第12話

 それから私とナナセは元のように過ごした。

 私が起床すれば朝食が用意されており、仕事から帰れば夕食と風呂の準備がしてある、何不自由ない生活が続いた。

 夜に関して、私は一切手を出さなかった。仕様がなくなった際は店に行き女を買って凌いだ。商売としての機械的な行為は虚しさを肥大させる一方であったが、一時的な鎮静作用は働いていたので殊更問題にはならなかった。

 

 再開したナナセとの毎日は慎ましく退屈ながらも、平凡な、極めて一般的な幸福に満ちた素晴らしいものであったに違いない。私も彼女も控え目な笑顔を見せ合う凡庸な家庭であったように思う。腹の子に関しても二人ともとうに覚悟を決めておりそれほど気にはしなかった。時折ナナセがシクシクと泣く事はあったが、抱きしめてやると落ち着いた。


 一ヶ月が経った頃、ナナセは仕事を辞めると言い出した。私は勿論了承し、産前の療養に努めるよう言い渡した。何かと口喧しい私に対してナナセは「どちらが産むか分からないですね」と軽口を叩きケラケラと笑っていたが、様子であったが、夜に一人俯いている姿を見てからはなるべく気を揉ませるような言葉は控えた。


 不安はあったし、互いに思うところはあったただろう。しかし、私達は子供のために、家族のために生きようとしていた。共依存のような関係も、信頼に変わったような気がしていた。私はナナセとの生活に、心からの満足を感じていた。


 新たな命を迎える準備は整っていた。私もナナセも不慣れながら、初産の日を待った。

 不思議なものでいざ子供ができるとなると私の性格にも少しばかりの変化が見えた。あれだけ嫌っていた子供が、愛おしくて、待ち遠しくて仕方がなくなっており、庇護の念というか、責任というか、ともかく母子共々守らねばならぬといういう意識が何処から現れたのだ。これを父子性というのかは定かではないが、ナナセと彼女が宿した命に対して私は真っ当でありたいと、そうでなければならないという信念が生じていた。他を傷付け、その様子を見て悦楽を覚えていたどうしようもない人間が人並みの幸福を望み守ろうとしていたのだ。かつてのような、体裁や他者の目がありるからという理由ではない。純然たる感情による想いである。私は初めて、私以外の無事と幸運を願ったのだ。


 果たしてこのまま幸福を享受できるのであろうか。そんな甘い話があるわけがないと私自身分かっていた。しかし、私はそれを夢見ていた。壊すわけにはいかなかった。

 気掛かりとなる要因は数多にあったがやはり一番はトワである。あの日抱いて以来、私の前から姿を表さなくなった彼女の存在が不気味で仕方がなかった。もしかしたら煙のように霧散し消滅しているかもしれないと益体のない妄想をするも溜息しか出ない。或いは私に飽きたか、諦めて遠方へ移ってくれていたらよかったのだが、存在が掴めぬ以上はやはり恐ろしく思えた。


「浮かない顔はよしてください」


 私がトワの事を考えているとナナセは決まってそう言った。きっと自覚なく難しい顔をしていたのだろう。一応「すまないね」と謝りはするが、またすぐにトワについて巡らせてしまい、注意されるという日が続いた。その頃にはナナセはもう仕事を辞めていて一日家にいるものだから神経質になっているようであった。憂さ晴らしなのだろうか、餞別として職場にいる中本さんにもらった茶を酒のように煽るので咎めた事があるが、「このお茶は成分がいいんですって」と言って聞かなかった。この時、無理にでも止めておけば先にある悲劇は防げていたかもしれない。いや、どの道破滅しかなかっただろうか。ナナセは、私と彼女の子供は、私が存在する以上、悲劇が約束されてしまっていただろうから。





 それはよく晴れた日であった。

 雲のかかる事のない空が眩い陽光を地上に届け、影の黒すら濁す淡い橙色が満ちていた。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 紐が切れた人形のように伏してそう述べるナナセは亡者のように色艶がなく、悲愴であった。


「君のせいじゃない。君のせいじゃない」


 私も彼女と同じように同じ言葉を続ける事しかできなかった。


「ごめんなさい」


 私もナナセも等しく罪の意識に囚われ、壊れたように繰り返す以外できなかった。


「君のせいじゃない」


 涙すら流れぬ悲劇は次縹つぎはなだの空に照らされ徒花を枯らせ、私とナナセを紡いでいた一糸は途切れてしまった。

 後は、ただ、儚く、やるせなく、漂うばかりで……

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