第7話

 帰宅するとやはり「お帰りなさい」とナナセが出迎えてくれた。昼食を準備してくれたようで油の焼ける匂いが漂っていたのだが、生憎と食欲はなかった。


「お昼を作っていたんです」


「いただこうか」


 それでも彼女が用意してくれたものなのだから食べぬわけにはいかなかった。私はいつものように「美味しいよ」と賛美し、機械的に黙々と料理を口に頬張る。確か、卵焼きや魚を焼いた物を出してくれたような気がするがちっとも覚えていないのは、この時の精神状態も去ることながら、この後彼女が口にした言葉が、私に一切の情報を記憶する余地を与えなかったからだと思う。


「あのね。赤ちゃんが、できてしまったかもしれません」


 箸が止まり、彼女を見る。悲しそうに、助けを乞うような彼女をじっと見据える。


「めでたいじゃないか」


 まったく軽薄にそう言った。事実ちっともめでたいだなんて思っていなかった。子供など、育てられる気がしなかった。私が私自身の面倒をみられていないのにどうして子供の世話などできようか。泣いて喚いてわがままを言われても私にはどうしようもできないだろう。要らぬ不幸が生まれるだけだ。

 しかし明け透けにそんな冷酷を話すわけにはいかず、呼吸を整えて平常となるよう努めた。箸を置いてナナセを見つめる。混乱の最中であったが、少なくとも対面だけはいつもと同じように映っていたように思う。


「いつ分かったんだい?」


「今朝、貴方が出入った後に……」


「そうか。なら、まだ病院で診てもらってないんだね?」


「はい」


「なら一緒に行こうじゃないか。検査薬なんざ当てにならないっていうし。ちゃんと先生に診察してもらおう」


「はい」


「藤先生の所がいいだろう。休みの日でも頼めば観てくれる。後で電話をしてみる。それとも、君が自分でした方がいいかな」


「はい」


 ナナセは上の空で、気の抜けたように相槌を打つばかりであった。他でもない自分の事だろうに映画でも観ているような顔をして淡々と返事をしていくのだ。彼女がいったい何を考えているのか想像できない為か、私は怒りを伴う不安に駆られ、つい声を荒らげてしまった。


「なんだいさっきから生返事ばかりで。君、自分の身体の事だってのを自覚してないみたいじゃないか」


 身重にさせた本人の言う台詞ではない。しかし、公園で見た空虚への入口と缶コーヒーにより気が狂れかけていた私は感情の整理ができず、当たり散らすように接するしかなかったのである。


「そういうわけでは、ないのですけれど……」


 そんな私に反論もせず、ナナセは同じ調子で声を落として何か言い淀んでいる素振りを見せた。


「じゃあどんなつもりなんだい。言ってみなよ」


「私、怖くって、私なんかが親になってしまうのが怖くって、どうしたらいいか、分からなくって……」


「どうしたらいいというのは、生む以外に選択肢があるという事かい?」


 私は最低な言葉を吐いた。堕胎も視野に入っているのかと聞いたのだ。

 それならはっきり「殺しちゃえばいいじゃないか」と口にすれば済む話だ。それをわざわば周りくどく、知りませんと言ってナナセの口から子殺しの意を発するよう仕向けるというのは随分卑劣な行いだった。


「……貴方は、どうしたらいいと思いますか」


「君の好きなようにしたらいい」


 卑怯な私はそれだけ言って再び外へ出た。二人しかいないのに息がつまりそうな部屋から、彼女と向き合わなければならない現実から逃げたのだ。しかしやはり行き先などない。冷たい風が吹く中、私はまた当てのない散歩をしなければならなかった。


 曇天からは一筋の光も刺さず、鬱屈とした灰色が覆っている。とにかく気が重く、焦り、何かに苛々して、感情だけが自分から乖離し暴走しているようで、ナナセが感じている恐怖も似たようなものなのだろうかと思うと、余計にどうしたらいいのか分からなくなり、私は酔っ払ってしまおうと昼から酒を出してくれる店を探し、ひたすら歩いたのだった。気が付けば妙な店で不味い酒を飲んでいた。どの道をどう辿ったのかまったく分からなかった。ただ進むだけで精一杯だったし、飲むだけで苦しかった。

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