第10話
部屋から出た私は宿を取って過ごした。
家には、ナナセの元には帰れなかった。罪悪感もあったが、何よりトワの蠱惑に当てられ正気でいられる自信がなかった。今度こそ彼女を壊してしまいそうで、恐ろしかった。それにあれだけ最低の言葉を吐いて出てきたのだから今更顔を見せるというのも気が引けた。こんなところだけ嫌に凡庸で小心なのが、乾いた笑いを誘う。
小さな部屋に置かれた小さなベッドに横になるとトワの臭いがして忌々しかった。先まで劣情を催していたのが嘘のように不愉快で、私はすぐに狭く、清潔とは言い難い浴室で身体を洗ったのだった。
これからどうしようか。
身体を流し、薄いローブに袖を通して今後について頭を巡らせるも、後悔と不安ばかりが先立ち一向に糸口が見つからなかった。すべてをなかった事になどできるわけもなく、となると、やはり元の生活は二度と訪れないだろうと思った。
かくなる上はもはやナナセを捨て、気まぐれにトワを使って憂さを晴らすしかないと、そうなれば、それはそれで面白そうだなと皮算用を働かせるのだった。今後トワが死ぬまで、私が飽きるまで勝手にできるのであれば悪くない。どこかでナナセの代わりを見つけて今と同じような生活を営んでいてもトワが勝手についてくるわけだから、その都度、今日のように利用するだけ利用してやればいいのだという浅慮に盛り上がり、下卑ていた。遠くにいる旧友を頼れば働き口くらいはなんとかなるし、自分で会社を立ち上げてもいい。自由を買ったと思えばナナセには払う金も惜しくはない。考慮すべきは周りの目だがそれも慎ましくしていれば自然と収まるだろう。誰か親しくなった人に、さも秘密にしてほしいという体で「実は前妻は心の方をね」とでも言って泣いておけば勝手に話が広まり同情も集まる。何かのきっかけでナナセの為人が知れたとして、あれは時に病的に人を避ける傾向にあるからまず私の話は疑われないだろうという確信があった。何もかもが上手くいくと疑わなかった。
果たして、私は本気でナナセの元を離れようとしていたのだろうかとたまに疑問が生じる。いや、あの時は確かにナナセを見捨て、生涯トワを肉として味わおうという計画を立てていた。ややもすると、宿に備え付けてあるメモに稚拙な案を残していたかも知れない。暗く塞ぎ込んでいた反動で愚かなほど楽天的になっていた私の所作は衝動的で思考を伴わないものであり、頭に残っている明瞭な景色は、半狂乱を過ごした部屋に刺す朝日の光であった。寝たのか寝ていないのか分からぬままチェックインまでの時間を過ごすのは夢の中の一幕に等しく、昨夜から何も食べていないはずなのに腹は減らなかったし、喉の渇きは苦にならなかった。こんな感覚がずっと続けば楽なのにと思った。欲もなく、得られぬ事に一々怒り、悲しむ必要がないのであれば満たされるとか満たされないとかに頭を悩ます必要がなかっただろうにと夢想した。すると、不思議と涙が溢れ、この世の全てが哀れで堪らなくなってしまった。生きるという事が可哀想で可哀想で仕方がなかった。産まれてしまった事を悲観せずにはいられなかった。私は、私を含めた全ての人間に、生物に、おこがましくも同情せずにはいられなかったのだ。
時計を見ると針が十時前を指していた。出る支度をしなければならなかったが、どこへ行こうか決まっていなかった。昨日に缶コーヒーを飲んでいた時とまるで変わっていないと思うと、少し苦しくなった。
結局のところ家に帰る他なく、ナナセになんと言えばいいか、どんな顔をして会えばいいのか考えている内に到着してしまったのだった。目の前にある玄関の扉が随分重く見え、ドアノブに手を掛けるのに戸惑いがあった。彼女は部屋にいるだろうか。怒っているだろうか。私を見て、なんと言うだろうか。不安ばかりが重なり、心臓が重くなる。
嫌な汗を随分流した。慣れ親しんだ家が、まるで他人の住処のように見えた。先まで決別の道を進もうとしていたというのにまったく意気地がなかったなと、今にして思う。
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