅いだのち、溜息を留めたように言葉を吐いた。
「はぁ……こりゃあハトムギですか。まぁ、これは大丈夫でしょう」
「そうですか」
気のない返事に項垂れ、「ありがとうございます」と礼して病院から帰宅した。家はナナセがいるのにも関わらず、いやに静かで一人でいるようだった。毎日用意されてきた食事はもはやなかった。仕方なしに蕎麦の出前を頼み、ナナセには今朝作ってやった粥(一口だけ口にしたが後は食べなかった)を温め直して部屋に置いておいた。
時間は昼過ぎだった。何をするわけでもなく、居間に落ち着く。
これからどうしたらいいのか正答が出ずに椅子にもたれる。ナナセの容態を視るに楽観はできない。
なぜあれほど気が落ちるのか男の私には理解しかねたが、ナナセほどではないにしろ私も様々な考えが頭を過っていた。懐妊の報告を受けたあの時出ていかなければ、普段からもっと優しくしていれば、彼女の話しを聞いてやっていれば、事態の回避はできなかったにしろ、予後は今よりよかったかもしれない。
逡巡は途切れる事なく煩わせる。が、本音を言えば、流れて安堵していた部分が、私にはあった。
確かに子を授かり心の変質はあった。だが、やはり、腹の底では、家庭に生じる異物について私は一抹の不安と危惧を抱えていたのだ。女の臓腑から這い出て育ち、私達の精魂を吸い取る存在を許容できるか自信がなかった。
他者への暴力性云々ではなくそうした人間性こそが私に備わった真の悪徳であった。一個の命を、生命を軽んじ価値を見出せない欠落こそが、私が持つ最大の罪であった。
故に、この後に待つ顛末は起こるべくして起こったいっても過誤ではないだろう。
幸福も平凡も、私には用意されていなかった。何一つ清算しておらず、虫よく、嫁と二人で暮らす毎日などという幻想が、実現するはずがなかったのだ。
暗鬱なる沙汰への帰結はむしろ当然であり、また必然である。その始終を映す悲劇の幕は、直ぐに上がった。
「こんにちはぁ」
玄関から聞こえた声。
それは頼んでいた出前持ちの声ではなかった。
艶かしく禍々しい、嬉々とした、狂気を孕んだ音吐。発する人間は、一人しかいない。
立ち上がった拍子に椅子が倒れた。だが、直す暇はない。私は声の元まで駆ける。すると、立っていたのは、やはり。
「ごきげんよう。どうしたの。そんなに慌てちゃって」
「……トワ」
醜い肢体を弛ませた、トワであった。
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