第3話
帰りのバスが来るまで、僕はいつもトイレの中で待っていた。放課後すぐの便は、当然のように生徒たちが殺到するので、バス停は電線に雀の群れがとまっているような騒ぎになる。僕は舌を切られているようなものだから、とても一緒にいられない。だからその日の授業が終わるなり、校舎の外れにあるトイレにまっすぐ駆け込んで、さも直前まで用事があったかのように時間ギリギリに滑り込むのだった。
便座の温かさが身に染みる。うちは洋式ではあるものの旧式なので、昼休みもいそいそとやって来て、お弁当を食べているぐらいだ。ウォシュレットのコンセントがあるからスマホも充電できるし、食べることや用便はもちろん、その気になればお風呂だって済ませられそうだ。
ただ一つだけ、ここでだってできない仕事があった。僕はトイレのドア内側のフックにかけてあるリュックサックから、生物の教科書を取り出した。授業があってもなくても、常に持ち歩いている。目当てのページは目分量でひらけられた。
余白は真っ白だった。見たところ何も描いていないように見える。けれども僕は彼女に聞こえるように、小声で呼びかけた。
「島崎さん。授業が終わったよ。いつものトイレに来てるんだけど、ちょっといいかな」
そうすると白一色だった余白が、モノクロのストライプのようになり、線が片一方に寄り集まる。それはカーテンが開かれる様子そのもので、余白にはにわかに部屋の中を描いた絵が広がった。3Dゲームのような視点だ。
室内はとてもきれいである。おしゃれな女の子の部屋といった感じで、一通りのものが揃っている。カーテンを開けてくれた島崎美来の絵が奥に歩いてゆく。ソファベッドに腰掛けて、テーブルの上に置いていたコーヒーカップを取り、飲み物を一口すするとほっと息を漏らした。
「おつかれさま」
僕もほっとした。もう既に自分の絵が生きているという状況に慣れたばかりか、彼女と話さなければ気がすまないぐらいだ。同い年の女の子の部屋を見たことなんて現実ではないから、まるで同棲でもしているみたいな気分にもなれた。
もちろん島崎美来の絵と僕は、生きている次元が違う。彼女はけして絵の中から出ることはできないし、教科書のこのページが世界の全てだった。絵の中ならば、自由に動き回ることができて、変な言い方だが平面だけれども奥行きもあるようだ。テレビに映っている人物のように、拡大や縮小して見えるのだ。その広さというか大きさは、次元が違うのでよく分からないが、無限のようにも思えた。
しかし広さはあるが物がない。ページの余白でない部分には、教科書の本文と内容に沿ったイラストや写真が載っているのみなので、僕が彼女の欲しいものをどしどし書き加えていった。人間が動き出すぐらいだから、無生物も大丈夫のようで、家具や日用品は普通に扱えるらしかったし、食料品もおいしく食べているし(味の感覚はむろん違っていただろうけど)、電化製品なんかも動いていた。とりわけすごいのがテレビで、ちゃんとこちらの世界と同じ番組が流れており、音声もちゃんと出た(ただし他の紙に同じテレビを描いても、それはただの絵でしかなかった。どうやら島崎美来のためにと思って描いた時ではないといけないらしい)。
携帯電話やパソコンなんかもたぶん使えるようになるだろう。そしてひょっとしたらこちらの世界とインターネットを通じて通信できるようになるかもしれない。けれども彼女は特に欲しがらなかったし、僕のほうは全く必要を感じなかった。こうして顔を合わせて声も聴けるのに、どうして電話やメールをする必要があるだろう。ましてや彼女とは、けしてそれ以上の接触は望めないのだ(そう考えると、彼女がインターネット通信を行う上での危険はないことになる。ネットなんてそれだけのものなのだ)。
しかしはたして本当にそうなのだろうか。無い知恵を絞って、彼女と現実に会える方法がないか色々と考えてみた。まずこの絵を元に彫刻が作れないかと思ったが、むろんそんな技術はない。同じ発想方法で、3Dプリンターで立体化すればいいのではないかとも思いついたが、これもやはり特殊な技術がないと無理である。そもそも彼女の絵を完璧に再現したところで、それにも生命が宿る可能性は低い。だいいち絵が動くようになること自体がありえないのだ。
発想を逆転させればいいと思った。平面を立体にするのではなく、三次元を二次元に変換させるのだ。つまり僕が彼女の世界に入れないかと考えたのである。思いついたきっかけはある小説で、作り物の絵に恋をした男が、絵の中に自分も入ってしまうという話だった。その方法というのは、望遠鏡を逆さまにして自分の姿を覗かせるという不思議なものだったが、僕なりの具体的なやりかたがある。
しかしそれは無駄なことだと分かっていた。たとえ絵の中に僕自身の姿を描き入れて、画が生命を持ったとしても、こちらの世界にいる僕はそのままで、二次元と三次元で同時にかつ別個の存在として成立するであろうことは確実だった。なぜならば他ならぬ島崎美来こそが、それを証明しているからである。
誰かがトイレに入ってくる物音がした。僕が目くばせをすると、島崎美来の絵はカーテンを内側から引き、教科書の余白は真っ白になった。僕は本を閉じて息をひそめる。ここは個室になっているので、ドアを開けようとされない限り、中に人がいることは気づかれない。どうやら来訪者は男子生徒二人のようで、一人が片割れにこう聞いているのが聞こえた。
「島崎とはうまくいってる?」
思わずどきりとした。しかしもちろん僕に聞いているのではないし、島崎というのも教科書に描かれた絵のことではない。
島崎美来本人のことだ。彼女は現実に存在しているばかりか、僕のクラスメイトだった。しかも同じクラスの男子生徒と付き合っていおり、彼は学校に首席で入学したという噂で、容姿も端麗であり、なおかつ名前も西園寺亮というなにやらかっこいいものだという、男ならばなるだけ傍に近寄りたくないという奴だった。それはたとえトイレの中だろうと同じことである。自分の体を便器に流し込んで消え去りたいような気になりながら、西園寺君の声に耳をすませた。
「いまいちだな。今回はやたらガードが固いんだよ」
ざまあみろと思った。今回は、という台詞が気になったが、まだ島崎さんの純血は守られているらしい。すると相手の生徒が下品な笑い声をあげた。
「じゃあさ、いつもみたいに呼び出してやっちゃおうよ」
「いいよ。もうそろそろ飽きてきてるしね」
「やったぜ。あいつらにも声かけとくわ。今晩メールする」
「分かった」
そう言って、彼らはトイレを出ていった。もちろん僕には何のことか分からなかった。しかしながら何か不穏なことが行われようとしているのは分かった。
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