第8話

 ビールを二、三杯飲むと正気と狂気が入り混じって不明瞭となりますますおかしくなっていくのだった。何もかもがどうでもよくなり、どうにでもなれという自棄が起こる。心地の悪い浮遊感が酔いを加速させ、雑音が刺さり煩わしい。このままでは良くないと店から出る。

 再び曇天の元に立つと、外気と臓腑から発するアルコールの臭いとが混ざり不気味な感じがした。急に心細くなり、震える。この世界において私は不純物であり不要な存在であるように思えて仕方がなかった。どこかに私の存在した痕跡を残したくなり、道ゆく女を無差別に襲ってやったらどうだろうという犯罪的な悪心が芽生えたところで我に帰り安い酒を吐き出す。すると、今度は地面に吸い込まれるのではないかというくらいに身体が重くなって動けなくり、終いには電柱に寄り掛かって固まってしまった。目に見える道や建物が灰色で味気なく、自分の手を見ても同じく死んだネズミのような血色をしていて、このままみんは塵芥となり風に飛ばされていくのではないかと、もしそうなったらなんと素敵だろうかと、吐き気を催しながらも笑う(定かではないが、少なくとも自分の中ではそうしていた)のだった。私は目の前にある自分の手を、ちょうど親指の付け根あたりかに噛みつき舌を這わした。肌が弾け、じわり血が広がって口から漏れ出す。灰色に一点だけ赤が差し込まれた。熟した桜桃を連想させる赤は大変甘美に映り身悶える。この鮮血が自分のものでなかったら。他の誰かが流したものであったら。

 欲情していくのが分かった。吐き気も倦怠感も失せ、肉を求め身体が疼く。だがナナセには手は出せない。私は生涯に渡ってずっと性的に満たされずに死ぬのかと絶望し哀怒の念に涙した。


 一雫が頰を伝い乾いて土色となった血の隣に落ちた。折り重なる水滴。それがまるで達磨のように見え、ふと、トワの厚い脂肪を彷彿とさせた。醜く出た腹を蹴り潰した感触が蘇り、昂る。


 ナナセが、あいつが悪いのではないだろうか。ろくに相手もせず、たまに抱いたら子を孕み、あげく「子供が怖い」などとのたまうのだから、私に不満が出るのは当然ではないか。


 本気でそんな事を考え始めるのだから余程危うい状況であったように思う。この時私の脳はもう原始的な構造に切り替わっていてしまったのだろう。自制も規律も効かず、早く渇きを潤したいという獣の思考しか持ち合わせていなかったのだと今なら分かる。


 だからかも知れない。

 彼女を見て、初めて美しいと感じたのは。



「どうしたの。こんなところで」



 トワが私の前に立っていた。

 茶焦げた右の瞳で、私を見ていた。


「どうでもいいだろう」


 私はそう吐き捨てたのだが、トワから目を外す事ができなかった。

 嗜虐心を唆られる彼女の艶めいただらしのない身体を欲してしまっているのだ。


「本当に? ねぇ。本当に、どうでもいいの?」


 トワの声が頭に響き、こびりつく。手から滴る血の音が徐々に加速していき、近くなったり遠くなったりして定まらない。糸が絡まったようなグルグルとした意識が解かれ、張っていく。まやかしに近い誘惑に誘われるまま、私は赤く染まる手で彼女の腕を掴んで歩き、道すがらに見たホテルへと連れ込んだのだった。


「好きよ」


 部屋に入った途端、そう言って押し付けてきたトワの唇からは妖艶な味がした。ずっと待っていた、求めていた、欲していた、唾棄すべき忌々しい味を、彼女から感じた。


「俺は嫌いだよ」


 唇を離し、彼女を殴り、服を脱がし、あるいは破り、溶けた餅を思わせる肌を露出させるとそれを痛めつける。皮膚が赤く変色し、出血さえ伴ったがトワは嬌声を上げて悦び、蜜壺を濡らす。


「ねぇ。私、貴方が好きよ」


 度し難い戯言に耳を傾ける気もなかっし返事もしたくなかった。私は欲望のまま彼女を襲い、犯し、傷をつける。乳房を容赦なく噛み、拳を何度も乱暴に出し入れし、頬を叩き、皮膚を裂き、髪を引っ張り、首を絞め、ついには絶頂を迎えた。全身の毛穴が開くような感覚はしばらくぶりで、天の片隅を見たような気がした。白濁は容赦なくトワに排出され股座は紅白が入り混じっていた。肩で息をする彼女の意識があるかどうかは定かではなかったが、空を見つめる右目から快楽の余韻が読み取れた。


 マリア像にひびを入れるような背徳的な悦びに、臓腑の奥まで痺れが渡る。だがそれは、あまりにも危険であり、また恐ろしくもあった。


 禁忌に近付けば近づく程に人は法悦を感じ神秘に酔う。だが、一度呑み込まれてしまうと……


「ねぇ。好きよ。貴方」


 それは何度も聞いた言葉である。

 だが、それはあまりに……

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