第5話

 その翌朝はナナセからとうとう離別の話しを切り出されるだろうとを覚悟していたが、当の彼女はあっけらかんとした様子でいつものように「おはようございます」と私を迎えてくれたのだった。


「……あぁ」


 気の抜けた返事をした。「昨晩はすまなかった」と言うつもりが、一寸意気地を欠いた。

 ともすればあれはトワと出会ったせいで情緒の均衡を逸した私が脳内で描いた幻想ではなかったかと途方もない観測をしてみたが、手や首筋に見られる、彼女の肌に刻まれた鮮やかな暴虐の痕を見にするとそんな楽観は泡と消えた。私は間違いなくナナセを犯し、傷をつけたのだ。突飛な夢幻は現実へと帰結し、私は取り返しのつかぬ愚行をしたと嘆かずなにいられなかった。このまま黙っていては一生の後悔を引きずる。生涯ついて回るであろう負い目を回避するには改めて意思を正し、誤ちを認めねばならなかった。


「ナナセ。昨晩は申し訳ない事をした」


 罪の意識から逃れたい一心で許しを乞う。それが如何に偽善的で身勝手であるか十分に理解はしていたが、贖罪の魔に取り憑かれた私は浅ましく卑しい劣等な人種の常を模範せざるを得なかった。つまりは、相手の許しが前提の謝罪である。誠意の籠らぬ独り善がりな弁明を繰り返さなければ、ナナセの口から容赦の弁を聴かなければ私の小心が押し潰れ、憎しみを堪える事が出来なかったのだ。


「昨晩……」


 手にした盆を抱え悩む素振りがどこか白々しく見えた。気を遣っているのか、それとも時間をかけて追い詰めようとしているのか。彼女の妙な態度に、腹の底がくすぐられる。


「君に乱暴をした事だ」


 はっきりと声に出して罪状を供述する。喉の渇きから言葉はかすれ、語尾が潰れてしまって無様だった。私はその醜態を恥だと認識していたし、こうなったのも自らに責があると自覚もしていた。そしてもしナナセが許してくれるのであれば二度と彼女に手を出さないと心に決めていた。同じ轍を踏まぬよう、今後は自身を律し、絶対に欲望の吐口として彼女を利用せぬよう誓おうとしていた。二人で共に健やかな生活を送り、そして死のうと、死ぬまで穏やかでいようと、いたいと、いなければならないと、確かに思ったのだ。

 私がここまで苦心していたのは、一重に平穏への願望があったからである。私の身に宿る獣は確かに血を好むのだが、私自身はいたく小心であり狭量。何かに恐れながら生きていたり怯えたりするのが大変に苦痛で、心休まらぬ時を作るのを良しとはしなかった。何時においても安らかであり穏やか心持ちでありたかったし、ナナセとであればそれが可能だと信じていた。私は彼女との退屈な日常こそが幸福であると疑わなかった。私は平穏で意味のない、朽ちていくだけの人生を、心底から切望していたのだ。


「あぁ。そんな事。いいですよ。気にしていませんもの」


 それ故にナナセのその言葉に私は喜び安堵した。一切の変哲を持たない、意味のない生を得られると狂喜したのだ。


「本当かい? 本当に許してくれるのかい?」


「えぇ。だから、そんな深刻そうな顔をしないでください。一緒にご飯を食べましょう」


「あぁ。食べよう。食べようとも」


 ナナセが用意した食事を貪り、私は「美味しい」と無闇に賛辞した。本当は味など分からないどころか、何を食べているのかすら理解できていなかったのだが、とにかく彼女を喜ばそうと、ご機嫌を取ろうと必死に美辞麗句を並べ立てた。


 ナナセは私の一言一言に、律儀に「ありがとうございます」と 返した。それが可愛らしくって愛らしくって、聞いているだけでなんとも言えぬ充足感に浸る事ができていたのだが、その満ち足りた心に彼女を軽視する卑劣なエゴイズムがあると、私は気付いていなかった。

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