第11話
いつまでも玄関の前で立ち往生していても埒がなく曲線を描くドアノブを押す。指が震えていたのを、よく覚えている。
恐る恐る玄関に入ると料理の匂いが漂っていた。魚が焼けているのが分かるが、何を焼いたのかは分からなかったが、どこか覚えのある、生活に馴染んだ香りだった。
捨てようと思った、日常が急に惜しくなった。
私はナナセに詫びようと思った。洗いざらいを述べ、懺悔して許しを請うつもりであった。何を言われても甘んじて受けようと心に誓った。それでいて、もうすっかりと彼女に許してもらうつもりでいたのだから救い難い。私は謝罪を罪の禊としてではなく、関係修復の手段としてしか捉えていなかったのだ。
「ただいま」
靴を履いたまま立ち、実に弱い声でそう言った。すると、細やかに進む足音が聞こえる。
「お帰りなさい」
ナナセであった。
ナナセがエプロンをつけて、ゆっくりとやってきたのだ。
彼女の様子は別段変わりなかった。一日空けただけなのだから当然ではあるが、それが物足りなく感じた。私の不在に慌焦燥しやつれていてほしかった。
「ご飯、お召し上がりになりますか?」
「あぁ、もらうよ」
そしていつもと変わらぬ様子で口をきくのだから拍子抜けである。
「魚を焼いているね。なんだい?」
「
「そうか」
間の抜けた会話をしながら居間に行くと、私の分の食器がしっかりと用意されていた。まるで今日この時分に帰ってくるのを予想していたようであり、逃げ出した犬が餌の時間に戻ってくるようだなと思った。
「どうぞ」
「あぁ……」
鰆と味噌汁とお新香が出され、卓にあった空の茶碗に白米が盛られた。胃に物を入れていなかった為か随分美味しそうな、大変なご馳走のように見え、得難い生活とはこうした物だと勝手な解釈をし、涙を流した。
「どうかなされたのですか?」
「すまない。私は、取り返しのつかない事を、君に酷い事を言ってしまった」
「昨晩の事ですか?」
「あぁ。そうだ」
「そうですか」
「すまない。許してくれるかい?」
「はい。貴方がそう仰るのであれば、そう致します」
至って冷静に、平然と話をするナナセとは対照的に感傷に浸る真似をする私はまともではなかった。いやこの場合、ごく普通に会話を行える彼女の精神に問題があるだろう。暗に、「お前が責を持って子を下ろせ」と言った人間と対峙して、どうして顔色一つ変えずに淡々と声を出せるのか不思議でならなかった。
「昨晩、藤先生に診てもらいましたの。やっぱり、おめでただって。おかしいですよね。ちっともおめでたくないのに」
初めてナナセの表情に変化が見られた。それは渇いた、諦観したような薄い微笑であった。
「めでたくないなんて、でたらめを言うな。僕は君が子を宿してくれて大変嬉しいんだ。是非、産んでくれるかい」
もし、誰かが一部始終を観ていたら、きっと私の豹変を嘲笑うだろう。昨日まであれだけ冷血漢を演じていたというのに、取ってつけたように喜んだ振りをして、その実自分は不貞を働いているのだから。喜劇にしては三流だし、ジョークであってもあまりに下衆だ。しかし、そんな私をナナセは……
「貴方が仰るのであれば、そう致します」
彼女は私を見据え、、下手な口車に乗ってくれたのだった。
「本当に許してくれるのかい? 子供を産んでくれるのかい?」
「はい」
「いいのかい? 怖くないのかい? 赤ちゃんを産むんだよ?」
「怖いですけれど、貴方が守ってくださるのでしょう?」
「あぁ……あぁ! 守るとも! 何があっても君を見捨てない! 死ぬまで一緒にいると約束しよう!」
「そうですか。でしたら、お早目にお食事をお食べになって。冷めてしまいますから」
「そうだね。いただくよ。ありがとう。ありがとう……」
私は用意された料理を半ば無理やり口に放り込み、憚る事なく涙を流し続けた。
味など覚えていなかった。ただ、自己陶酔もここまでくれば大したものだなと嗚咽しながら感心した。私は所詮下衆で凡そ人らしい感情など持てないのだから、わざとらしく弱者を、迷える羊を装うしかできないのだ。
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