第9話
この時の私は不義理に対する自責の念よりもトワの肉を自由にできる喜びの方が優っていた。
干からびた身体に水が染み込んでいくような、絶食の後にたらふく胃に物を入れるような、安い言葉を使うのであれば、生きているという実感をこの身に持つ事ができたのであった。深淵に引き込まれ、もはや遊びで済むものではなくなっていたのだ。あるいは儀式的な、形式上の関係であれば浅瀬で満足できていたかもしれない。
サドマゾというものをしばしば好奇心として漁っていた時があった。加虐被虐を性的に転換させるという理屈は、私の望む関係に幾らか合致しているように思えた。
しかしそうした性的趣向には若干のズレがあった。調べ、実践していくうちに、私は奉仕としての暴力を好んでいるわけではなく、極めて単純な、暴力性を伴う交わりに扇情される事が明らかになったのである。サディスティックな願望こそあれどマゾヒストありきの茶番にはまるで興を削がれるばかりで滑稽にすら見えた。どちらかといえば強姦の方がしっくりとくるのだが、とはいえ強姦も主たる目的は性行であり、時には穏便に終わる事もある。強姦魔はあくまで射精による快楽を得たいがための行為であるのだから、やはり私とは違う。私にとって性行は暴力の代替行為に過ぎず、また付随品でしかなかった。人体に傷痕をつける事が至上の喜びであり、女に欲情するのは副次的な、芸術作品を見て漲る感覚と同じであった。
暴力を芸術作品と比喩するのは些か倫理観に反するし、私自身も実際にはそこまで高尚なものであるとは思っていない。端的に述べれば悪癖であり、唾棄すべき悪徳である。
その証拠に、白と赤に染まったトワの姿は酷いものだと思った。床に垂れた脂肪は腐食して溶解した内臓のようで薄汚かったし、あらゆる体液の混ざった臭いは汚物のそれである。一点においても美に感じる部分はなく、どう転じても醜悪そのもの。これは無論、対象がトワである為に演出が過剰に悪趣味となっているのだが、相手が誰であれ似たようなものだ。暴力は、血は、傷は、全てが不完全の象徴であり、芸術とは対極に位置するものである。それを欲する私もまた、酷く歪な人間であるのは言うまでもない。
しばしの放心から我に帰る。
寝息を立てるトワを見る。
再び、みるみると嫌悪と悪意と淫逸の気配が濃厚に生じ意識を奪われる。私はトワの頰を無理矢理叩いて起こし、首を絞めた。トワは声も上げず薄ら笑いを浮かべ、恍惚としていく。程なくして、重い雪が落ちるような音が聞こえた。それは彼女の蜜壺から溢れたものであった。トワは、私にこうされる事でしか幸福を感じられない、哀れな女であった。
「俺が食った左目は痛むか」
手の力を緩めそう問うと、しわがれた声で咳き込みながら、彼女は答えるのだった。
「うん。その度に、貴方を、思い出せるの。素敵、でしょう」
その瞬間に彼女は絶頂に達しシーツに落ちる淫液の音が早く、激しくなった。それは、彼女の左目を潰した時と同じ音であった。
彼女の左目がないのは私が奪ったからである。ある時、あまりにも私を見るものだから癪に障り、殴った後に「次同じような事をしたらその目を食ってやる」と脅したのだ。するとトワは「どうぞ」と、じっとこちらを見据えたのだ。
私は著しく忘我し、精神が理知の及ばぬ領域に至った。彼女の左目に指を差し込み眼球を引き出すと、それを口に含み、そして……
「あの時ね。私ね。私ね。凄くね。凄く凄く痛くて、気持ち良くて、幸せでね。貴方を、ずっとずっとずっと感じていられたの。ねぇ。ねぇお願い。お願いがあるね。私ね、右目も、貴方に右目も食べて欲しいの。ねぇ。お願い。お願い。私の右目を。お願い。ねぇ。食べて。潰して」
艶やかな絶叫を響かすトワは本気でそう懇願をするのだった。
思い出される彼女の左目の味。舐めた時に感じた涙液。ガラス玉でもなく、ゼリーでもない舌触り。弾力を持つ柔らかい結晶を噛み潰すと、じゅるじゅると溢れだす房水。伸びている管を引きちぎるとみるみる血溜まりが作られ、秘部から止め処なく排出される尿が混ざった愛液の臭いが鼻をつく。陶酔した表情で失神するトワを見て、不可逆性なる欠損を自身が与えたのだと(妙な表現だが)心が躍動し、私は唾液を落としながら大量の白濁を催したのだった。
あの時と同じ快楽を得られると思い、想像すると、それだけで自慰に等しい効果があった。先走る精の熱が、下腹部に伝わる。
だが、それはトワとの心中を意味していた。その覚悟が、私にはなかった。
「帰る」
私はトワから離れ、シャワーも浴びずに服を着た。その間彼女は黙って座っており、時折クスクスと笑うばかりで、何もしなかった。
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