第4話
目指す建物は、高速道路の下にあった。高架の上では、騒音をあげながら自動車が行き交っていて、側を流れる川沿いには、ひっそりとラブホテルが立ち並んでいる。そのせいか民家はあまり建っておらず、日が変わる時刻にもなれば、周囲は全体的に薄暗かった。所々切れかけた街灯を通り過ぎていくと、ホテルのネオンサインから少し離れて、〈スタジオ アルファ〉という文字が浮かび上がってくる。
僕は辺りを警戒しつつ、音をたてないように自転車を押していった。まだひんやりとした夜の空気に混じって、排気ガスの匂いが鼻をつく。やがて目的の場所に近づくと、建物の裏手に広がっている空き地に、自転車を隠すように横たえた。そうして身を屈めて表に回り込み、まず外から中の様子を窺った。
自動ドアのガラス越しに受付のカウンターが見える。ニット帽を被った男の人が、デスクトップパソコンのモニターを眺めていた。僕は周囲に人がいないことを確かめると、制服の胸ポケットから豆粒大のシールを取り出し、中腰のまま自動ドアに近づく。
ドアが開いた。すかさず僕はガラス側面下部に見えるセンサーに、シールを貼り付けて、またすぐに物陰に身を隠した。
ドアは開いたままである。シールを貼り付けたところにはセンサーがあり、そこを塞げば扉が閉まらなくなるのだ。ニット帽の男が出てきて、ドアをいじくりまわした後、首をかしげながら店内に戻っていく。
異常の原因は分からなかったのだろう。この時間では修理業者も来ない。手動で閉められることも知らないらしく、しばらく様子を見ていても、ドアは開きっぱなしだった。
今のうちである。僕は再び周囲を確認してから、四つんばいになって出入り口に這い寄った。カウンターの死角を利用して店内に入り込み、待ち合い所も通り抜けると、トイレの前まで辿り着いた。ここならばニット帽の男からは見えない。
まだ目的地には辿り着いていない。廊下の奥にある扉に向かい、重々しいノブを回すと、もう一枚扉が現れた。防音のために二重になっているのだ。音をたてないように気をつけながらそれも開け、体を滑り入れて扉を閉めた。中は真っ暗だったが、スマホのライトで照らすと、ドラムセットやギターアンプなどが並べられているのが見えた。一番大きなアンプを少し動かして、壁際に身を隠す。
ひとまず潜入成功だ。思わずため息が出る。リュックサックを肩から外し、チャックを開けて中から教科書を取り出した。自然にいつもページが開く。緊張をほぐすためにも、島崎美久の絵に話しかけられずにいられなかった。
「なんとか中に忍び込んだよ」
「お疲れさま。しばらくは待機ね。あいつらの動きがあったらすぐ知らせるから」
「了解」
彼女がいなくては今回の作戦は成し得ない。島崎美久の絵は顔を俯けて、胸元に構えたスマートホンを見ている。その機種の裏側についた傷跡は、特定の人物の所要物であること示していた。
西園寺亮のスマホだ。彼の持ち歩いているものを盗み見て、試しにそっくりに描いてみたら、現物と全く同じ物として機能したのである。もちろん絵の中の島崎美久しか操作できないが、メールやメッセージアプリも使えるし、ブラウザでネット検索もできるようだ。ただし、過去のメール内容は記憶していないらしく、そのあたりに、島崎美久の絵が自分自身のことを誰だか分からない事との関係があるのかもしれない。
本物の島崎美久のスマホも模写した。罪悪感を感じたが、本人を助けるためであるし、島崎美久の絵しか使えない。それらを利用して、トイレで話していた件を調べた。どうやら西園寺はとんでもない悪党らしく、これまでにも何人もの女生徒を毒牙にかけているようだった。共犯者も地元の先輩や後輩等、複数いることも分かり、今回の悪事について全て明らかになったのである。
奴らはやはり島崎美久を襲うつもりだった。過去の犯行にも毎回使われているのが、仲間がアルバイトをしているリハーサルスタジオで、そこを深夜から朝まで借り切り、バンド練習の見学と偽って女の子を呼び出して、防音設備が整っているのを悪用して、惨劇の場にしているのだ。これ以上の被害者を増やさないためにも、なんとかして凶行を阻止しなければいけなかった。
もちろん警察に言おうかと思った。けれどもそこが西園寺の恐ろしいところで、自分はけして捕まらないように、何人もの身代わりを用意しているらしかった。その巧妙な仕組みは悪のシンジケートのようで、今回の件にも彼は出張ってこない予定だったらしいのだが、本物の島崎美久のスマートホンも模写し、それらを利用して偽のメッセージを送りつけ、参加せざるを得ないように仕向けたのである。
まず何よりも優先するのは、本物の島崎美久の安全だ。西園寺に騙されて、すっかり彼を信じ込んでしまっているのを目の当たりにするのは辛かったが、かえってこちらはやりやすくもあった。やはり西園寺を装って、今日の待ち合わせは延期になったとメールした。
その代わりに行くのが僕である。奴らの計画によれば、まず西園寺が島崎美久と二人きりになり、力ずくでものにしてしまった後、仲間もお相伴に預かるという計画らしかった。それを逆手にとって、奴を痛い目にあわせてやろうと思ったのだ。
そのあとはどうなるのかという不安はある。けれども頭を潰してしまえば、他の連中も無力化してしまうのではないかという目算もあった。もしも袋叩きにあったとしても、西園寺を叩きのめせすことができれば本望である。
「来るわよ。島崎美久のスマホから西園寺に、先に部屋に入ってるってメッセージを送ったから」
心臓が宙返りをうった。人を殴るなんて初めてである。しかし臆することはない。これは正義の戦いなのだ。勢いあまってもしものことがあったって、きっと歴史が味方してくれる。手加減なんてしなくてよい。
僕はアンプの陰からいったん出て、ドラムセットの後ろに行った。そこに教科書を置いて、また元のところに隠れる。そうして敵を待ち受けた。地の底みたいに静かである。スタジオの受付を通らなかったので、訝しんでいるのか。しかしやがてノブの回る音が響いて、分厚いドアが押し開かれ、西園寺の声が忍び入ってきた。
「美久ちゃん、いるの?」
「いるわよ。でも明かりは点けないで。お願い」
「分かったよ。でも君のほうからこんなことをするなんて意外だね」
「どういうことになるかなんとなく気づいてたもの。早く入ってきて」
西園寺が微笑むのが分かった。ドアを閉める音がして、島崎美久の絵の声に誘われるまま、すり足で歩いていく。僕もその音に合わせて、物陰から出て奴の後を追う。
西園寺がドラムセットに辿り着いた。ぐるりと一回りしたが、なんの人影も無い。そこで生物の教科書に気づいたらしく、拾い上げようとした。
そこで僕は飛びかかった。後頭部を殴りつけようとしたが、いきなり段差につまづいてしまい、西園寺の体に抱きつくように倒れ込んでしまった。島崎美久が抱きついてきたと思ったのか、相手は鼻息も荒く襲いかかってきて、手もなく抑え込まれてしまう。
全く抵抗できない。思ったよりもはるかに力が強かった。考えてみれば勉強もできて運動神経もよい男に、僕がかなうわけがない。単純なことを見落としていたと後悔したが、すでに取り返しがつかなかった。揉み合う内にいつのまにか、服を剥ぎ取られていた。恐ろしくて声も出ない。これなら袋叩きにされたほうがましだったと観念した時、ぱっと部屋が明るくなる。
「西園寺君」
本物の島崎美久だった。なぜここにいるんだと思うまもなく、彼女は身を翻して部屋を出る。西園寺の力が弱まったので、僕は振りほどいて島崎さんの後を追った。悪い奴らに襲われるかもしれない。
部屋を飛び出した。けれども島崎さんの姿は既になかった。受付の男の姿も見当たらない。助けに行かなければと、島崎さんの名を呼びながら駆け出した。すると背後から何者かが飛びかかってきて、僕を抑え込む。さては西園寺が追ってきたのかともがいたら、紺色の帽子と服で身を固めた男だった。
「おとなしくしろ」
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